投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「文学にあらわれた仏教」(中旬) 命は意識の連続

鹿児島女子短期大学学長 石田忠彦さん

 漱石は若いときから胃が悪くて、ずっと胃潰瘍を患っていました。

『我が輩は猫である』の中の苦沙弥(くしゃみ)先生が、ジアスターゼをいつも飲んでいるんですけど、とかく漱石もそうでした。

明治四十三年に持病の胃潰瘍が悪くなって、東京の病院に入院して一応は良くなるんです。

 良くなったものですから、夏に伊豆の修善寺に病気療養に行くんです。

ところが、そこで漱石は吐血してしまう。

ちょうどそこに台風がきて、交通が遮断されてしまって情報が途絶えるということもあるんでしょうが、連絡がとれないので新聞は漱石の死亡記事まで組んだそうです。

実は生きていたんですけどね。

 この事件を「修善寺の大患」と言います。

そして、この事件がきっかけで、漱石は大きく変化していって、面白いか面白くないかは読む人にもよりますが、小説が一段と深みを増していきます。

 修善寺では、本人は治りかかっていると思っていましたけど、ずっと苦しかったようです。

鏡子夫人が横で看病をしている時に、漱石は吐き気がするものですから身体を向けた途端に吐血したので、夫人が洗面器か何かを持って来たところ、そこにレバーみたいな血の塊を吐いているんです。

 漱石は一、二カ月の間、ただ単に吐き気がして吐血しただけだと思っていたんです。

しかし、あとで鏡子夫人から「あなたは三十分くらい死んでいらっしゃったんですよ」と言われるんです。

三十分くらい意識がなかった訳ですが、本人はずっと意識が繋がっていたと思っていたんです。

そこで、漱石は本気で考え始めるんです。

 ロンドンで科学的な知識をいっぱい身に付けて日本に帰ってきて、科学的な意味合いでの文学論を書こうとしているときなんですけど、そういう漱石が、人間の生命というのを意識の連続としてとらえているわけです。

当時としては、非常に新しい考え方なんです。

 その意識の連続が生命と思っている本人が、三十分意識がなかったのですから、これはいったい何だろうと考えてしまいます。

健康な人が読んでも数カ月はかかると言われているような、ジェイムズという人の英語の論文などを取り寄せて、寝ながら読んでいますから、やはりすごい人です。

そうして、この三十分の死というのはいったい何だったのか、そこを一生懸命考えていくんです。

 もともと漱石は仏教についていくつか書いています。

『門』という小説があるんですが、その中で主人公が友人の奥さんを獲ってしまい、そのために友人は中国大陸の方に流れていく。

主人公は東京で奥さんと暮らしているんですが、たまたま崖の上の大家さんのところにその友人が来るようになったら、過去にそういうことがあるものですから、主人公はノイローゼのようになってしまいます。

 それを克服するために鎌倉の禅寺に行きます。

そして、それこそ解脱や悟りについて考えて行くんです。

そこで禅寺のお坊さんから「『父母未生以前本来之面目』、あなたの両親が生まれる前のあなたの存在の意味はどこにあるか考えなさい」と言われます。

主人公は一生懸命考えるんですが、もちろん結果は出ないので、結局そこから逃げ帰って来るという話です。

漱石は、こういう形で仏教についてもいろいろと考える人でした。

『どうして仏壇が必要なの?』

「仏壇がなぜ必要なのか」という質問に答えることは「仏壇とは何か」という問いに答えることと同じことだといえるようです。

では、お仏壇とはいったい何かと言いますと、文字通り”仏さまをご安置する壇”です。

この場合、仏さまというのは亡くなられた方々をさすのではなく、浄土真宗のご本尊である南無阿弥陀仏(阿弥陀如来)を意味しています。

南無阿弥陀仏という仏さまは、私のありのまますべてを受け止めてくださる仏さまです。

ちょっとしたことで悩んだり、ささいなことにこだわったり…、時には自分のあるべき姿を見失ったりする私を、いつも救いの目当てとして願いあたたかく包み込んでいて下さいます。

そして、いつも変わることのない大いなるいのちのはたらきの中に包まれる安心、生きる勇気と安らぎをもたらして下さる、そんな仏さまです。

お仏壇を安置するということは、その仏さまを家庭の中にお迎えするということです。

お仏壇はお寺の内陣と同様に、南無阿弥陀仏の世界(浄土)を象徴的に表しています。

各ご家庭のお仏壇はお寺の内陣の出張所のようなものですから、お仏壇を迎えるということは、大いなるいのちのふるさとを表現した場所を家庭の中にも設けたということを意味します。

また、仏さまを家庭に迎えるということは、家庭の中に礼拝の場所ができるということですから、家族一人一人が心のよりどころとなる場所、私のいのちに出会う場所を迎えるということにもなります。

