投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「聞いてこそ伝えられる」(中旬) お前も老けたな

 そういう場合は、ひと言

「お前、今日は何かあったんか」

と尋ねればいいんです。

そうしたら奥さんが言うでしょう。

「ごめんね、私も今日はギリギリまで会合が続いてさ、スーパーのお惣菜を買ってきたの。

この程度の料理でごめんね」と。

相手に言わせればいいんです。

それを、目に見たままを言うものだから、相手はグサッときて、悪いと思っていても反発するんですね。

そしたら、もう言葉と言葉のケンカです。

感情はなかなか抑えきれません。

 二番目です。

まだまだ韓流プームです。

「ヨンさまがいい」

という方もいらっしゃるかと思います。

人間は誰しも憧れというものがあります。

私にも憧れている芸能人はいます。

奥さんがね、ヨンさまの写真を貼って、おめかしをしてたんだそうです。

そしたらご主人がじっと見て、

「お前アホか。ヨンさまが、お前みたいな女を好きになるわけなかろうが」

と言うんです。

奥さんもそんなことはわかっているんですよ。

実際にヨンさまと恋愛できるなんて、誰も思っていないんです。

 しかし、人間にはやっぱり憧れというものがあるんです。

何か楽しみが欲しいんです。

そのわかってはいても、言われたくないことをまともに言ったから、奥さんは

「この無神経め」

とケンカになるんです。

 最後は、日頃まじまじと奥さんの顔を見ないご主人が、あるときじっと顔をみるんです。

何であたしの顔を見てるんかなと思った時のご主人のひと言、

「お前も老けたな」。

奥さんからしたら、

「あんただって老けとるやろ」

と言いたいわけですね。

 このように、正直に言えば多くの場合相手を傷つけてしまうということを、ぜひ知っていただきたいと思います。

そんな時には、何でもない問いかけをしてやったらいいんです。

 例えば、私の場合、以前九州の実家に帰った時のことです。

駅から自坊の西蓮寺まではタクシーで六百円かかります。

そこで六百円を浮かそうと思いまして、家から車で迎えに来てもらうよう電話しました。

そしたら兄が迎えに来てくれるということになりましたので、駅で待っていました。

 ところが、約束の時間から十分過ぎてもまだ来ません。

二十分たってもまだ来ません。

こうなると、頼んでおきながらイライラしてくるんですよ。

勝手なもんです。

とうとう怒りが頂点になったところで、ようやく兄が来ました。

普通だったら私も

「なんでこんなに待たせるのよ」

と、思ったことをそのまま言うでしょう。

 でも、それを言うと必ずケンカになるのがわかっていましたから、

「お兄ちゃん、出かける前に何かあったん」

とひと言尋ねたんです。

もちろんこのときもイライラしてましたけどね。

すると兄がね、

「ごめんごめん。出かける前に電話がかかってきて、それがちょっと長くなってな。遅れてごめんな。」

と言ってくれたんです。

毎年十一月の二十二日・二十三日の二日間は、京都の本願寺に於いて秋の法要(全国門徒総追悼法要)が行われます。今年一年間に亡くなられたご門徒の方々を偲びつつ、様々なご縁で仏法に遇うことのできた喜びを分かち合う法要です。

総御堂でのお勤めには阿弥陀経作法第二種が依用され、大金や経切り太鼓、節析が鳴り響いて、それはそれは迫力のある法要です。法要後も御門主様の御親教(御法話)、布教大会や仏教讃歌の演奏会が催されたり、白州では本願寺献菊展やパネル展示があり、二日間にぎやかにお念仏の声が響き渡ります。

今年の秋の法要も、総御堂とはいえ満堂の中でにぎにぎしく執り行われました。御影堂修復の方も素屋根がほとんど取り外されて、真新しい綺麗な屋根瓦を拝見することもできました。御堂の裏手にある百華園では親鸞聖人七百五十回大遠忌に向けての準備がちゃくちゃくと進められており、大勢の人が百華園を見学できるように真実閣の移動が行われていました。

