投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇 10月(4)

つい、行き過ぎると、山伏はふたたび、

「坊主、耳がないのか」

性善房は聞きとめて、

「何?」

思わずむっとした顔いろをして振りかえった。

傲(ごう)岸(がん)(ごうがん)な態度をもって、自分へ、手をあげている山伏は、陽に焦(や)けて色の黒い、二十七、八の男だった。

雨露に汚れた柿いろの篠懸(すずかけ)を着て、金剛杖を立て、額に、例の兜巾(ときん)とよぶものを当てていた。

「なにか御用か」

性善房がいうと、

「おお、用があればこそ、呼んだのだ」

「急ぎの折ゆえ、宗法のことならゆるされい」

「宗旨の議論をやろうというのじゃない。また、戻りたまえ」

はなはだ迷惑に思った。

が、由来、修験者と僧侶とは、同じ仏法というものの上に立ちながら、その姿がひどく相違しているように、気風もちがうし、礼儀もちがうし、経典の解釈も、修行の法も、

まるで別ものになっているので、ことごとに反目して、僧は、修験者を邪道視し、修験者は僧を、仏陀を飯のためにする人間とみ、常に、仲がよくないのであった。

ことに、山伏の一派は、山法師のそれよりも、凶暴なのが多かった。

また、社会(よのなか)から姿をくらます者にとって、都合のよい集団でもあったので、腰には、戒(かい)刀(とう)とよび、また降魔(ごうま)つるぎとよぶ鋭利な一刀を横たえて、何ぞというと、それに物をいわそうとするような風(ふう)もあるのである。

(からまれては、うるさい……)性善房は、そう考えたので、面持ちを直して、

「では、御用のこと仰せられい」

と、素直に彼の方へ、足をもどして行った。

山伏は、いい分が通ったことに優越感をもったらしく、

「うむ」

とうなずいた。

そして、近づいた性善房へ向って、横柄(おうへい)に、

「貴様、一人か」

と訊いた。

「何のことじゃ、それは」

「わからぬ奴、一人旅かと、訊ねるのだ」

「連れがおる。その連れを見失うたので、急いで行くところじゃ。御用は、それだけか」

「待て待て。それだけのことで、呼びとめはせぬ。……では連れというのは、範宴少納言であろうが」

「どうして知っているのか」

「知らいでか。貴様も、うとい男だ。この朱王房の顔を忘れたか。俺は、叡山の土牢から逃亡した成田兵衛の子――寿童丸が成れの果て――今では修験者の播磨房(はりまぼう)弁(べん)海(かい)」

「あっ?――」

思わず跳びさがって、

「寿童めかッ」

と性善房は見直した。

山伏の弁海葉、赤い口をあけて、げたげた笑った。

「奇遇、奇遇。……だが、ここに範宴のいなかったのは残念だ。範宴はどこにいるか」

親鸞・去来篇 柿色の集団 10月(3)

「はてな?」

性善房は、雑鬧(ざっとう)する駅(うまや)路(じ)の辻に立って、うろうろと、見まわしていた。

木津川を渡って直ぐの木津の宿であった。

源氏の府庁から布かれた大きな高札が立っている。

その官(かん)文(ぶん)の前にも、範宴は見えなかった。

汚い木賃(きち)宿(ん)だの、馬飼いの馬小屋だの、その前に立って罵っている侍だの、川魚を桶にならべて売る女だの、雑多な旅人の群れだのが、秋の蠅と一緒になって騒いでいる。

「この阿呆(あほう)(あほう)っ、高い所にのぼりたけれや、鴉(からす)になれっ」

と、柿売りの男が、屋根の上にあがって遊んでいる子どもを、引きずり下ろして、往来の真ン中で、尻を、どやしつけていると、その子の女親が、裸足で駈けてきて、

「人の子を、何で、打(ぶ)ちくさるのじゃ」

と柿売りの男を、横から突く。

「てめえの家の餓鬼か。この悪戯(わるさ)のために、雨漏りがして、どうもならぬゆえ、懲(こ)らしめてくれたのが、何とした」

「雨が漏るのは、古家のせいじゃ、自分の子を、打て」

「打ったが、悪いか」

と、またなぐる。

子どもは泣き喚く。

「女と思うて、馬鹿にしくさるか」

と、子どもの母親は、柿売りに、むしゃぶりついた。

親同士の喧嘩になって、見物は蠅のようにたかってくるし、駅路の馬はいなくし、犬は吠えたてる。

性善房は、探しあぐねて、

「お師様あ」

と呼んでみたが、そこらの家の中に、休んでいる様子もない。

木津の渡船(わたし)で、すこし、うるさいことがあったので、宿の辻で待ちあわせしているようにと、自分は、一足後から駆けつけてきたのであったが――。

ここにも見えないとすると、もう奈良も近いので、あるいは、先へ気ままに歩いて、奈良の口で待っているおつもりか?

