投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「島守二十八年 島に学ぶ」(上旬) 一万円なら安い

======ご講師紹介======

瀬戸上健二郎 さん 下甑手打診療所所長

☆ 演題 「島守二十八年 島に学ぶ」

2月のご講師は、下甑手打診療所所長の瀬戸上健二郎先生です。

昭和十六年、鹿児島県東串良町生まれの瀬戸上先生は、鹿児島大学医学部卒業後、同大学第一外科に入局。昭和四十七年に国立療養所南九州病院の外科医長に就任。

その後、昭和五十三年から現在の下甑手打診療所所長として赴任されます。また、薩摩郡医師会理事長、国診協鹿児島県支部長、鹿児島大学臨床教授を務めておられます。平成十二年度藍綬褒章を受章されました。

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下甑手打診療所所長 瀬戸上健二郎 さん

 離島医療は新聞やテレビでよく取り上げられますけど、それは簡単に片づけられない問題があるからです。

その原因として大きく分けてみると、仕事半分生活半分ですね。

孤立して人が足りないし、付き合いも貧弱です。

自分の腕を活かそうと思っても活かせないし、特に専門外のことをどうするかというようなこともあります。

 それから、取り残されるんじゃないかという不安も出てきます。

生活面でも物価は高いし、なかなか休みが取れないのでゆとりがないです。

また、子どもの教育という問題も起こってくる訳です。

 島で今何が起こっているのか。

これは島に限りません。

鹿児島県の地方に行ったらみんなそうだと思いますが、「地域力」というのが低下していると思います。

島で言えば、下甑島もかつては一万三千人いたんです。

それが私が島に行った頃は、五千人近くまで減っていました。

 昭和二十年代から四十年代の頃の人口減少といえば、島離れによるものです。

しかし島に仕送りをしてくれますから、いろんな意味でよかったわけです。

今は過疎ですけど、当時の人口流出というのは、島にとってみれば非常に有り難いものだったと言えるかもしれません。

 一万三千人から五千人までの減少、ここまではよかった。

しかし、今は二千八百人を切ってきたんです。

こうなってくると商売もうまくいかない。

医療もやはり赤字ではなかなかやっていけないです。患者さんがいないと、上手くいかない面もある訳です。

 いろんなところに影響が出ています。

介護保険が始まりましたが、同時に一割負担というのが医療でも投入されました。

今までは下甑村にはホームヘルパーさんが九人いたんですけど、それがたった二人になっています。

在宅医療でも六十人ぐらい回っていましたが、それもたった一人になってしまいました。

 それはお年寄りが減ったわけではなく、利用する側の問題なんです。

たとえば在宅医療ですと、昔は五百円とか千円だったのが、今は一割負担ですから一月五千円ぐらいです。

とたんに、もう結構ですとお断りされて、どんどん減ってとうとう一人になった訳です。

 今年から「在宅医療支援診療所」という届出をしますと、脳卒中で倒れた人がいたり、動けない人やお年寄りがいる家には、近くのお医者さんが来てくれると思いますが、鹿児島市辺りですとおそらく一万円ぐらいはかかるんじゃないでしょうか。

 島で一万円出して在宅医療をやりますと言っても断られます。

ところが、鹿児島市の先生方のお話を聞きますと、引っ張りだこだそうですね。

一万円ぐらいなら安いと思っている人たちがたくさんおられる訳です。

そういう「地域格差」が広がってきています。

「文学にあらわれた仏教」(下旬) 今死んじゃ困る

鹿児島女子短期大学学長 石田忠彦さん

 意識というものを生命の連続として考えて、それが途切れた人間というのはいったい何だろうか。

ちゃかすような意味でいえば、ただ気を失っていただけということになりますけど、漱石にとっては大事件なんです。

そのあと、大正まで意識について考えを深めていきます。

小説はほぼそれが主題になり、人間にとって意識とは何かということの追求になっていくんです。

 漱石は大正五年に『明暗』という小説を書き始めていますが、そのちょっと前から「即天去私(そくてんきょし)」これも仏教的な考え方でみられていますが、色紙とかによくその言葉を書いています。

最後は『明暗』を途中まで連載して、胃潰瘍で亡くなるんですが、まだ大正五年頃は仏教の影響が非常に強いので、お弟子さんたちはこの「即天去私」ということを盛んに言っていました。

