投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人の往生観」(3)2月(中期)

そこで、私たちの心の仕組みを、そのような点で押さえた上で、自分の中に仏を見るということが、どういうことであるかを考えてみたいと思います。

すでに見たように、私たちの心は事にふれて、寸時の休みもなくころころこと変わります。

ところで、この私の心にもし真実の法が絶え間なくふれ続け、自分の心に映し出されていたとしたらどうでしょうか。

真実の法とは、教えであり言葉だといえます。

私を無限に喜ばせる教えが、常に自分の心に浮かび、その言葉が繰り返し繰り返し、自分の心に語りかけてくれる。

そのような言葉を持っている人は、たえまない喜びの世界に住んでいる、ということになるのではないでしょうか。

浄土真宗では、ご法義に篤い念仏者のことを

「妙好人(みょうこうにん)」

と呼んで讃えていますが、その一人に浅原才一という方がおられます。

この才一さんが次のようなことを述べておられます。

「風邪をひいたら咳が出る。

才一が風邪をひいたら念仏の咳が出る」

これば、自分は教えの風邪をひいたから念仏が限りなく出ると言っておられるのです。

ただし、これは単に念仏を称えているということを言っておられるのではありません。

阿弥陀仏の無限の法に自分は包まれている。

だから、自分の心からは自然と念仏の法が湧き出て来るということを述べておられるのです。

ということは、才一さんの心は常に「念仏せよ、救う」という阿弥陀仏の声が響いているということです。

才一さんは、常に阿弥陀仏の法の中で生かされていたのです。

この才一さんの姿は、現在を生きていると同時に、永遠に教えと共に生きるということだといえます。

才一さんの例から教えられることは、自分の心に常に響いて来る言葉を持つということです。

それは、自分の内に、実体的な仏を求めたり、あるいは自分の外に無限の力を有する仏を求めるということではありません。

常に歓喜の教えにふれているということなのです。

阿弥陀仏の言葉が、いつも聞こえて来るような自分になることだといってよいと思います。

ですから、私たちにとって何よりも大切なことは、確固たる法に出遇うということであり、真実の法を心に持つということです。

「島守二十八年 島に学ぶ」(中旬) 不安が増幅する

 東京に行っている友人がいますが

「先生、東京は仕事がしやすいですよ」

と言うんです。

なぜかと言いますと、こちらではわずかなお金で高いの安いのという話になりますけども、東京ではガンの患者さんが保険の效かない薬を使わなければならないとき、

「千二百万円かかりますが、どうされますか」

と聞くと、

「千二百万円コースでお願いします」

と言われるんだそうです。

そういう人が東京には、たくさんいるんですね。

 病院に千二百万円なんてとんでもないと思いますけど、考えてみて下さい。

例の耐震偽装問題というのがありましたが。ビルの補強は、千二百万円じゃききません。

何千万円もかかります。

今にも家が倒れようとする時に

「補強に千二百万円かかりますが、どうされますか」

と言われたら、

「そりゃあしょうがない」

ということになるんじゃないでしょうかね。

 家ではないですけど、そこの大黒柱であるご主人がそういう状態になったら、千二百万円は案外高くないのかもしれませんね。

しかし田舎では、なかなかそうはいきません。

 島では急患が発生しますけれど、医師がいないときによく起こります。

急患が発生しないようにと、島を離れるときはいつもそう思って出てきます。

けれど、先週も枕崎の友人の所にいきましたが、その晩に心筋梗塞の患者が出まして、ヘリコプターで夜中二時に鹿児島市内に運んできました。

それはそれで、一件落着したんです。

 ところが翌日、携帯電話に入院患者さんの様態が悪くなったとの連絡が入りました。

そして、とうとうその方は亡くなってしまわれました。