「そうかも知れない」

性善房は、先の道へ、眼をあげながら、急ぎ足になった。

その足もとが、鶏(とり)に蹴つまずいた。

埃をあげて、鶏が、けたたましく、往来を横に飛ぶ。

宿場を出ると、やがて、相楽(さがら)の並木からふくろ坂にかかった。

その埃の白い草むらに、西、河内の生駒路、東、伊賀上野道。

道しるべの石碑(いしぶみ)が立っていた。

さっきからその石碑のそばに、黙然(もくねん)と、笈(おい)ずるを下ろし、腰かけている山伏がある。

「……喉が渇いた」

つぶやいて、辺りを見まわした。

清水が欲しいらしいのであるが、水がないので、あきらめて、またむしゃむしゃと柏(かしわ)の葉でくるんだ飯(いい)を食べている。

その前を、性善房が、急ぎ足に通ったので、山伏はあと顔を上げたが、はっと突き上げられたように立ち上がって、

「おいっ、おいっ」

杖をつかんで、呼びとめた。

親鸞・去来篇 10月(2)

「わかりました」

若い夫婦(ふたり)は、しみじみと、範宴のことばを心に沁み入れてうなずいた。

渡船(わたし)が出る。

範宴は、性善房と一緒に、舷(ふなべり)へ立った。

狭霧(さぎり)が霽(は)れてきた。

箭四老人は、幾たびも、

「和子様――おからだを大切に――ご修行遊ばしませ」

彼にはまだ、範宴が、昔の十八公麿のように稚く見えてならなかった。

今も、和子様と、呼ぶのであった。

「爺も、無事に」

と、範宴が答えると、

「おさらばでございます」

萱乃と国助が、うるんだ眼をして、じっと見送る。

早瀬へ、渡船はかかっていた。

下流(しも)へ下流へと、船脚はながされてゆく。

箭四郎のすがたが、次第に小さくなった。

若い男女(ふたり)のすがたに、朝の陽が、かがやいていた。

(あの夫婦に、永く、幸福のあるように)と範宴は、仏陀に祈った。

河原には、小禽(ことり)が、いっぱいに啼いている。

何ともいえない、清々しさが、皮膚から沁み入るように覚えた。

だが、範宴は、山を下りてから事ごとに何か考えさせられた。

それは、(学問のための学問ではだめだ)ということだった。

自分が、きょうまで、霧の中に、刻苦してきたことは、要するに、それである。

人間を対象としない、古典との燃焼であった。

いくら、研究に身を燃焼しても、それがただ、古典に通ずるだけのものであったら、意味はとぼしい。

生きた学問とはいえない。

衆生に向って、心の燈(ともし)火(び)となる学問ではない。

自分の胸に、明かりを点(つ)けて、自分のみ明るしとする狭いものでしかない。

人間を知ろう、社会を知ろう。

――それこそ生々しい大蔵(たいぞう)の教典だ。

それによってこそ、初めて、真の仏教がものをいう。

河内路の白い土を踏みながら、範宴は、そんなことを考えたりした。

(しかし?……)とまた、惑いものするのだった。

(そういう考えは、まだ、生意気かもしれない。人生だの、社会だのというのは、そんな簡単なものではない。それに……まだ古典のほうだって、自分はまだ、ほんの九牛の一毛を、学んだばかりの黄口(こうこう)の青年ではないか。まず、しばらくは、夢想と、無明(むみょう)の中入って、専念、学ぶことが必要だ。――ただ専念に)と、行く手の法隆寺に、その希望をつなぎ、おのずから足に力が入るのを覚えつつ大和へ急いだ。

浄土真宗では、なぜ「清めの塩は必要ない」と言われるのですか?

最近では、お葬式にお参りしても、清め塩の小袋を見かけることもなくなりました。

しかし、浄土真宗で清め塩がなぜ必要ないのか?と思っている方はいらっしゃると思います。

答えとしては、浄土真宗では清める必要がないからです。

清め塩の考えは、死を穢れ(けがれ)とすることからきているといわれますが、仏教では死を穢れととらえていません。

浄土真宗のみ教えは

「阿弥陀如来より賜る信心一つで、死と同時にお浄土に生まれ、仏さまと成らせていただく」

という教えです。

清め塩をする行為は、生前に縁の深かった方を穢れとして受け止める姿があります。

それは、いずれ私も穢れていくことになるのではないでしょうか。

浄土真宗のみ教えを聞いて生きる私たちは、死をお浄土に生まれる往生と受け止める姿があります。

縁の深かった方との別れを通して、いずれ私にも訪れる命の行き先を見つめていくことが大切ではないでしょうか。

親鸞・去来篇 10月(1)