家族そろって仏さまに手を合わせるということは、必ずや心豊かな家庭生活を築くことにつながります。

「心の時代」だと言われている現代にこそ、大切な習慣なのではないでしょうか。

お仏壇は決して死者のためにあるのではありません。

まだお迎えでない方は、どうぞご家庭に心のよりどころとなる仏さまの安置場所としてお迎え下さい。

(参考文献)

1)『仏事のイロハ』末本弘然著(本願寺出版社)

2)『門徒もの知り帳(上・下)』野々村智剣著(法蔵館)

3)『真宗事物の解説』西原芳俊著(ピタカ)

天候が良すぎたのか、はたまた地球温暖化の影響なのでしょうか。

天候が良すぎたのか、はたまた地球温暖化の影響なのでしょうか。

昨秋は、全国的に野菜が大豊作だったそうです。

ところが、それが生産者にとっては災いしてしまい、鹿児島県においても大隅半島の東串良地区特産の「ピーマン」が、出荷時期を前に値段が大暴落してしまい、出荷すればするほど農家の方々にとっては損失が大きくなるため、止むを得ず処分をしているということがテレビ・新聞等で大きく取り上げられました。

 適正な価格を維持するために、出荷に必要な分だけが収穫され、それ以外の残りのピーマンが無惨にもトラクターで踏みつけられていく映像を、胸の痛む思いで見たことでした。

また、同時に、生産者の方々が「廃棄処分」という苦渋の決断をされるに至った心境はいかばかりであっただろうか…と、思わずにはおれませんでした。

 一般に、私たち消費する側の視点で見れば「あぁ、なんてもったいないことを…」と、短絡的に考えてしまいがちです。

買う場合、安いにこしたことはありませんし、ましてや「捨ててしまうのであれば、分けてもらえないだろうか…」という思いが誰の心をもよぎるはずです。

けれども、ここでひとつ考えさせられた事柄があります。

 それは、いつも私たちは自分の都合でしか物事を見ていないということです。

今は、たくさんの物があふれている時代ですから「お金さえ払えば何でも購入できる」といった感覚が身についてしまっています。

そのような私にとって、この報道は「自身の性根が試されている」かのような思いがしました。

 「物流社会」の波にかき消されて、いつしか「お野菜」も「お魚」も「お肉」も、そのすべてがいのちある存在であったことを忘れ、日々その尊いいのちを頂いているにもかかわらず、関心事といえば美味しいかどうか、値段は高いか安いかといったことに一喜一憂し、つまるところいのちを「物」としてしか見ようとしていない在り方に陥っていることに気付かされたことでした。

 処分される野菜を見ながら発した「もったいない」の言葉も、いのちを愛おしむ心からではなく、単に「処分するくらいならただでもらうのに…」といった、何とも浅ましい心から発した言葉に過ぎなかったのでした。

改めて、食前の「頂きます」の言葉の意味を大切に受け止めたいと思います。

『初灯明 ひかりといのちきわみなし』

新しい年を迎えました。この一年の始まりを、あなたはどのような思いで迎えられましたか?

さて、昨年はさまざまな事がありました。

特に「いのち」について、深く考えさせられることが幾度もありました。

中でも悲しいことに、虐待・いじめなど子どもたちが痛ましい出来事に襲われることがあまりにも多くあり過ぎました。

なぜ、そのような悲惨な出来事が次々と起きるのでしょうか。

それは私たちに今「いのち」のすがたが見えなくなってしまっているからではないでしょうか? 

言い換えると、私たちは昨日・今日・明日という一日一日を「生きていて当然」という考え方に陥ったまま生きているのではないでしょうか。

「いのちのすがたを見る」ということは、まず自分のいのちを見ていくということです。

よく「いのちは自分だけのもの」といったことを口にする人がいますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

日々の生活に目を向けると、決して「そうだ!」とは言い得ないはずです。

考えてみますと、私のこの「いのち」は、親や先祖の方々のいのちと深く繋がって成り立っています。

そして、こうして一日一日を過ごして行けるのも、生きものや植物の「いのち」をいただいているからこそだといえます。

まさに、そのような繋がりがあってこそ、私の「いのち」というものは成り立っているのであり、単に私のいのちが独立して成り立っている訳ではありません。

お互いに支えられ、支え合いながら生きています。

もちろんそれは私だけのことでなく、誰もがそのようないのちを生きています。

けれども、多くのいのちに支えられているという事実に、自ら気付くのはなかなか容易なことではありません。

また何度そのことを聞いても、ともすれば忘れがちな私のこころを、常に明るく照らしてくださる阿弥陀様のおはたらきがあればこそだといえます。

新しい年を迎えるにあたり、この一年を阿弥陀様のみ教えに照らされながら、私のこのいのちは、生きとし生けるものの恩恵によって生かされていることへの謝念を忘れずに過ごしていきたいと思うことです。