私がいる間は、ここ二カ月何もなくて、「暇だなぁ」と言っていたんですけど、島を留守にしたとたんに急患が発生するんですね。

 このように、離島医療はいろんな特徴がありますが、やはり孤立していることが一番の問題だと思います。

周りを海に囲まれていますから、海の事故というのもあります。

人が足りないし、医療機器もないし、どんな患者が飛び込んで来るかわからないということで、不安とか恐怖とか非常に増幅されやすいです。

自分の限界、あるいは信頼関係というのもあります。

不安が増幅するというのは、離島医療の特徴の一つであります。

例えば、けがをすると破傷風になって死んでしまうんじゃないか。

そうなると、小さな傷でもいたたまれなくなってきます。

このような連想がはたらくのは、昔そういう怖いことを経験しているからなんですね。

ちゃんとした治療が受けられずに亡くなったという話もあります。

しかし、そういった不安は何も住民だけではなく、医師にとってもあるんです。

お仏壇を購入するのはいつがいい?

よくお仏壇を購入するのは誰かが亡くなった後がいい。

生きているうちに購入すると死が早くなる。

一家に複数のお仏壇があると先祖が迷うといったような迷信を耳にしますが、これはお仏壇を亡くなった人が入る入れ物だと誤解していることから出てくる言葉ではないでしょうか。

言うまでもなく、お仏壇とはご本尊、阿弥陀如来様をご安置する所です。

また、お寺(お内陣)を小さく縮小したものだとお考え頂けるとよいと思います。

このような意味で、浄土真宗の教えを受ける門信徒の方々にとっては「心のよりどころ」と言っても過言ではないです・蓮如上人は「念仏のことは急げ急げ」とおっしゃっておられます。

阿弥陀如来様を我が家にお迎えし、生かされた今日一日に感謝の心で手を合わす。

お念仏を称えさせていただくのに早いも遅いもありましょうか。

一日でも早く阿弥陀如来様をお迎えし、朝な夕なにお念仏称えさせていただくのが、浄土真宗の門信徒としてのたしなみでありましょう。

人生は「無常」です。

この世の縁がつきれば、老いも若きも誰でも死んでゆきます。

根拠のない迷信を信じることより、明日をも知れぬ今日、今このときを大切にお念仏申させていただきましょう。

新年2007年を迎えたと思ったらあっという間に1ヶ月が過ぎ、2月に入りました。

新年2007年を迎えたと思ったらあっという間に1ヶ月が過ぎ、2月に入りました。

小さい頃、近所のおじさん・おばさんがよく、「時が経つのは早いなあ」と言っていました。

当時はそんなに感じなかったことですが、最近は特に時の流れの早さを感じるようになってきました。

 その近所のおじさん・おばさんが新年を迎えてすぐ1人、2人とたて続けにお亡くなりになられるということがありました。

通夜・葬儀に参列され、他の皆さんといろいろとしゃべっておられたその方も、まさか数日後には自分の葬儀が行われていることになろうとは…、予想だにされなかったことと思われます。

 小さい頃から、学校の行き帰りなどに会うと、必ず「今から学校ね」「今帰ったの」といつも微笑みながら優しい言葉をかけてくださり、可愛がって下さった方々との別れに接すると、改めて人生無常の理と時の経過がしみじみと感じられることです。

 昔からお寺の法要等によくお参りされている方は、たいがい自分の座る場所を決めておられるようで、お参りに来られるとその「指定席」に着かれます。

そして、その場所でご講師のお話を聞きながら笑ったり・泣いたり・うなずいたりしておられます。

ところが、その指定席も最近は空席が目立ってきました。

 人は去っても、その方の残した微笑みはいつまでも心に残っています。

また、人は去ってもその方が残された言葉は残っています。

『前(さき)に生まれんものは後(のち)を導き、後(のち)に生まれんひとは前(さき)を訪(とぶら)へ』の言葉を味わうと共に、先に浄土へ往生されて行かれた方々の後姿を訪ねながら、念仏申させていただく日々です。

