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真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」(後期)

ここで問題なのは、この批判を是とし、この批判に対して現生に還相面を見出そうとすることではなく、実はこの批判そのものが根本的に誤っていることを明らかにすることだといえます。

では、根本的な誤りとは何かというと、

「往相の正定聚の位」

についての見解です。

ここに還相位がないと言われているのですが、はたしてそうなのでしょうか。

久松師と同じく、真宗者自身も錯覚しているのは、往相が自利であり、還相が利他であるとする見解です。

そのため、久松師が

「真宗の妙好人は往相の正定聚の位だ」

といわれたことに対して、正定聚の機の実践は自利のみだということで、動揺してしまったのだと思われます。

けれども、親鸞聖人は正定聚の機が自利だとは語ってはおられません。

ここで『浄土論註』に示されている次の言葉に注意してみることにします。

未証浄心の菩薩は、初地已上七地以還の諸の菩薩なり。

この菩薩またよく身を現ずること、もしは百もしは千もしは万もしは億もしは百千万億、無仏の国土にして、仏事を施作す。

要ず心を作して、三昧に入りて、乃しよく作心せざるにあらず。

作心をもっての故に、名づけて未諸浄心と為す。

この菩薩、安楽浄土に生じてすなわち阿弥陀仏を見むと願ず。

阿弥陀仏を見たてまつる時、上地の諸の菩薩と、畢竟じて身等しく法等しと。

龍樹菩薩・婆藪槃頭(天親)菩薩の輩、彼こに生ぜんと願ずるは、まさにこの為なるべし。

ここで、龍樹菩薩や天親菩薩がなぜ、阿弥陀仏の浄土への往生を願われたか、その理由が明確に示されています。

明らかに知られるように、この龍樹・天親菩薩は往相の菩薩です。

その位は、未諸浄心ですが、まさしく往生は決定しているのですから、正定聚の機であることはいうまでもありません。

では、この往相の菩薩はどのように仏事をなすのでしょうか。

その仏道は教化地(還相位)の菩薩と全く同じであって、何ら変わるところはありません。

三昧に入って、他の迷える衆生を救うためのみに、無仏の国土において、一心に利他行を行じておられるのです。

ただし、この未証浄心の菩薩と教化地の菩薩との間には、決定的な差が一つだけあります。

それは、未証浄心の菩薩は

「要ず心を作して、三昧に入りて」

仏事を施作すると示されているように、自ら一心に清浄なる無心を作って、利他の仏事を施し続けます。

これに対して、教化地の菩薩は

「他力釈」

において明らかなように、常に法身の三昧の中にあって、阿修羅の琴のように自然に無心に、無限の利他行をすることができます。

一切の菩薩は、利他の仏道のみを行ずるということにおいて全く同じなのですが、未証浄心の菩薩は、作心してしかそれを行ずることができません。

それに対して、教化地の菩薩は自然に無限の利他行ができます。

この一点に両者の決定的な差がみられます。

このゆえに、往相の菩薩である龍樹・天親菩薩は、阿弥陀仏の浄土に生まれて、還相の菩薩になることを願われたのです。

このようにみますと、往相が自利であり、還相が利他だとする見方は、根本的に誤っているということになります。

いまだ往相が決定していない衆生は自利だ、ということはいえるかもしれませんが、往相が決定している正定聚の機には自利の面など全くないのであって、その意味からすれば『教行信証』は、往相の利他と還相の利他を明らかにしている書だといわねばなりません。

ここで今一度、先に引用した

「悲願の信行えしむれば、生死すなはち涅槃なり」

という和讃に注目してみます。

ここで親鸞聖人は、正定聚の機の心を讃えておられるのですが、この正定聚の機こそ、久松師がいわれる無的主体の利他行の実践者にほかなりません。

では、浄土真宗にとって、還相の菩薩とは、具体的にはどのような菩薩だと見ればよいのでしょうか。

この場合、経典に示されている教化地の菩薩を見ればよいのであって、弥勒・観音・勢至といった菩薩がここで思い起こされることになります。

龍樹・天親菩薩が未証浄心の菩薩であり、弥勒・観音・勢至が教化地の菩薩です。

前者が往相の、後者が還相が利他行の菩薩なのです。

この弥勒・観音・勢至といった利他行の菩薩が、この世に存在するはずはありません。

具体的に人間の相をもって、自然に無限の利他行ができる、そのような還相の菩薩がこの世にいてくださるとよいのですが、残念ながらこの世にはおられません。

したがって、この世における菩薩行の実践は、どこまでも往相の利他行でなければならないのです。

そして、それを実践されたのが龍樹・天親菩薩なのであり、より具体的には、正定聚の機が仏道を歩む姿なのです。

親鸞聖人は、この往相の正定聚の機の実践を、浄土真宗の行として

「行巻」に説かれたのであり、さらに還相の菩薩の実践を

「証巻」に明かしておられます。

しかもこの両者は、共に、現生に直接かかわる利他行の実践として、親鸞聖人は語っておられます。

このような観点から見る、親鸞聖人の思想における

「往相・還相」についての論考は、今日まであまり試みられていません。

そこで、以下、この問題を掘り下げていくことにしたいと思います。

親鸞・去来篇 青春譜 10月(7)

