投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『世の中安穏なれ』

今月の

「世のなか安穏なれ」

という言葉は、親鸞聖人750回大遠忌法要に向けてのテーマとして掲げられている言葉です。

国の内外に争いの多い今日、そしていよいよ珍しくなくなってきた日本の銃社会。

まさに、怖い世の中にある現代に、聖人の言葉が時代を超え、今を生きる私たちへの痛烈な警鐘として、響いてきているような気がします。

この「世のなか安穏なれ」とは、宗祖親鸞聖人が晩年、門弟の性信房に宛てたお手紙の一節に出てくるお言葉です。

実は、この言葉の後には続きがあり

「仏法ひろまれかし」

と述べておられます。

したがって、如来さまのはたらきの上にあるお互いであることを、まず私たちは忘れてはなりません。

「世のなか安穏なれ」

と願われた親鸞聖人のお心の根底を成すものは、如来さまの計り知れない智慧と慈悲のはたらきに照らされ、包まれ、導かれて生きることにあったことでしょう。

如来さまの心、仏法に包まれる日暮らしにこそ、ご恩をよろこぶ源があり、おかげさまといただく人生が開かれていくのです。

いがみ合い、争い合い、悪者を探し出して攻撃するところには、世の安穏などありません。

仏法に照らされ、共に凡夫であるという自覚に生きるところにこそ大きな意味があります。

おかげさまと歩む姿となる時、親鸞聖人の願われる世の安穏が現成されていく力となるのでありましょう。

「ウチナーユー(沖縄世)、アメリカユー(アメリカ世)、ヤマトユー(日本世)」(上旬) 違和感を覚える

======ご講師紹介======

 北村昌也さん(真常寺住職)

☆ 演題 「ウチナーユー(沖縄世) アメリカユー(アメリカ世) ヤマトユー(日本世)」

昭和十八年旧満州ハルピン生まれ。昭和四十年大学卒業後、プリンスホテルに入社。東京プリンスホテル、高輪ブリンスホテルに勤務。

昭和五十五年に広島仏教学院を卒業され、昭和五十九年に沖縄で読谷布教所を開設。平成二年に寺号公称、浄土真宗本願寺派真常寺住職。

また沖縄刑務所教誨師も務めておられます。

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 沖縄差別ということが言われていますが、これは実はウチナーユー(沖縄世)でない時代という意味です。

沖縄の時代でない時代というのが、常に沖縄差別ということを言われるのです。

ですから、何とか沖縄の人の世の中にしたいんです。

沖縄では何かあるとすぐに、沖縄独立運動というのが起こるんです。

確かに現在は日本国沖縄ですが、戦前は日本国民にするために皇民か教育というのが行われました。

しかし、今はそういうことは出来ませんので、同化政策というのが静かに進行しているんです。

 最近出た沖縄の新聞に

「九十年代半ばからの米軍基地問題を必死で訴える沖縄の声が、日本政府・ヤマト社会にほぼ無視されたのを目の当たりにし、沖縄と日本の距離感を歴史としてではなく現実の問題として感じる」

とありました。

そして「天皇の古稀を祝う」という行事があった時に、全国の歌と踊りが奉納されたそうですが、その中で沖縄の歌と踊りも行っているんです。

その理由として、皇后が日本古来の生活や農耕・漁業にまつわる踊りを是非見たいということで、日本全国から歌や踊りが奉納された。

この新聞記者は述べています。

「いつから沖縄は日本古来になったのだろうか。非常に違和感を覚える」

これが沖縄の人の実感ですね。

 今、沖縄を日本と同じにしたいという動きが多くある訳ですが、その一方沖縄の中では「異化政策」、つまり沖縄独特の文化を守っていこうという動きがあります。

「同化政策」というのは何かというと、端的にはお金をちらつかせて何とか言うことを聞かせようというものです。

その中で、沖縄の人たちも必死になってヤマトになろうとしてきたんです。

その一つが方言をしゃべらないこと。

戦争中には方言をしゃべると殺されるということがあったのですが、復帰後も小学校では方言札というものがありまして、方言をしゃべると罰としてこの札を一日かけなきゃいけない。