真実閣と言いうのは、別名「内道場」とも言われ、御門主様のお内仏のことです。蓮如上人の頃から境内の奥にお内仏を設けていたという記録が残っていますが、現在の内道場は、今から二百三十年ほど前に大阪十二日講の寄進によって建てられたものだそうです。真実閣の隣りに日本最古の蹴鞠場があり、桜、紅葉、柳、松の四つの木が四季折々に美しい花や葉を見せてくれていましたが、移動により伐採されたのが残念です。

『今年も暮れる 恵まれたこのいのち ありがとう』

今年も師走を迎えました。

先に臨む一年と過ぎ去った一年では時の長さが違うのかと思うくらいに過ぎた時間は速く感じられるものです。

皆さんはどんなお心持ちで師走をお過ごしの事でしょうか。

なんとなく当たり前のように、「あーまた一年過ぎようとしているんだな〜。

ほんとに速いな〜。

」くらいに思っている人も私を筆頭に多いんじゃないかと思います。

しかし、私達が当たり前のように迎えているこの年の瀬を、迎える事が出来なかった数多くの人々がいらっしゃるという事もまぎれもない事実です。

ハイデガーというドイツの哲学者が、死は究極の可能性だと言いました。

起きている時も寝ている時もたとえ家に閉じこもっていても、常にその次の瞬間に「私が死を迎える」という可能性が付きまとっているという意味において、究極の可能性だと言うのです。

本願寺八代目の蓮如上人が、後に白骨のご文章と呼ばれるお手紙の中に人のいのちのありさまを「明日(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕べには白骨となれり」としたためられたことは、まさに私達が今生きているこのいのちの姿をそのまま言い表された言葉でありましょう。

「明日の約束のないいのちが、今ここにある。

またそのようないのちを抱えながらこうして一年という月日を過ごす事が出来たんだ」と、自分のいのちを見つめる事ができたその時に、自ずと出てくる思いが、感謝の思いではないのでしょうか。

師走といえば忘年会のシーズンです。

たとえ今年あった事を忘れても、私のいのちを支えている深いいのちのはたらきを忘れてはならないのだと思います。

親鸞聖人の往生観(1)12月(前期)

普通、浄土への往生を願う人たちは二つの心で阿弥陀仏とかかわっているようにうかがえます。

言うまでもなく、建て前としては「浄土に生まれたいと思い念仏せよ、救う」と誓われる第十八願の立場で阿弥陀仏を一心に信じているはずです。

ところが、心の内はどうでしょうか。

自分勝手な願いをかけて、阿弥陀仏を拝んでいるのではないでしょうか。

この場合、第一の建て前よりも、この第二の本音の方がはるかに強いのです。

つまり、私たちは普通、阿弥陀仏に対して、今の暮らしが少しでもよくなりますようにと、現在の幸福を願い、さらには未来においても、この幸せな暮らしが続きますようにと、未来の幸福を願っています。

いわば、現在と未来の二つの利益が、私たちのいつわらざる願いなのです。

ところで、この願いは実は第十八願の教えとは、全く逆の立場にほかなりません。

したがって、こういう願いはまさしく真実からもっとも遠く隔たったものであり、仏の目から見れば、仏の願いに背いている姿であるといわねばなりません。

さて、現実においては、いずれにしても私たちは、この現在と未来の幸福の実現を阿弥陀仏に願う訳です。

そういうことを願うのが、私たちの心の構造なのです。

仏教では、この現在の生活が良くなることの求めを「福徳蔵」、その未来永遠にわたる善きことの求めを「功徳蔵」といいます。

福徳蔵は、現在の求めであることから「双樹林下往生」と呼ばれ、功徳蔵は永遠の求めであることから難思往生と呼ばれています。

なお、この二つは方便であるため、最終的には否定されるのですが、私の現実はこのどちらかをいつも願って生きているのです。

               

