投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『「おかげさまで」と言える人生に孤独はない』(中期)

「おかげさま」は、他人から受ける利益や恩恵を意味する

「お陰」に「様」をつけて、丁寧にした言葉であると言われます。

また、形あるものを通して、それを支えている見えない力を感ずる心を物語る言葉であるとも言われ、別の言葉でいうと

「知恩」と言い表すことが出来ます。

「知恩」というのは、他人から受ける利益や恩恵を知るということですが、仏教では必ずそこに

「報徳」ということが語られます。

そこで四字熟語にして

「知恩報徳」

という言い方がなされているのですが、この言葉は、一般には

「私が大きなご利益を賜った、その恩徳に報いること」

と理解されています。

ところが、親鸞聖人は

「知恩報徳」

ということ自体が、私にとっての利益なのだと述べておられます。

つまり

「徳に報いずにはおれないような、そういう恩恵を賜っていることを知らされることが大きな利益なのだ」

と言われているのです。

「三帰依の文」には

『人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。(略)』

という文言があります。

これは、生まれがたい人間に生まれ、聞きがたい仏法を聞く身になれたことの意義を「知る」ところから発せられた言葉です。

もし、自分が人間に生まれたことを当たり前と思っていたら、あるいは家の宗教が仏教だったので特に何とも思わないということであれば、たとえ

「三帰依の文」

を見たり聞いたりしても、素直に頷くことはできないと思います。

けれども、仏法に耳を傾けることを通して、今ここにこうして自分が生まれ難い人間に生まれたこと、そして聞き難い仏さまの教えに耳を傾けていることの尊さを「知る」ことができたならば、そこには大いなる喜びがわいてくるのではないでしょうか。

しかも、それは何か新しいことを賜ったというのではなく、「今已に受く」と、我が身の事実に目覚めていくところからわき上がってくるものです。

そうすると、親鸞聖人が「知恩報徳」自体が自分にとっての利益だと言われたということ、具体的には、これまで人間に生まれ、仏縁のあったことを当然のように思っていた私が、仏法によって人間に生まれたことの尊さに目覚め、さらには仏縁を賜って生きていることの恩に報いずにはおれない私になり得たのは、ひとえにそのことを知らしめてくださったはたらきがあったことを感得しておられたからだと思われます。

ところが、私たちは、子どもの頃から教育によって、科学的な物の見方や考え方をすること、端的には自分が見たり、触れたり、あるいは証明できないものは「信じない」ことが「正解」だとする在り方を無意識の内に刷り込まれています。

そのため、人間に生まれたことの尊さや、仏縁に遇い得たことの不思議さに頷くことは容易ではありません。

ましてや浄土や阿弥陀仏を信じることは至難のことだとさえいえます。

では、自分に見えない、分からないものは全て否定できるのかというと、果たしてどうでしょうか。

地球は自転といって、一日一回転しているそうですが、

「そのことを自覚できますか」

と尋ねられると、私は

「どう見ても地球よりも太陽や月、その他の星々が回っているようにしか見えません」

と、答えたくなります。

また、

「星は夜だけでなく昼にも出ている」

と言われても、私の目には見えません。

そこで

「見えないから出ていませんよ」

と言っても、それは、単に私の目に見えないだけのことなのです。

このことを、詩人の金子みすゞさんは、

昼のお星は目に見えぬ

見えぬけれどもあるんだよ

見えぬものでもあるんだよ

と「星とたんぽぽ」という詩の中でうたっています。

このように、

「見えぬけれどもあるんだよ」

という事実を、私たちの先を歩まれた方がたが、いただき味わってこられた言葉が

「おかげさま」です。

迷いに曇った自分の目には見えないけれども、確かに生き生きとはたらく事実があるのだということへの深い頷き。

このことを親鸞聖人は『正信偈』において、

煩悩に眼(まなこ)さえられて見たてまつらずといえども

大悲ものうきことなくて常に我が身を照らしたもう

と讃嘆しておられます。

亡き方がたのご縁を通して仏法に耳を傾ける中で、私たちは

「おかげさまが見える眼」

を賜るのであり、また、そのことを通して、共に浄土を心の依りどころとして生きる多くの同朋(なかま)を見出していくことが出来るのだと思います。

言葉の乱れ 「これ、やばくね?」

『徒然草(つれづれぐさ)』は、中学・高校の教科書に収録されているので、大半の人はその一部分でも読まれたことがあるかと思います。

この書は、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並んで日本三大随筆(エッセイ)とよばれています。