このように共通語を話すという動きの中で、方言がだいぶ失われることになっていきますが、言葉というのは文化そのものなんですね。

これをなくすというのは文化をなくすということなんです。

「大山のぶ代の おもしろ人生あれこれ」(下旬) 一世代飛び越す

 私は二十六年間も「ドラえもん」をやったおかげで、自分の子どもは一人も持てなかったけど、日本中に子どもがいます。

どこへ行っても「ドラえもん」のお姉ちゃんと言ってくれますが、そのたびに私は

「あなた達のお母さんより年上だから『ドラえもん』のおばあちゃんなのよ」

と言うと、

「いや、『ドラえもん』のおばちゃんだよ」

と言ってくれます。

 みんないい子たちだなぁと思いますし、しかも「『ドラえもん』のおばちゃんへ」というお手紙がいっぱい来るんです。

私は自分の子どもを産めなかったけど、私にはこれだけの数の子どもが日本中にいると思うと、とても元気になるんです。

 しかし、その子どもたちは両親とも仕事を持っている。

ご飯もてんでバラバラに食べる個食の時代になってしまった。

子どもたちは、ご飯の時に大人がしゃべっていることを聞いて、いろんなものがその子どもの中に残って行くのに、もったいないなぁって思うんです。

 たまたま八百屋さんでシイタケを買おうとしていたら、とっても可愛らしい大学生ぐらいのカップルが来たんです。

すると女の子がシイタケを取って、「これどうしようか」なんて言っていたら、男の子が

「シイタケみたいなきのこ類は、全部周りに菌が付いているから洗っちゃいけないんだよ。

軽くフキンで拭くだけですぐ料理していいんだよ」

と教えると、

「汚いじゃない。どんな所に生えていたかわからないのに」

なんて女の子が言い返しているんです。

 私はそばで聞いていて、男の子の味方をしたいと思ったんですけど、男の子も負けていなくて、

「うちのおふくろがそう言っていたよ。

シイタケとか他のきのこ全部そうなんだって。

その菌に旨味があるから、それしっかり洗っちゃったらもったいないんだって」

と言ったら、女の子も納得したんで、口出ししなくて良かったと思ったんです。

 そんなことを代々しっかりと親が伝えてくれる。

だけどその親はいま共働きで忙しくて、子どもと年中いっしょにいる時間が少ない。

その時に、私たち老人がパワーを出すべきだと思うんですよね。

日本に限らず世界中も、とにかく人類の文化というのは、親から子へ伝わるものではないと思っているんです。

なぜなら、親は子育ての大変なさかりで、生活するために一生懸命働かなくちゃいけない時期です。

だから、子どもにかかわる時間が少なくなる。

 ところが、ある程度の年になって引退し、時間もあって好きな遊びとか自分の趣味に生きようなんて思っているおじいちゃんおばあちゃんは、長く生きてきた間にいろんな知惠を身に付けている。

その人たちが孫と仲良くして、面倒を見ながら自分の持っているすごいものを一世代飛び越して教えておけば、孫はまた一世代飛び越してというように、ちゃんと日本の文化は伝わっていくと思うんです。

『正座がきついのですが…?』

正座が長時間にわたると、足はしびれ身体には負担が掛かり、確かに苦痛を伴いますね。

近頃は椅子が用意されてある本堂も増えてはいますが、しかしご自宅で法事等されたり、またご本山にお参りをしますと畳に座ってお勤めをします。

座り慣れることも大切ですがどうしても限界があり、また無理をすると足を骨折したりといったことも事実としてありますので、法要の最中に足を崩して良いものか、気になるところですよね。

正座は確かに仏前のお作法として規定があります。(注)
しかしながら健康上の理由により中には正座をすることが出来ない方もいらっしゃいます。

必ず正座ということもないのでしょうが、本堂やお仏壇の前では出来る範囲の中でやはり姿勢を正したいものです。

無理をしない程度に、お勤め中絶えず正座とまではいかなくても、せめて始まりと終わりは正座をして襟を正し、背筋をピンと張って合掌礼拝をいたしましょう。

(注)浄土真宗本願寺派『法式規範』

『あたり前の中に 大切なことがある』

今年の1月下旬、文部科学省が実施した全国の小・中学校の学校給食に関する実体調査で、2005年度の滞納総額が22億円を超えていたことがわかり、そのことがテレビ・新聞で大きく取り上げられていました。