どこで行きちがったのか、範宴は性善房とはぐれて、奈良の杉林のあたりに、ただ一人でたたずんでいた。

そして町の方から来る人影を黄昏れのころまで克明に待ちつつ見まもっていたが、性善房らしい者は見えなかった。

もうここまで来れば、行く先の法隆寺は近いし、先にそこへさえ行っていれば、後から彼の来ることはわかっているが、

「どうしたのか」

と性善房の身も案じられ、またせっかくの連れを捨てて、先へ行く気も出なかった。

幾百年も経たような杉の梢が、亭々(ていてい)と、宵の空をおおっていた。

空は月の冴えに、黄昏れのころよりは澄明な浅黄いろに澄んでいて、樹(こ)蔭(かげ)の暗い所と、月光で昼間のような所とが、くっきりと、縞や斑(まだら)になっていた。

ほう、ほう、と鹿の啼く声がする――。

それに気づいて眸をこらして見ると、牝(め)鹿(じか)や牡鹿(おじか)が、月の夜を戯れつつさまよっているのだった。

範宴の腰をかけた杉の根のまわりにも、一、二疋寝そべっていて、彼が手を伸べると、人馴れた眸を向けて、体をそばへ摺り寄せてくる。

「おう」

範宴は、鹿の背を撫でながら膝へ抱き寄せた。

若い牝鹿の毛なみはつやつやとして、肌は温かだった。

「鹿は、餌に飢えているらしいが。……はて、何もやる物がない」

と、範宴はつぶやいて、

「飢えているといえば、わしにも何か飢えが感じられる。食ではない。眠りでも、安逸でもない。……この飢えた気持は、母の肌を恋うような血しおの淋しさだ。たまたま、山を下りて、俗界の灯を見、世間の享楽をのぞいたので、若い血が、うずきたがるのだろう」

彼は牝鹿の体温をおそれるように、膝から突き退けようとした。

けれど、鹿は動こうともしなかった。

思春期の若い鹿たちは、牝鹿の声にあやつられて、追いつ追われつ夜を忘れているのだった。

範宴は、立ちあがって、もいちど、猿沢の池の方へ戻ってみた。

ここにはまた、町の男女が、月見にあるいていた。

恋をささやきながら肩を並べて行く男女は、しょんぼりと、さまよっている範宴のすがたを振向いて、気の毒そうな眼を投げた。

彼らは今が幸福にちがいない。

だが、やがて生活を蝕(けしば)んでくる毒を呷(あお)っているにひとしい。

清浄身の沙門からみれば、むしろ、あわれなのはああした儚い夢の中に生きがいを焦心(あせ)っている多くの男や女たちではあるまいか。

範宴は、そう考えて、むしろあわれと見て過ぎたが、しかし、なんとはなく自身の中に、自身をさびしがらせるものがあることは否めなかった。

ただ、彼の理念と、修行とが、石のようにそれを冷たく抑えていて、うすく笑っておられるに過ぎないのである。

ばたばたと誰か駈けてくる跫音(あしおと)がして、

「お師さま!」

と、呼んだ。

さがしあぐねていた性善房の声なのであった。

お墓を建てたときのお勤め(読経)があるそうですが?

浄土真宗でお墓を建立した際の儀式を、建碑式(建碑法要)といいます。

お性根入れ(魂入れ)、開眼法要と言われる方もいらっしゃいますが、違います。

浄土真宗のお墓は、故人を偲ぶ場所であるとともに、私が仏法のご縁をいただく場所であります。

命を伝えてくださったご先祖に感謝しつつ、その命の営みを見つめていく場所でもあります。

また、ご先祖の遺骨を前に諸行無常を味わうのもお墓でありましょう。

浄土真宗のご門徒として新たにお墓を建立され、建碑式をおつとめされることは、“仏さまのはたらき”となられたご先祖の願いを私が聞いていくご縁をいただいたといえるのです。

建碑式をおつとめされる際は、事前にお寺までお尋ねください。

親鸞・去来篇 10月(6)