超越的な大きな力に従って、私という個人的なもの、これはエゴイズムでもいいですし、迷いでもいいんですが、そういうものをなくす。

いわゆる解脱ですね。

そういう形で漱石は悟ったかどうかまでは言っていませんけど、非常に落ち着いて死んでいったというふうにお弟子さんたちは考えていたんです。

 ところが、しばらくして漱石の最期を看取った医者の証言とかが出てきたんです。

それによると「痛い、痛い、今死んじゃ困る」と言って死んだというんです。

ちっとも悟っていなかったんです。

でも、人間というのはそういうもので、だからといって漱石が駄目だとは全然考えません。

 漱石は「即天去私」の境地で眠るがごとく死んだのではなくて、「痛い、痛い」と言って死んだんです。

なぜ「今死んじゃ困る」だったのかというと、第二の文学論を書きたいという構想があったんです。

とりあえずは『明暗』という小説は途中までで未完です。

このようにいっぱい計画があったので「今死んじゃ困る」だったんでしょう。

 漱石は、ヨーロッパで科学的なものを勉強してきたせいもあって、意識の深層みたいなものをどんどん考えていくんです。

しかしそれを考えていく場合に、やはり仏教的な流れというのは、伝統として漱石の中には明らかにあるわけです。

 二十世紀になってから、人のいのちというものを意識で考えまして、その科学が進んでいきます。

それと平行して宗教も哲学も進んでいきました。

文学者たちもそういう形で小説を書くんですけど、今後これらの問題はどう展開していくかは、私も予想がつきません。

『お念珠をなぜ持つのでしょうか?』

 仏事や礼拝の時に欠かせないのが「念珠(ねんじゅ)」です。

数珠(じゅず)とも言いますが、浄土真宗では念珠という言い方を用います。

念珠の使われ方は宗派によってまちまちですが、浄土真宗では礼拝の法具として用います。

大きく分けて二連珠(二重にして用いる)と短念珠(一般的な一重で用いる)があります。

扱い方としては、基本的には左手に持ち、合掌の時には合掌の手にかけて礼拝を行います。

房は上に向けたりせず、常に下にたらした状態で持ちます。

 念珠には、珠の材質や大きさ、房や紐の色等が異なる様々な物があり、京都にはお念珠の専門店があるくらいです。

お好みや服装に合わせてお求めになるのもいいでしょう。

お気に入りのお念珠を持つとお寺参りも楽しみになってくるものです。

 念珠は大切な法具です。

直接畳や床の上に置いたり、投げたりしないようにしましょう。

また、お参り先で貸し借りをしたりすることが無いようにMy念珠を持ちたいものです。

 なお、珠の数は『数珠功徳経』というお経の中に、百八個を標準として、多いものは千八十個、少ないほうは五十四個、二十七個、十四個という記述があるようですが、短念珠については珠の大きさによっていろいろです。

あなたのお手持ちのお念珠の珠は、いくつになってますか?

(参考文献)

1)『仏事のイロハ』末本弘然著(本願寺出版社)

2)『門徒もの知り帳(上・下)』野々村智剣著(法蔵館)

3)『真宗事物の解説』西原芳俊著(ピタカ)

『初灯明 ひかりといのちきわみなし』

「ひかりといのちきわみなし」

を漢字で書くと

「無量寿・無量光」

となります。

これは、南無阿弥陀仏の願いの働きを意味しています。

まず

「無量寿」

ということですが、私たちは無量寿というと、中国以来のいわゆる不老長寿あるいは肉体的な長生不死と同じようなイメージを心に浮かべます。

けれども、いつまで死なないということだけで、果たして私達は幸せだといえるのでしょうか。

寿命の寿という字には「ことぶき」喜ぶという意味があります。

つまり

「生きている」

という時には、その生きていることに喜びが伴わなければ、真の意味で生きていることにはならないのではないでしょうか。

ですから、私達は生きていることに喜びが伴わなければ、むしろ死ねないことが苦痛になるのです。

なぜなら、どんな苦しみにも終わりがあるということで救われている面がありますが、もし死ねないことになれば、この苦しみにも終わりがなくなってしまいます。

したがって、阿弥陀仏の寿命が無量だということは、多くの人びとに生きる勇気を与え、生きる喜びを与え続け、その働きが人から人に波及していくことに限りがないことを意味しています。