その作者、兼好法師が同書の中で

「何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は、無下にいやしくこそ成りゆくめれ」

と述べています。

これは

「何事も、昔はよかった。今は下品になるばかりだ」

という意味ですが、いったい兼好法師は何を歎いているのかというと

「言葉の乱れ」

についてです。

現代でも言葉の乱れはよく耳にしますが、鎌倉時代に生きられた兼好法師もそのことを取り上げている訳です。

これを読むと、もし兼好法師が現代に生きていたら、やはり同じこと書くのではないかと思ってしまいます。

なぜなら、日本語の持つ豊かな表現や細やかさが、次第に失われつつあるように感じられるからです。

例えば、最近若い人が会話の中でよく

「やばい」

という言葉を口にするのを聞きます。

「これ、やばくね?」とか、

「これ、やばいよ!」

といった具合です。

「やばい」

という言葉は、もともとは犯罪者が自分たちの悪事が警察などにバレそうになった時に使っていたもので、それが一般にもひろまったのだそうです。

当初この言葉は、もともとの

「危険だ」とか「悪い予感」の意味で用いられていました。

ところが、平成に入ってから、いつの間にか若者を中心に

「凄い」とか「素敵」といった褒め言葉やプラス評価を表す表現として、肯定的な意味で使用されるようになりました。

かつて犯罪者の集団が隠語として用いていた言葉が、その反対の意味で、しかも若者だけでなく広く一般に用いられ氾濫しているのですから、兼好法師ではなくても

「昔はよかった。今は下品に…」

と思わずつぶやきたくなってしまいます。

ところで、慣用句などの中にも

「その使い方、間違っているのでは?」

と、気になるような言葉がたくさんあります。

例えば、「煮詰まる」という言葉。

会議をしていてなかなか結論が出ない時に

「話が煮詰まってきたので、今日はここで切り上げて、次回また検討し直すことにしましょう」

という人がいたりします。

「煮詰まる」というのは文字通り

「煮えて、水分がなくなること」で、そこから転じて

「意見が十分に検討されたり、議論が尽くされたりして、結論が出る段階に近づくこと」

も意味するようになりました。

したがって

「話が煮詰まった」のなら、当然結論が出るはずです。

もし切り上げて次回に持ち越すのであれば

「煮詰まった」ではなく

「行き詰まった」

と言うのが適切な表現です。

あるいは、

「あの人は気が置けない人だ」

と言われると、その人のことをどのような人だと思われるでしょうか。

もしかすると

「気が許せない人」とか

「油断できない人」だと判断してしまわれるかもしれませんが、

「気が置けない」というのは、本来は

「気を遣ったり、遠慮したりする必要がない」

という意味ですから、

「気が置けない人」とは

「心を許してつきあえる人」

という意味です。

したがって、正しい意味を理解していないと、その人について全く違う印象を持ってしまうことになりかねません。

また、会議などで議長に選ばれた人が、謙遜して

「私では役不足ではありますが、議長の任をおおせつかりまして…」

などと挨拶されることがあります。

けれども、本来この言葉は

「本人の力量に対して役目が軽すぎること」

の意味ですから、この場合は

「私では力不足ではありますが…」

と言うのが適切です。

したがって

「役不足」と述べたのでは、本人は謙遜しているつもりでも、

「私の力量に対して、役目が軽すぎる」

と不満を表明していることになってしまいます。

ところが、言葉は意味も読み方も時代とともに変化していきます。

平成18年度「国語に関する世論調査」では

「彼には役不足の仕事だ」

を、本来の意味である

「本人の力量に対して役目が軽すぎること」

の意味で使う人は40.3%であるのに対して、間違った意味の

「本人の力量に対して役目が重すぎること」

の意味で使う人が50.3%と、本来の意味を間違えて使っている人との数値が逆転した結果が出ています。

今では、その数がさらに増えているかもしれません。