『もったいない MOTTAINAI』

 現代は『もったいない』という言葉を伝えることが難しい時代だという話をよく聞きます。

特に今の子供たちには、

「もったいない」

と教えてくれる大人が側に居てくれるかどうかでさえおぼつかない時代と言っても過言ではないかもしれません。

身の回りに物があふれ、物を大切にする心が忘れ去られてしまっていることの現れなのでしょうか。

 物を大事にするというのは、例えば食事の時なら、ご飯茶わんについたご飯粒を一粒も残さないようにとか、目の前の料理を残さないように等。

調理の時なら、献立や調理法を工夫をして極力捨てる部分が無いように調理をするとか。

文房具で言えば、鉛筆が短くなったらキャップをつけて最後まで使うとか、ハサミや定規の取り扱いを丁寧にしたりとかということです。

 一つ一つの物や事を大切におもう気持ちが薄れてしまっていないでしょうか。

一つ一つの事物が無数の縁によって成りたち、今私の眼前に現れているということを、なかなか気付けないようになってしまっているのではないでしょうか。気をつけたいものです。

 さて、『勿体無い』の言葉の由来をたずねてみますと、勿体の「重々しさ」「威厳さ」などの意味から、もったいないは「妥当でない」「不届きだ」といった意味で用いられていたようです。

そこから転じて「自分には不相応である」という意味になり、「ありがたい」や「粗末に扱われて惜しい」など、もったいないの持つ意味は広がって行きました。

 ここで、「ありがたい」という意味に着目してみると、「事物が粗末にされて惜しい」という意味のもう一つ向こうに「こんな私に勿体無い」という巡り合わせをよろこぶ感謝の心が込められていることが分かります。

 「もったいない」の心、今こそ大切にしなければならないのではないでしょうか。

 ちなみに、「勿体」は本来「物体」と書き、「もったい」と読むのは呉音。

「物の形」

「物のあるべき姿」

の意味から派生して、

「重要な部分」

「本質的なもの」

の意味に。

さらに、重々しい態度などの意味に派生し、意味が離れてきたため「物」が省略され、「勿」という表記で和製漢語の「勿体」が生まれたとされます。

「親鸞聖人の往生観」(3)2月(前期)

 私たちが一般的に願っている往生は、本質的には双樹林下往生か難思往生なのです。

そのために結局は行き詰まってしまうことになるのです。

それ故に、真実の往生を求めるべきなのですが、それにはまずこの二つの方便の往生を離れなければなりません。

しかし、私たちの持つ本能的な願い、つまり現世の利益と未来の利益を求める欲望は、まことに根深く容易に離れられるものではありません。

いつもどちらかを願って生きているからです。

そのような意味で、この真実の行信による難思議往生は、まさにとらえることが難しいのです。

自らの力では、絶対に信じられない世界、といってよいのかもしれません。

そこで釈尊は、この信を獲ることを「難中の難これに過ぎたるはなし」と言われるのです。

 私たちが浄土を求める時、その浄土を私たちは自分の心の内に求めるか、そうでなければ自分の心の外に求めているといえます。

ところが、内と外を必死に探し回ったとしても、探している浄土はどこにも見あたらないといえます。

それは対象的に、あるいは固定的につかめるような、仏や浄土はどこにも存在していないということです。

 さて、ここで自分の心の在り方を問題にしてみますと、心そのものに見られる不思議さということに気付く必要があると思います。

たとえば、ここで「感情」について考えてみたいのですが、よく愛や憎しみということをいいます。

ところが、これは愛する心と憎む心が二つある訳ではありません。

同じ心が愛する心にもなれば憎む心にもなるのです。

要するに、一つの心がある縁にふれて愛する心にもなり、また次の瞬間には憎む心に転じるということです。

その「ある縁」とは、人とか出来事とかさまざまです。

そして、それによって、心がさまざまに変化しています。

したがって、愛にしろ憎しみにしろ、そういうものの実体を、自分の中にいかに探し回ってみても、見つけることなど出来ないのです。