次に「無量光」とは、阿弥陀仏のはたらきを空間的にあらわした言葉です。

仏教では迷いの心を無明と言い表し「闇」にたとえます。ですから、その闇を破る働きを「光」で表すのです。

無明の闇というと、文字の上からは何も見えなくて暗闇を手探りで歩いていることのように思ってしまいますが、本当のいちばん深い闇は

「わかっている」

という思いです。

つまり、自分は何でもわかっていると思い込んでいる、そういう自分を振り返ることのない在り方が闇という言葉で表されているのです。

したがって、自分の思いを一歩も出ることがないために、事実に触れることが出来ないのです。

だからこそ、永遠の闇であり「無明」だと言われるのです。

それはまた、わからないのではなく、わかっていないことをわかっていない在り方だともいえます。

そのような私を照らし、多くの迷いに惑いながら生きているにもかかわらず、そのことにさえ気がつかない私の事実を知らしめるはたらきこそが、まさに光の働きなのです。無量光とは、仏が私を照らしだす働きに限りがないということを意味しています。

これからの一年、周囲の人びとと「ひかりといのちきわみない」南無阿弥陀仏の働きを共に感じ、喜びながら過ごして行きたいものです。

「親鸞聖人の往生観」(2)1月(後期)

 もちろん、そのような理性や理屈で納得のいかないことこそを信じるのが宗教だという一面が確かにあることは事実です。

けれども、多くの場合、その不可思議さを求めないで、単に自分はこの問題に答えられないからといって逃げてしまうのです。

逃げるということは、問題を直視しないということで、無理に信じるか、それとも問題にしないかということになるのです。

それは当然で、浄土があるかないかと問われて、無いと言えば自分に信心がないことになりますし、だからといって本当に信じているか、と問い詰められますと、その信心はぐらついてしまいます。

 浄土に関して、私たちの心はそのようにぐらついているのが正直なところです。

そこで、私たちはそのような自分を励ますように、一生懸命に信じようとするのです。

さらにいえば、本心では疑っているのに、信じているのだと、一心に自分に言い聞かせるのです。

そういう在り方が、難思往生だといえるのではないかと思います。

私たちの大半は、この立場に立って、すなわち浄土は望遠鏡で探して、有るのか無いのかというような次元で、浄土の存在を考えてしまうのです。

 このような求め方は、問いそのものも、またその答えも間違っていることになります。

では、浄土とは何か。

この難思往生が否定されることによって、ここに親鸞聖人の、真実の行信の果としての、難思議往生という世界が出てくるのです。

「親鸞聖人の往生観」(2)1月(中期)

 双樹林下往生が錯覚であるとわかりますと、次に私たちが必然的に求めるのが難思往生です。

つまり現実の救いが不可能になりましたので、未来の救いを願うようになるのです。

先の双樹林下往生は、自らが仏と等しい清らかな心になり、その心を因として往生しようとするものでしたが、それが錯覚だとわかりますと、こんどは未来における救いの実現を、自分よりはるかに大きな力にすがることによって求めようとするのです。

もはや自分には、よくなるべき力は何一つないのですから、救いを外の力に求める、すなわち神仏に一新にすがる心が生まれるのです。

仏の大悲や神の会いを必死にこい願うのです。

これはただひたすら神仏にしがみついて、永遠の浄楽の世界に生きようとする姿です。

この場合、私たちは神仏を自分とは隔絶した、非常に遠くの存在として仰ぎ見ていることに注意したく思います。

 こういう信仰の構造は、浄土真宗のご門徒の中にも往々にして見られます。

たとえば、浄土教では西方に極楽浄土があると教えています。

そこでこの浄土のお話をしますと、それは天体望遠鏡で見られるのですか、と尋ねるのです。

あるいは本当にそのような浄土が存在するのかと問われるのです。

けれどもこのような問いは、本当のところ誰も答えられません。

しかも、もし住職がそれらの問いに答えられないとなると、

「それは浄土を信じていないのだ」

と、とられかねません。

そこで、私たちは

「必ず浄土はある」

と自らも信じ、他にも信ぜしめようとします。

ところで、このようなことは、実際的には誰もが非常に疲れるだけに終ってしまいます。

なぜなら、お互いが納得できないものを無理矢理に信じよう、信じさせようとしているからです。