言葉の変化は

「間違い」⇒「揺れ」⇒「定着」の順で起きていくのが一般的だそうです。

「間違い」の時期は、同時に「揺れ」の時期とも言えます。

これまで正しいとされていた漢字の読みや慣用句の意味など、間違えて読んだり使ったりする人が増えて、半数になった頃が「揺れ」の時期です。

「役不足」など、既に間違いが半数を占め、しかも正しい意味で使う人よりも多いのですから、もしかすると、やがて「役不足」という言葉は

「本人の力量に対して役目が重すぎること」

の意味が正しいとなってしまうのかもしれません。

この他にも「重複」という言葉は、本来は「ちょうふく」と読むのですが、最近は「じゅうふく」と読む人も多く、まさに「揺れ」の時期にある言葉です。

「じゅうふく」と読む人が今後も増え続けると、誰もが「じゅうふく」と読むようになり、将来辞書などに『昔は「ちょうふく」とも読んだ』と付記されるようになるのかもしれません。

ところで、2020年のオリンピックは東京開催が決定しましたが、テレビを見ていて

「招致するためにはプレゼンテーション力が大きな要因を占める」

という印象を持ちました。

それは、言い換えると

「伝える力」

の有無が大きく左右するということです。

これからの国際社会では、いかに相手に自分の考えや思いを的確に伝えるかということが大切になっていくと思われますが、何を見ても

「かわいい」と言い、あるいは

「やばい」と口にする人たちの会話を聞いていると、日本語の未来に少なからず不安を覚えます。

それは、日本語の持つ美しさや繊細な表現、豊かさ、何よりも

「伝える力」

が失われていくように感じられるからです。

確かに、時代の遷り変わりと共に言葉は変化していくものですが、兼好法師の時代と違って、現代はテレビなどを通じて、間違った表現であっても、繰り返し用いられることで、それが急速に広がっていきます。

ときとしてそれは

「流行語」としてあっという間に定着してしまうことさえあります。

それでは、このまま日本語は兼好法師の表現を借りると「無下にいやしくこそ成りゆく」のかというと、一つ光明があります。

それは、テレビの番組には教養度を問うものがいくつかあります。

その中では、漢字本来の読み方や慣用句などの意味が出題されたり、またその中で漢字の誤読や慣用句の誤用などが、問題を通して明らかにされたりしています。

このような番組が制作され、継続して放送されているということは、一定の視聴率があるからだと考えられます。

机に向っての勉強は嫌でも、テレビを見て楽しみながの勉強ならさほど苦にもならないからでしょうか。

このような番組を通して、少しでも日本語がやせ衰えていくことに歯止めがかかればいいな、と思ったりすることです。

親鸞・去来篇 10月(4)

つい、行き過ぎると、山伏はふたたび、

「坊主、耳がないのか」

性善房は聞きとめて、

「何?」

思わずむっとした顔いろをして振りかえった。

傲(ごう)岸(がん)(ごうがん)な態度をもって、自分へ、手をあげている山伏は、陽に焦(や)けて色の黒い、二十七、八の男だった。

雨露に汚れた柿いろの篠懸(すずかけ)を着て、金剛杖を立て、額に、例の兜巾(ときん)とよぶものを当てていた。

「なにか御用か」

性善房がいうと、

「おお、用があればこそ、呼んだのだ」

「急ぎの折ゆえ、宗法のことならゆるされい」

「宗旨の議論をやろうというのじゃない。また、戻りたまえ」

はなはだ迷惑に思った。

が、由来、修験者と僧侶とは、同じ仏法というものの上に立ちながら、その姿がひどく相違しているように、気風もちがうし、礼儀もちがうし、経典の解釈も、修行の法も、

まるで別ものになっているので、ことごとに反目して、僧は、修験者を邪道視し、修験者は僧を、仏陀を飯のためにする人間とみ、常に、仲がよくないのであった。

ことに、山伏の一派は、山法師のそれよりも、凶暴なのが多かった。

また、社会(よのなか)から姿をくらます者にとって、都合のよい集団でもあったので、腰には、戒(かい)刀(とう)とよび、また降魔(ごうま)つるぎとよぶ鋭利な一刀を横たえて、何ぞというと、それに物をいわそうとするような風(ふう)もあるのである。