二十歳のころまでは太刀を帯びて侍奉公したこともある性善房なので、刃(やいば)を突きつけられたからといって、にわかに顔色を失うほどの臆病者ではなかった。

「貴様は、身をもって、範宴の楯になるといったな」

「はい」

「くだらぬ強がりはよせ。それよりは、俺に、範宴を会わせろ。……嫌か、嫌ならば、抜いた刀だ、ただは鞘にかえらぬが、覚悟か」

「…………」

「覚悟か、やい」

ふた声目がかかると、弁海の手は、刃をさっとふりかぶって、睨(ね)めつけた。

風を割って、白い光が、相手のすがたを斜めにかけて走ったかと思うと、小さい埃が上がって、性善房のすがたは、彼方の草むらへ跳んでいた。

「弁海、さほど、自分の愚鈍が口惜しいならば、心を砥(と)にかけて、勉学をし直してこい。そうして、一人前の人間になれたら、師の御房に会わせてやろうし、第一、そのほうも救われるというものだ」

そこから性善房がいうと、

「なにっ」

柿色の篠懸(すずかけ)を躍らして、

「野郎、うごくな」

と弁海は、眼をいからせて、躍りかかってきた。

「あっ――」

よろめくように、性善房は逃げだした。

「待てっ」

うしろから迫る怒号を耳にしながら、彼は、坂の上まで、息もつかずに出た。

そこまで登るともう広やかなる耕地の彼方に、奈良の丘や、東大寺の塔の先や、紅葉(もみじ)した旧都の秋が、遥かに望まれてきたのであったが、ふと思うことには、万一このまま奈良の町へ入って、範宴が、そこに自分を待ってでもいたらはなはだまずいものになろうという懸念であった。

いったい、弁海と師の房とは、どういう宿縁なのか。

師の房は、彼を憎んだことも、墜(おと)し入れたこともないのに、幼少から今日まで弁海が範宴を憎悪することはまるで仇敵のようである。

日野の学舎で、自分より小さい者に、学問や素行においても、絶えずおくれていたことが、幼少の魂に沁みて、口惜しくて、忘れられないのか。

糺の原で、他人を、野火に墜(おと)し入れようとした悪戯(わるさ)が、かえって、自分を焼く火となって手痛い目に会ったので、その遺恨が、今もって、消えないのか。

いや、なかなかそんなことではあるまい。

要するに、成田兵衛という者の家庭は知らないが、家庭の罪に違いない。

全盛の世には、思いあがらせて育て、没落する時には、ねじけ者に作ってしまったものだろう。

そして、すべての逆境が、みな自分の罪とは思わず、他人のせいのように考える人間が、いつとはなく、今日の弁海になってきたのではあるまいか。

(こんな、ねじけ者に、範宴様を会わせて、怪我でもおさせ申したらつまらぬことだ。逃げるにしくはない)

性善房は、道を横に反らして、眼をつぶって、どこまでも逃げた。

親鸞・去来篇 10月(5)

弁海と名は変わっても、腕白者はやはり腕白者、寿童丸といったころの面影が、今でも、彼の姿のどこかにはある。

「おい、範宴は、どこにいる?……」

と、重ねて訊く。

性善房は、この男の眼に合うと何かしら、むかむかとしてならなかった。

呪詛(じゅそ)の火みたいに粘りこい眼である、また、いつでも、人を挑むような眼であった。

それに釣り込まれて、くわっと激したがる自分の血を、性善房はおそれるのであった。

「存じませぬ」

穏やかに顔を振ると、弁海葉、ずかと一歩前へ迫ってきて、

「知らぬはずはあるまい。汝(うぬ)の師ではないか」

「でも、今日は、わたくし一人ですから」

「嘘をつけ。たった今、連れがあるので先を急いでゆくところだとその口でいったじゃないか。範宴は、俺の生涯の敵(かたき)だ、久しぶりで、会ってやろう。案内せい」

と、強迫する。

性善房は、唇の隅に、哀れむような微笑をたたえた。

「寿童殿――いや弁海どの」

「なんじゃ」

「どうして、そのもとは、範宴様に、さような恨みをふくんでいるのか」

「今では、理由よりも、ただ生涯のうちに、あいつを、俺の足もとに跪(ひざまず)かせてやれば、それでよい。それが、望みだ」

「ああ、お気の毒千万(せんばん)です。人を呪う者は、終生呪いの苦患(くげん)から救われぬと申します」

「貴様も、いつの間にやら、坊主くさい文句を覚えたな。まあなんでもいい範宴のいる所へ、案内しろ」

「まず、断ります」

「なんだと」

「師の御房は、そのもとのような閑人(ひまじん)と、争っている間はありません。一念ご修行の最仲です。不肖ながら、私は、身をもって、邪魔者を防ぐ楯(たて)となる者です。用があるなら、私に、仰っしゃってください」

