梵語ナラカの音写語で「地獄」の意味です。
この大地から八熱地獄のうちの最低の無間地獄まで五万キロ余の距離があると言われます。
劇場の舞台や花道のせり出しの地下が真っ暗で、地獄を連想させたことから「奈落」とよぶようになりました。
梵語ナラカの音写語で「地獄」の意味です。
この大地から八熱地獄のうちの最低の無間地獄まで五万キロ余の距離があると言われます。
劇場の舞台や花道のせり出しの地下が真っ暗で、地獄を連想させたことから「奈落」とよぶようになりました。
それでは、どういうことが現実において重要なのでしょうか。
仏教は何を説くか、ということですが、これは原理的には簡単です。
心を清らかにし、正しい行いをすればよいのです。
そのために正しい考え方と、正しい言葉遣いと、正しい見方をする。
正しい努力をともなった、正しい生活をしなさいと説くのです。
もしすべての人が、このような生活を実行すれば、それはもうここにすばらしい社会が実現し、お互いが仏の心になっていくといえます。
そこで人びとは、自分に対しても他人に対しても、清らかな行いをして、すばらしい世界をつくろうと呼びかけるのです。
これはまことに立派な実践であり、とてもわかりやすい教えであるといえます。
ではこの教えのどこが方便なのでしょうか。
一見不思議に思われるかもしれませんが。
現に世の中にある多くの教えは、こういう立場にたって、その教えを宣布しているからです。
しかし、この教えを親鸞聖人は真実と見ないで、方便と見たのです。
なぜかというと、この双樹林下往生を願う人びとは、自らは一心に仏道を歩みながら、その仏道をともすれば自分勝手な正義観でつかまえようとしてしまうのです。
つまり、わが道こそが絶対に正しいのだとかたくなに信じて、その信を自分の正義にしてしまう、そういう方向を持ってしまうのです。
ですから、ともすれば偽の教えにしたがって生きている人びとと重なる面を持ってしまうといえます。
まさしく「我」にとらわれたまま、自分の正義を振りかざして、互いの善と善をぶつけ合うという、自分を作り出してしまうのです。
そしてさらに恐いことは、そういう自分勝手な思いに支配された行動が、仏道であると考えてしまうことです。
そのような錯覚をおこさしめる危険を、この双樹林下往生の立場はもっているのです。
この立場はわかりやすく、人びとの心に強く訴えますので、人びとを動かすエネルギーをもっています。
しかし、それだけにこの立場が、いったん誤ると恐ろしい結果をもたらします。
もし、これが
「なんでこんなに待たせるのよ」
と頭ごなしに言ってしまったら、
「こっちだってな、出かける前に電話かかってきたんや」
とケンカになったことでしょう。
こんなふうにすればいいんです。
すると会話がスムーズに行くと思います。
あと、ちょっとしたことですけれど
「言葉をなかなか伝えられない」
という人がいます。
そういう方には、いい教科書があります。
電車に乗るときに聞こえて来る案内です。
これは的確に教えてくれます。
JRの方の案内をぜひ聴いてみてください。
例えば
「まもなく電車が来ます。危ないので白線内にお下がりください」
というアナウンスがありますね。
まず、
「まもなく電車が来る」
という肝心なことを教えてくれています。
そして
「危ないですから白線内にお下がりください」
と続きます。
もし感情が先走ってしまうと、
「危ない危ない。下がれ下がれ。」
と先に言うんです。
言われた人は、何が危ないのかとキョロキョロします。
肝心の「電車が来る」ことを言っていないんです。
私たちは肝心なことを言わずに、感情的なことを言ってしまいがちです。
だから相手になかなか伝わらないんですね。
感情よりも、何があるのかという肝心なことをまず伝えるんです。
そうすれば、話の要を理解してもらえるので、誤解はなくなるんです。
断るときもそうですよ。
受け入れるときは何でもないんですけれども、断るときによく誤解が生じるときがあります。
皆さん、断るときにも「有り難う」と言ってください。
以前、アナウンサー時代に、ある女優さんを空港まで迎えに行ったんです。
そしたら、その女優さんは両手に荷物でした。
一つは持たなきゃと思いまして
「お荷物をお持ちしますよ」
と申し出ました。
そしたらその方は、まずその気持ちを
「有り難う」
と受け入れてくれました。
そして次に、
「せっかくだけどこの荷物はね、私の責任なの。
だから最後まで自分で荷物を持つようにしてるのよ。
せっかくだけどごめんね」
と言ってくれました。
私は最初
「有り難う」
と言ってくれたことに、なんと心遣いのある言葉だろうと思いました。
普通なら、
「自分の荷物は自分で持つから結構です」
と言います。
これだと
「せっかく持とうと思ったのに」
となりますよね。