(からまれては、うるさい……)性善房は、そう考えたので、面持ちを直して、

「では、御用のこと仰せられい」

と、素直に彼の方へ、足をもどして行った。

山伏は、いい分が通ったことに優越感をもったらしく、

「うむ」

とうなずいた。

そして、近づいた性善房へ向って、横柄(おうへい)に、

「貴様、一人か」

と訊いた。

「何のことじゃ、それは」

「わからぬ奴、一人旅かと、訊ねるのだ」

「連れがおる。その連れを見失うたので、急いで行くところじゃ。御用は、それだけか」

「待て待て。それだけのことで、呼びとめはせぬ。……では連れというのは、範宴少納言であろうが」

「どうして知っているのか」

「知らいでか。貴様も、うとい男だ。この朱王房の顔を忘れたか。俺は、叡山の土牢から逃亡した成田兵衛の子――寿童丸が成れの果て――今では修験者の播磨房(はりまぼう)弁(べん)海(かい)」

「あっ?――」

思わず跳びさがって、

「寿童めかッ」

と性善房は見直した。

山伏の弁海葉、赤い口をあけて、げたげた笑った。

「奇遇、奇遇。……だが、ここに範宴のいなかったのは残念だ。範宴はどこにいるか」

親鸞・去来篇 柿色の集団 10月(3)

「はてな?」

性善房は、雑鬧(ざっとう)する駅(うまや)路(じ)の辻に立って、うろうろと、見まわしていた。

木津川を渡って直ぐの木津の宿であった。

源氏の府庁から布かれた大きな高札が立っている。

その官(かん)文(ぶん)の前にも、範宴は見えなかった。

汚い木賃(きち)宿(ん)だの、馬飼いの馬小屋だの、その前に立って罵っている侍だの、川魚を桶にならべて売る女だの、雑多な旅人の群れだのが、秋の蠅と一緒になって騒いでいる。

「この阿呆(あほう)(あほう)っ、高い所にのぼりたけれや、鴉(からす)になれっ」

と、柿売りの男が、屋根の上にあがって遊んでいる子どもを、引きずり下ろして、往来の真ン中で、尻を、どやしつけていると、その子の女親が、裸足で駈けてきて、

「人の子を、何で、打(ぶ)ちくさるのじゃ」

と柿売りの男を、横から突く。

「てめえの家の餓鬼か。この悪戯(わるさ)のために、雨漏りがして、どうもならぬゆえ、懲(こ)らしめてくれたのが、何とした」

「雨が漏るのは、古家のせいじゃ、自分の子を、打て」

「打ったが、悪いか」

と、またなぐる。

子どもは泣き喚く。

「女と思うて、馬鹿にしくさるか」

と、子どもの母親は、柿売りに、むしゃぶりついた。

親同士の喧嘩になって、見物は蠅のようにたかってくるし、駅路の馬はいなくし、犬は吠えたてる。

性善房は、探しあぐねて、

「お師様あ」

と呼んでみたが、そこらの家の中に、休んでいる様子もない。

木津の渡船(わたし)で、すこし、うるさいことがあったので、宿の辻で待ちあわせしているようにと、自分は、一足後から駆けつけてきたのであったが――。

ここにも見えないとすると、もう奈良も近いので、あるいは、先へ気ままに歩いて、奈良の口で待っているおつもりか?