「親鸞聖人の往生観」(2)1月(前期)

 双樹林下往生にし、本来的な立場からすれば、この世を清らかな国土にしようとする願いはありませんが、行道の方向からすれば、そのような願いをも抱いています。

その求道が、まことに仏に帰依した崇高な願いに基づく実践であったとしても、そこにもし世俗的欲望がほんの少しでも残っていれば、まさに「偽」の教えの持つ独善の罠に転落してしまうのです。

そして、今日の私たち凡夫は、どこまでいっても結局、自己の欲望を完全に払拭することはできないのです。

そうであれば、この世の中に仏の国土をつくろうとする願いは、努力を積み重ねることが、より一層の錯覚に陥ることにつながります。

いうまでもなく、親鸞聖人には念仏を称えてこの世を仏の国土にしようとする思想はまったく見られません。

むしろそういう考え方を根本的に否定しておられます。

なぜなら、そのような考え方に染まることが、結局「邪見驕慢悪衆生」になってしまうからです。

自分の教えこそが一番良い。

念仏は世界に通用するのだ。

そのように、独善的になるのが一番こわいのです。

しかし、そのような考え方がもっとも私たちにわかりやすく、関わりやすくもあるのです。

そこで、私たちの目の前に「福徳」を並べて往生を求めさせる方便がまずとられることになるのです。

それが双樹林下往生です。

最も入りやすいのですが、外道的実践は可能だとしても、仏道としてこの道を完全に実践することは不可能だといわねばなりません。

そこに次の方便の道が用意されることになる理由があります。

「文学にあらわれた仏教」(上旬) 漱石は頑固者だ

======ご講師紹介======

石田忠彦さん(鹿児島女子短期大学学長)

☆ 演題 「文学にあらわれた仏教」

昭和十三年佐賀県生まれ。九州大学文学部卒業後、高等学校教諭、活水女子短期大学助教授を経て、昭和六十年に鹿児島大学法文学部教授に就任。翌年には文学博士の学位を取得されました。

専門は日本近代文学で、特に明治文学と鹿児島の文学を中心に研究しておられます。

著書に『坪内逍遥研究』などがあります。

==================

鹿児島女子短期大学学長 石田忠彦さん

 「文学にあらわれた仏教」という題で、仏教的伝統についてお話します。

これはあくまでも小説家の表現した仏教ですから、仏教界で教えるものとは異なるかもしれません。

その点はよろしくご了承ください。

それでは夏目漱石についてお話します。

 ロンドンから帰って、一高と帝大(現東京大学)の講師をしていた夏目漱石(当時、金之助)が、人間関係などでノイローゼがひどくなってしまい、そこに友だちの正岡子規の弟子であった高浜虚子が『ホトトギス』という俳句の雑誌に「気晴らしにものを書いてみないか」ということで書いたのが『我が輩は猫である』の第一遍です。

 実は、一遍で終るはずだったんですが、評判が良いもんですから、第二編も書いてみるかということになって、学校の講義よりも猫を書くのが楽しくなって、とうとう十一編まで書いています。

そうしている間に、だんだん小説を書くのがおもしろくなってきてしまって、まあ自分の精神にも良いものですから、多くの小説を書くんですね。

 依然として一高・帝大の中では人間関係がうまくいきません。

なかなか偏屈ですからね。

だいたい「漱石」というペンネームは、頑固者という意味なんです。

中国に「流れに漱(すす)ぎ石に枕す」という漢詩があるのですが、ある男がこれを間違って「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまったのです。

違うじゃないかと指摘しても、その男はこれで正しいと言い張るということがありました。

このように、頑固に自分の言うことをまったく引かない男のことを「漱石枕流」と言います。

そこからペンネームを取ったものですから、頑固者だということを自分も知っていた訳です。

こうして夏目金之助は夏目漱石として、次第に小説の方が本気になっていくわけです。

 高校も大学もなかなか教授にしてくれず、雑用ばかりさせられて嫌になっているとき、三高(現京都大学)が英文科を創るから手伝ってくれと言われたり、読売新聞社から誘われたりするんですが、その他に朝日新聞社からも声がかかります。

もちろんそのとき迷ったと思いますが、結局朝日新聞社に転職をします。

 朝日新聞社は、現在は東京に本社がありますが、当時は大阪が本社で、別の形で支社みたいに東京朝日新聞社がありました。

同じ経営者ですけど、東京と大阪は別会社だったんです。

それで漱石は「大阪に引っ越さないといけないかな」と考えたようですが、社主が「東京で頑張りなさい」と言ってくれるから、東京にいて小説を朝日にだけ連載するということになるんです。