まず、相手のその気持ちに「有り難う」と言って断るか、受け入れるようにしていただきたいと思います。
お互いの気持ちを活かすために、伝えるために言葉はあるんです。
けなすためにあるのではないんです。
伝えるということは、誤解があったりして難しいかもしれません。
ですが、皆さんの日頃の気持ちがそのまま言葉になりますから、心のこもった言葉遣いをしてあげてほしいと思います。
早いもので、今年も残りわずかとなりました。
この一年はあなたにとって、どのような一年だったでしょうか。
振り返れば、悲しいこと・嬉しいこと・辛いこと・楽しいこと、いろいろなことが折り重なり、まさに悲喜こもごもの一年だったのではありませんか。
また、今年新たに出会った人がいる一方、別れを告げた人もいたりされたことと思われます。
中国の古い言葉で「今日感会 今日臨終」というのがあるそうです。
『今日会って、お互いとても良かった。
その気持ちを大切にしよう。
でも今日会うことが、もしかするとこの世で会う最後になるかもしれない。
』という意味でしょうか。
これに似た言葉に「一期一会」があります。
こちらは、『一生において一度だけの出会い』ということで、まさしくこの世の道理、この世の事実を言い表している言葉です。
それに対して「今日感会 今日臨終」という言葉は、「今日」を生きている身において、深い痛みをもってうなずかれ、聞きとられた言葉であるように思われます。
また「臨終」の自覚は、そのまま今生きていることへの驚きと感動を思い知った者の言葉であると言えるようです。
人間誰でも、死ぬことは嫌なことです。
不安であり、恐ろしいのです。
だから、日ごろ私たちは、自分の死から目をそらし、気晴らしに明け暮れをしてしまうのです。
けれども、必ず「死すべきもの」として今を生きているにもかかわらず、恐ろしい、見たくないとその事実から目をそらしている限り、その生活はどこかにごまかしの色を帯びて来るものです。
しかし、私たちの生は必ず死ぬという事実を含んでいる生なのです。
つまり、死は決して生の外に、生と別にあるものではないのです。
私のこの命が生き、私のこの命が死ぬのです。
「死の自覚こそ生の愛である」という言葉がありますが、死ぬことを知りつつ生きるというところに、つねに生きることを問い、その意味を尋ねずにはおられない、人間としての生き方があるのだと言えます。
「死すべきものが今生きている」という事実に心を寄せるとき、間もなく暮れて行くこの一年の終わりにあたって、「恵まれたこのいのち」に「ありがとう」の言葉を捧げたいと思います。
梵語サハーの音写語。忍土とか堪忍土とも訳されます。
多くの欲や苦しみのある人間世界の意味。ここから転じて、私たちの住む俗世界、現世の意味になりました。
娑婆気とは、名誉や利益などの俗気の強い心持ちをさします。
私たちはまず最初に、この双樹林下往生の姿を求めていると言えるのです。
人間は誰しも願うことは同じで、現実の生活の上でのなんらかの利益を求めているのです。
ただし、仏教に帰依している人たちが願う現実の利益と、それ以外の教えにしたがって生活している人たちの現実の利益の求めは、やはり違うのです。
同じく現実の利益を願うといってもそこに大きな違いがあります。
それでは、仏教以外の教えにしたがって生きている人びとの現実生活での願いとはどういうものなのでしょうか。
これは、いわゆる現世利益といわれているものです。
この現世利益は、仏教では厳しく否定しているのですが、普通に人びとが宗教とのかかわりを持つ場合には、たいていこの形です。
いわば、自分の願いをかなえるために、神仏に祈願するという在り方です。
この願いはさまざまです。
合格祈願もあれば、家内の安泰もあります。
病気の治癒もあるでしょう。
もっと一般的なものといえば、交通安全の御札などがあります。
こういうことをなぜ仏教は否定するのでしょうか。
それには二つの大きな理由があります。
一つはそれらが、仏教の原理である因果の道理を無視しているからです。
つまりそこでは、人間が自己の責任において、物事の結果を引き受けていくという、真面目な態度を放棄させるおそれがあるからです。
平生は遊んでいて、非常の事態に出会うと、なりふりかまわず、神仏にすがるという姿がここに見られます。
それともうひとつは、かりに神仏に願いをかけ、何事かが成就したとしても、そこには永続性がないということです。
例えば病気の治癒を願って、幸い神のお恵みによっていったん病気が治ったとしても、その人が死を免れるということはありえないのです。
そうだとすれば、人間のそのときどきの勝手な願いを満たしていくことは、本当の意味ではその人間を幸福にすることにはなりません。
仏教はその点を見抜いているのです。
それは、単に苦しみを先にのばしているに過ぎません。
そこでこのような現世利益の祈願を、仏教は厳しく否定するのです。