報道によれば、文科省が実体調査を行ったのは、滞納が目立っているとの指摘が各方面から寄せられたためだそうです。

また、児童・生徒数から計算すると、100人に1人が滞納している結果になるのだそうで、確かに指摘がなされるのもわかるような気がします。

 ところで、驚いたのは滞納原因として約60%の学校が

「保護者の責任感や規範意識」

をあげ、やむを得ないと思われる

「保護者の経済的問題」(33%)

とする見方を大きく上回ったことです。

もちろん、経済的に余裕があるにもかかわらず払わないのか、困窮していて本当に払えないのか、家庭に立ち入って資産状況を調べる訳にはいかないので、その線引きについては難しい面もありますが、少なくとも学校側は滞納家庭の3人に2人は

「払えるのに払わない」

ケースだと考えているようなのです。

この

「払えるのに払わない」

理由として、教育関係者は

「親が学校や教師を尊敬しなくなっている状況が背景にある」

と見ているそうですが、ささいなことで親が学校に苦情をいうケースも増えて来ており、まさに

「自分勝手な親が増えていることが、給食費の滞納額の増加と重なっているようだ」

とも付言しています。

 ではその一方で、給食費を支払っている親には何の問題も見られないのかというと、今度は

「うちの子はちゃんと給食費を支払っているのだから、給食の時間にいちいち『頂きます』などと、手を合わせて言わせたりしないでほしい」

と主張する親がいたのだそうです。

「お金を払っているのだから、食べるのは当然の権利。いちいち手を合わせて頭を下げる必要なんてない!」

ということのようですが、果たして本当にそういうものなのでしょうか。

 「お蔭さま」という言葉があります。

私たちは見える部分だけではなく、むしろ見えない陰の部分に思いを寄せて、そのご恩を心身で感じ取ることの大切さをこの

「お陰さま」

という言葉で味わって来たのではないでしょか。

捧げられた「いのち」そのものに対して、あるいは土・水・光などの自然の恩恵、そして食事を作って下さった方への感謝の思いを

「いただきます」

「ごちそうさま」

の言葉で言い表してきたのだといえます。

まさに、日々の生活においても「当たり前」と思っていることの中に、大切なことがたくさんあるのではないでしょうか。

親鸞聖人の往生観 (5)4月(後期)

だから親鸞聖人の教えは、この私に一つの善もないことを、見つめさせる表現になっているのです。

愚かな凡夫には、真実の善はほんの少しもない。

私たちには絶対的な善は一つとして存在しない。

にもかかわらず、私たちはその善の側に自分を置いて、他を見ているのです。

その自分自身を善としてとらえている心を、根底から破ろうとしているのが、親鸞聖人の教えになるのです。

阿弥陀仏の大悲からすれば

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

となるのですが、それを私たちは通常

「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや」

としか考えることができないのです。

なぜなら常識的には、私たちは誰でも人間としての理性を持ち、善悪を判断し、倫理的に生きることを喜びとしているからです。

したがって当然、自分には仏道を歩む力があると思っています。

それは、私たちにはどこまでいっても、自力の心が残っているということです。

けれども本来的には、私たち凡夫には仏になるべき力は全く存在していません。

究極的には悪人でしかないのです。

その悪に目覚めた姿が、まさに親鸞聖人が比叡山で最終的に一切に行き詰まり、善の可能性が全て破れて、法然上人の前に跪いている姿になるのです。

ここのところを私たちは見落としてはなりません。

一つの善のかけらさえないという自覚が必要になるのです。

そのような自覚において、はじめて自分は浄土に生まれる善行ができない、浄土を願う心さえ生じないという、自らの力で阿弥陀仏をとらえることの全く出来ない自分が明らかになるのです。

ここで浄土真宗の教えの特徴としての「悪人正機」の意義が知られます。

「悪人なをもて往生をとぐ」

の悪人こそとは、

「私は悪人だから救われている」

という教えなのではななくて、自分を善人としてしかとらえていない私たちに、その愚悪性を見つめさせているのです。

したがって、浄土真宗は、どこまでも悪人往生でなければならないといえます。