 「双樹林」とは、沙羅双樹という樹の林のことです。

釈尊がこの木の下で涅槃に入られたので、釈尊のようにこの世で清浄なる心になり、その清浄な心を浄土に生まれる因として往生を願うのが双樹林下往生です。

難思往生というのは双樹林下往生の不可能な者が、自分の力よりはるかに大きな、仏の大悲心にすがって往生を願うことです。

難思とは思うことが難しいという意味ですから、人間にはとらえ難い仏の大悲心は、人間の理性の心では信じることが不可能に近いのですが、それを一心に信じ清らかな心になって往生しようと願う意味だと理解することが出来ます。

「聞いてこそ伝えられる」(上旬) 熟年離婚の原因

======ご講師紹介======

川村妙慶さん(ブディストアナウンサー)

☆ 演題 「聞いてこそ伝えられる」

福岡県生まれ。池坊短期大学から池坊文化学院華道研修・芸術科卒業後、大谷大学専修学院本科に進まれました。真宗大谷派の僧侶であられると同時に、華道家元池坊正教授一級、茶道家元表千家茶通箱、日本和装協会着付けの資格をお持ちです。

テレビのアナウンサーとしてご活躍され、また「心の問題」というホームページで、その問題に取り組んでおられます。

==================

ブディストアナウンサー 河村妙慶 さん

 アナウンサーとして学んだ「伝える」ということについて、お話したいと思います。

この伝えるということは難しいことです。

「聞く」ということが大切なのはもちろんですが、やっぱり自分の思いを伝えないとどうにもならないです。

じゃあ伝えるというのはどういうことかといいますと、それはやっぱり「言葉」なんです。

 言葉というのは「こころの遣い」という意味なんです。

技術ではないんです。

そして、アナウンサーはいわば言葉のプロですから、言葉づかいについては、人生で一番得をしています。

でも、心で思ったことがそのまま言葉になるんです。

「そんな意味で言ったんじゃないのよ」

と一生懸命に否定される方もいますが、日頃から思っている言葉がポロッと出るんです。

だから「こころの遣い」といいます。

 それから、言葉というのはキッャチボールです。

言葉というボールを、相手の胸の中にそのまま投げてやって下さい。

その中でも使ってはいけない言葉はあります。

「きつい言葉」と「イヤミな言葉」です。

きつい言葉は相手を傷つけてしまいます。

 言った方はスカッとするんですよ。

ボールでも強く投げれば、投げた方はスカッとします。

でも受け取った方はそのきつさが残ります。

ボールでも、壁にきつく投げると跳ね返ります。

それと同じように、きつい言葉を投げると、必ず相手から跳ね返ってきます。

せっかくなら、相手の胸にちゃんと届く言葉を投げてあげてほしいんです。

だから気をつけていただきたいのは、本当のことを言うと、人を傷つける場合があるということです。

正直なことを言えばいいというものでもないんですよ。

 今、熟年離婚が話題になっているのは、皆さんご存知だと思います。

弁護士の先生が言われるには、熟年離婚は言葉が原因であることが多いそうです。

言葉がきっかけで

「もうあんたとはやっていけん」

ということになって、別れる方が多いという話です。

それには代表的なものが三つあるんだそうです。

 あるとき、ご主人が仕事から帰って来ました。

奥さんは、夕食の準備が間に合わず、スーパーのお惣菜を買って、とりあえず器に盛りつけなきゃいけないと移してたんだそうです。

その現場をご主人が見ました。

そのとき、ご主人はひと言

「お前、俺が仕事から疲れて帰って来たのに、この程度の料理しか作れんのか」

と、見たままを言ったそうです。

 そしたら奥さんが、やっぱりそのきつい言葉に対して言い返す訳です。

「私だってね、今まで会合やらなんやらで忙しかったのよ。なんでそんな言葉しか言えんのよ」

とケンカになって、

「もうあんたとはやっていけん」

となるそうです。