「生意気な」

と弁海は、唾を横に吐いて、

「俺に、会わせんというのか」

「そうです」

「そんなに、弁海が怖いか。……いや怖かろう、あいつは、日野の学舎(まなびや)にいても、叡山にいても、師に取り入るのが巧く、長上に諂(へつら)っては、出世したやつだ。俺に会うと、その偽面を剥がれるので嫌なのだろう、――しかし、俺は生涯に、きっと、範宴の小賢しい仮面を剥ぎ、あいつの上に出て、あいつを、大地に両手をつかせて見せると心に誓っている」

「その意気で、おん身も、勉強なされたがよい。孤雲どのは、お達者かの」

「そんなことは、問わいでもよいさ……範宴を出せ、いる所を教えろ、これ以上、口をきかせると、面倒だから、このほうでものをいわすぞ」

じりっと、左に腰をひねると、腰の戒刀が、鞘を脱して、性善房の胸いたへ、その白い光がまっすぐに伸びてきた。

真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」(中期)

これらの和讃の大意は、ほぼ次のように理解することが出来ます。

弥陀が衆生に廻向するために成就した功徳は、往相と還相という二種の功徳である。

そして、これらの功徳が衆生に廻向されることによって、衆生は仏果の因としての

「心行」

がともに得せしめられるのである。

往相の廻向という教法が、この世において説かれたということは、どのようなことなのか。

いまこそ阿弥陀仏の大悲廻向の名号法が、この世に出現すべき機縁が熟したということである。

悲願の信行(この世の衆生を浄土に往生せしめようと願う南無の心と、往生せしめる行業としての阿弥陀仏)を衆生に得せしめるのであるから、それを獲得した衆生は、まさしく正定聚に住し、生死即涅槃という、仏教の極致が心に開かれることになる。

還相の廻向の法が説かれているということは、どのようなことなのか。

その衆生に利他教化地の果を得せしめ、かの衆生が浄土に生まれれば、すなわち再び、十方の諸有の衆生の国土に廻入して、仏の功徳の極みである大慈悲の利他行を実践することを、同時に知らしめるためである。

これらの和讃の内容は、往相還相という二種の功徳を成就し、一切の衆生を救うために、その二種の功徳を廻向される阿弥陀仏の廻向にその中心が置かれていることはいうまでもありません。

けれども、阿弥陀仏の廻向のみが示されているのではありません。

「心行ともにえしむなれ」

「生死すなはち涅槃なり」

「利他教化の果をえしめ」

「普賢の徳を修するなり」

といった説示は、明らかに往相還相の二種の廻向を獲得した衆生の、往相し還相するすがたに他なりません。

弥陀の廻向を受けて、往相し還相するのは、まさにこの世の衆生でなければ、

「弥陀の方便ときいたり」と讃えられたその意義は無意味なものになってしまいます。

このような点からみて、深励師が

「廻向と云ふは如来の方から施与し給ふが廻向なり」

「往相還相と云ふは、衆生の方にあるなり」

と説かれている、この伝統的な解釈は、やはり正しいと見なければならないと思われます。

では、従来までの理解の仕方のどこに問題があるのでしょうか。

親鸞聖人は『教行信証』「教巻」の冒頭において

「謹んで浄土真宗を案ずるに二種の廻向有り」

と示されているように、阿弥陀仏の教法は、往相と還相という、弥陀の二種廻向をおいて他にはないことを示されます。

そして、往相の廻向として、衆生を浄土に往生せしめるために廻向された教・行・信・証の功徳が語られるのですが、さらに還相の廻向として、その証がさらに開かれて、浄土に生まれた衆生が教化地を得、ただちに穢土に還来して菩薩行を行じる、その功徳についても語られます。

このことから、阿弥陀仏の教法は、その中心が二種の廻向に置かれているものの、親鸞聖人は『教行信証』の中で、正定聚の機の念仏者としての姿と、還来の菩薩の行業の姿をも、積極的に、そして極めて動的に説いておられということができます。

そうすると、新たになされた伝統的な理解の仕方への批判は、正定聚の機と還相の菩薩の信の躍動感が欠落しているとことへの問題提起であったと思われます。

では、具体的にはどのような批判がなされているのでしょうか。

ここで、久松真一師が真宗教義の

「正定聚の機」

についてなされた批判について考えてみることにします。

真宗の妙好人は往生の正定聚の位であって還相位ではない。

それは、往相・還相というものが現生において成り立つということにならねばならない。

……とにかく現生において還相位を得て、無機的主体というものが現生において働くということになる。

それが仏教の極致でありますし、またそれが仏教からみた人間の本当の在り方である。」

(『久松真一著作集』)

久松師は

「真宗教義では現生において往相・還相が成り立っていない。仏教の極致は、現生において還相位を得て、無的主体的実践をなすことであるから、その意味で浄土真宗の教えは、仏教の極致に至っていない」

と述べておられます。

これに対して、真宗者の中から、この現生に還相面をなんとか導き出そうとする努力が、この世における還相の菩薩道の実践が提起されたことの理由だと考えられます。