悔いと慚愧(ざんき)に、うちたたかれて萱乃は、

「――何もかも、私の嫉妬(しっと)からでした。……すみません、国助さんにも、お父さんにも」

くりかえすばかりだった。

嫉妬は、女を炎にするが、その迷いから出ると、女は、不愍(ふびん)なほど、真実な姿にかえって、浄化される。

性善房は、箭四郎に、

「おぬしは、娘御のこれほど慕っている国助が、気に喰わぬのか」

とたずねた。

「いや。気に喰わんというわけじゃないが、世間でとかくよういわぬから、娘の行く末を託するに足らぬ男と思うていたまでじゃ」

「その誤解も、今は、解けたであろうが」

「うむ……」

「解けたついでに、心まで打ち溶けてみる気はないか。――親がゆるして、添わせてやるのじゃ」

「わしにも、落度があった。国助の心ばえも、今夜はよう分ったゆえ、男女(ふたり)の望みにまかせましょう。――そして萱乃」

「はい……」

「良人の力になって、共稼ぎに働いて、一日もはやく、遊女の群れに落ちている国助の妹とやらを救うてあげるのだ」

「きっと、働きます」

始めて、和やかなものが、家のうちに盈(み)ちた。

範宴も、うれしく思った。

夜も更けたわどに、人々は、空腹であった。

炉(ろ)に薪を加えて、萱乃は、粥などを煮はじめる。

話がつきないまま、人々は、明け方のわずかを、炉のそばに、まどろんだきりであった。

夜が明けると、

「では――機嫌よう、暮せよ」

二人は旅の笠を持つ。

きのうとは、生れ代ったような萱乃と国助は、明るい顔をして、途中まで見送ってきた。

箭四郎も、ついてきた。

「もう、この辺で結構です。

職人は、時間が金、きょうからは、約束したように、共稼ぎで働いてください」

範宴は、そういって、宇治川の河原にたたずんだ。

名残惜しげに、

「では、渡船場(わたしば)まで」

と話しつつ、歩いてゆく。

「あれをごらんなさい」

別れ際に、範宴は、悠久とながれている大河の姿を指さして、若い男女(ふたり)へいった。

「――天地の創造された始めから、水は、天地の終わるまで、無窮の相をもって流れています。

われわれ人間とてもその通り、人類生じて以来何万年、またこの後人類の終るまで何億万年かわからぬ。

その、無窮にして無限の時の流れから見ると、人の一生などは、電光(いなずま)のような瞬間です。

その瞬間に、こうして、同じ時代に生れ合ったというだけでも、実に奇(く)しき縁(えにし)と申さねばならぬ。

いわんや、同じ国土に生れ、同じ日のもとに、知る辺となり、友となり、親となり、子となり、また、夫婦となるということは、よくよくふかい宿命です。

……だのに、そのまたと、去っては会い難い機縁の者同士が、憎みあい、呪いあい、罵りあうなどということは、あまりにも、口惜しいことではないか。

――見るがよい、こうして話している間も、水は無窮に流れて、流れた水は、ふたたびこの宇治の山河に、会いはしない…」

迷子の記憶

休日に家族で買い物に出かけたときのことでした。

私が商品を選んでいると、娘が私から手を離して、一人で行動しはじめました。

普段であれば

「手を離したらダメだよ!」

と声をかけるところなのですが、ふと娘がどんな行動をするのか気になり、見失わないよう少し距離をおいて追いかけてみることにしました。

当初は、自分の気になる所を見て回ったりしていたのですが、突然立ち止り、クルリと周囲を見渡したかと思うと、私がいた方向とは真逆の方向へと走り出して行きました。

私はびっくりして、慌てて娘の名前を呼ぶと、泣きそうな顔をして抱きついてきました。

娘は、迷子になりかけていたのです。

その瞬間、自分が小さい頃、迷子になったときの記憶がよみがえってきました。

私は小学生の時、電車通学をしていました。

学校で遠足があったのですが、そのときの解散場所は学校ではなく、遠足に行った現地でした。

そこは、私にとって初めての場所であり、まだ電車通学に慣れていない時期でもあったため、帰る際に乗り間違えて、家とは反対方向の電車に乗ってしまいました。

途中で気付いたもののどこで降りていいのか分からず、つい適当な駅で降りてしまいました。

ところが、どうすれば家に帰れるのか分からないため、一人途方に暮れていました。

その時、幸い通りすがりのご婦人が声をかけ事情を知り、私の家へ電話をかけてくださいました。

両親が迎えにきてくれるまでは、悲しくて寂しくて、どうしようもなく辛かったのですが、両親の姿を目にした時は本当に嬉しくて、心が安らぎ、なんとも言えない気持ちになったことを思い出します。

最近は物騒な事件も増えているためか、

「怪しい人に間違われたくない」

との思いから、見知らぬ子どもに声をかけることをためらう人が多いかもしれません。

しかし、子どもの不安な様子や悲しそうな表情というのは、気付いてあげることができるはずです。

はたして、迷子になるのは子どもだけなのでしょうか・・・。

悲しい事件やニュースを見るたびに、迷子になっているのは子どもだけでなく、大人も迷子になっているような気がします。

いのちが、いのちのあり方を見失う。

人生の行く末を見失っている。

だからこそ、何を拠りどころにいのちをいただいて生きていくのかが問われているのではないでしょうか。