「そうかも知れない」

性善房は、先の道へ、眼をあげながら、急ぎ足になった。

その足もとが、鶏(とり)に蹴つまずいた。

埃をあげて、鶏が、けたたましく、往来を横に飛ぶ。

宿場を出ると、やがて、相楽(さがら)の並木からふくろ坂にかかった。

その埃の白い草むらに、西、河内の生駒路、東、伊賀上野道。

道しるべの石碑(いしぶみ)が立っていた。

さっきからその石碑のそばに、黙然(もくねん)と、笈(おい)ずるを下ろし、腰かけている山伏がある。

「……喉が渇いた」

つぶやいて、辺りを見まわした。

清水が欲しいらしいのであるが、水がないので、あきらめて、またむしゃむしゃと柏(かしわ)の葉でくるんだ飯(いい)を食べている。

その前を、性善房が、急ぎ足に通ったので、山伏はあと顔を上げたが、はっと突き上げられたように立ち上がって、

「おいっ、おいっ」

杖をつかんで、呼びとめた。

親鸞・去来篇 10月(2)

「わかりました」

若い夫婦(ふたり)は、しみじみと、範宴のことばを心に沁み入れてうなずいた。

渡船(わたし)が出る。

範宴は、性善房と一緒に、舷(ふなべり)へ立った。

狭霧(さぎり)が霽(は)れてきた。

箭四老人は、幾たびも、

「和子様――おからだを大切に――ご修行遊ばしませ」

彼にはまだ、範宴が、昔の十八公麿のように稚く見えてならなかった。

今も、和子様と、呼ぶのであった。

「爺も、無事に」

と、範宴が答えると、

「おさらばでございます」

萱乃と国助が、うるんだ眼をして、じっと見送る。

早瀬へ、渡船はかかっていた。

下流(しも)へ下流へと、船脚はながされてゆく。

箭四郎のすがたが、次第に小さくなった。

若い男女(ふたり)のすがたに、朝の陽が、かがやいていた。

(あの夫婦に、永く、幸福のあるように)と範宴は、仏陀に祈った。

河原には、小禽(ことり)が、いっぱいに啼いている。

何ともいえない、清々しさが、皮膚から沁み入るように覚えた。

だが、範宴は、山を下りてから事ごとに何か考えさせられた。

それは、(学問のための学問ではだめだ)ということだった。

自分が、きょうまで、霧の中に、刻苦してきたことは、要するに、それである。

人間を対象としない、古典との燃焼であった。

いくら、研究に身を燃焼しても、それがただ、古典に通ずるだけのものであったら、意味はとぼしい。

生きた学問とはいえない。

衆生に向って、心の燈(ともし)火(び)となる学問ではない。

自分の胸に、明かりを点(つ)けて、自分のみ明るしとする狭いものでしかない。

人間を知ろう、社会を知ろう。

――それこそ生々しい大蔵(たいぞう)の教典だ。

それによってこそ、初めて、真の仏教がものをいう。

河内路の白い土を踏みながら、範宴は、そんなことを考えたりした。

(しかし?……)とまた、惑いものするのだった。

(そういう考えは、まだ、生意気かもしれない。人生だの、社会だのというのは、そんな簡単なものではない。それに……まだ古典のほうだって、自分はまだ、ほんの九牛の一毛を、学んだばかりの黄口(こうこう)の青年ではないか。まず、しばらくは、夢想と、無明(むみょう)の中入って、専念、学ぶことが必要だ。――ただ専念に)と、行く手の法隆寺に、その希望をつなぎ、おのずから足に力が入るのを覚えつつ大和へ急いだ。

浄土真宗では、なぜ「清めの塩は必要ない」と言われるのですか?

最近では、お葬式にお参りしても、清め塩の小袋を見かけることもなくなりました。

しかし、浄土真宗で清め塩がなぜ必要ないのか?と思っている方はいらっしゃると思います。

答えとしては、浄土真宗では清める必要がないからです。

清め塩の考えは、死を穢れ(けがれ)とすることからきているといわれますが、仏教では死を穢れととらえていません。

浄土真宗のみ教えは

「阿弥陀如来より賜る信心一つで、死と同時にお浄土に生まれ、仏さまと成らせていただく」

という教えです。

清め塩をする行為は、生前に縁の深かった方を穢れとして受け止める姿があります。

それは、いずれ私も穢れていくことになるのではないでしょうか。

浄土真宗のみ教えを聞いて生きる私たちは、死をお浄土に生まれる往生と受け止める姿があります。

縁の深かった方との別れを通して、いずれ私にも訪れる命の行き先を見つめていくことが大切ではないでしょうか。