投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・登岳篇 大和路へ 8月(7)

七月の末だった。

かねてから、範宴の宿望であった大和の法隆寺へ遊学する願いが、中堂の総務所に聴き届けられて、彼は、この初秋(はつあき)を、旅に出た。

「何年ぶりのご下山でございましょう……」

と性善房は、無論、供についてきた。

そして、下山するごとに変わっている世間を見ることが、やはり、軽い楽しみであるらしかった。

それでも、性善房の方は、麓や町へ使いに下りることが、年に幾度かあったが、範宴は、ほとんどそれがなかった。

「すべてが、一昔前になったな」

京都の町へ入ると、範宴は、眼に見るものすべてに、推移を感じた。

「ごらんなさい」

と性善房は、五条の橋に立って、指さした。

「――あの空地の草原で、子供たちや、牛が遊んでおりましょう。あれは、小松殿のお館のあった薔薇(しょうび)園(えん)の跡でございます。また、右手の東詰には、平相国清盛どのの、西八条の館があったのですが、荒れ果てている態(さま)を見ると、今は、誰の武者溜(むしゃだま)りになっておりますことやら」

「変わったのう」

しみじみと、範宴はいって、ふと、橋の欄から見下ろすと、そこを行く加茂の水ばかりは、淙々(そうそう)として変りがない。

いや、水にも刻々の変化はあるが、人間のような儚い空(くう)骸(がい)や相(すがた)を止めないだけのことである。

西八条や薔薇園の女房たちの脂粉(しふん)をながした川水に、今では、京洛に満ちる源氏の輩(ともがら)が、かねの溶き水や、兵馬の汚水を流しているのである。

「変われば変わるもの――」

いつまで立っていても飽かない心地がするのだった、無限の真理と直面しているように――。

そして、生ける経典を眼のあたりに見ているように。

儚いと見ればただ儚い。

進歩とみれば進歩。

また、虚無とみれば虚無――

社会はあまりに大きすぎて、人生の真がつかみ難い。

そこらを往来する物売りや、工匠(たくみ)や、侍や、雑多な市人(まちびと)は、ただ、今日から明日への生活(たつき)に、短い希望をつないで、あくせくと、足を迅(はや)めているに過ぎないのだった。

鞍馬の峰にあって、奥州へ逃げのびた遮那王の義経も、短くて華やかなその生涯を、つい二年ほど前に閉じて、人もあろうに、兄の頼朝の兵に伐(う)たれてしまった。

そして、その頼朝が、今では鎌倉に覇府(はふ)をひらいて、天下に覇を唱えているのであるから、平家の文化が一変しても、世も、京洛(みやこ)も、加茂川の水までが、源氏色に染め治されてしまったのは当然の変遷なのである。

だが、あまりに眼まぐるしい人生の流相(るそう)を見てしまった民衆たちは、

(また、明日にも)という不安と虚無観が消え去らないと見えて、往来の市人の顔には、どれもこれも、落ち着かない色が見えていた。

「――行こうか」

範宴は、そう見ながら、ただの雲水の法師のように、五条を北川の方へ歩みだした。

ロウソクの色は、白の他にどのような色がありますか?また、その使い分けは?

お寺で使用するロウソクの色は、白、朱、金、銀の4種あります。

これらのロウソクは法要の種別によって使い分けています。

その使い分けは以下の通りです。

  • 白(はく)ロウ〜日常的な一般の法要
  • 朱(しゅ)ロウ〜報恩講法要や年忌法要(7回忌以降)、慶讃法要(住職継職や本堂落成などのお慶び事)、永代経法要など
  • 金(きん)ロウ〜仏前結婚式、慶讃法要など
  • 銀(ぎん)ロウ〜葬儀、追悼法要、年忌法要(3回忌まで)

金ロウ、銀ロウは白ロウの上に金箔・銀箔を押したもので、高価な物でもあり、それぞれ白ロウ、朱ロウを代用することもあります。

また、ロウソクに火を着けていない時は、ロウソク立てに木(もく)ロウ(朱塗りの木製ロウソク)を立てておくのが通例です。

ちなみにローソクに火を灯す意味ですが、ついた火は如来さまのお心、お徳として味わうことが大切になってきます。

ローソクの火には二つの面があります。

一つは光です。

周囲を明るく照らすその光は、如来さまの智慧を象徴すると言われています。

私の心の奥底まで知り尽くし、どろどろとした迷いの闇を隈(くま)なく照らして、真実に導いて下さる智慧の光明です。

もう一面は熱で、これは如来さまの慈悲をあらわします。

熱が氷をとかすように、如来さまのお慈悲のぬくもりが私の自分中心的な固く閉ざした心を解きほぐしてくださいます。

このように味わいますと、ロウソクの火がこれまで以上に輝いたものに感じられますし、その火が灯るロウソク自体も意味深く感じられるのではないでしょうか。

家庭のお仏壇では金ロウ、銀ロウを使うことは滅多にないことだと思いますが、平常の時は白ロウを使い、特別なご法事やお慶びの時などは朱ロウを使用されると、その法事・法要に、より厳粛さを感じられると思います。

親鸞・登岳篇 大和路へ 8月(6)

大自然のすがたには、眼に見えて、これが変わったということもないが、人間の上にながれる十年の歳月には、驚かれるほどな推移があった。

建久二年の春は、範宴少納言がこの東塔の無動寺に入ってから、ちょうど九年目に当たる。

彼は、十九歳になった。

白衣を来て、黒い袈裟をかけて、端麗で白皙(はくせき)な青年は俗界の塵の何ものにもまだ染まっていなかった。

処女のように、きれいであった。

「なにと気高いお姿だろう」

と、その九年の間、一日も離れることなく侍(かしず)いている性善房ですら、時には、見惚れることがあった。

背は高く、肩幅もひろいほうであった。

無動寺の奥ふかく閉じ籠もっているのが多いので、色は白く、唇は丹(に)のようであった。

眉は濃く太く、おそろしく男性的である。

ことに、きっと一文字に結んでいる口もとには不壊(ふえ)の意志がひそんでいるように見えた。

ある者は、

「範宴御房のお貌(かお)は、前から見るとやさしいお方だと思うが、横からふと見ると、実に怖いお貌だ」

といった。

そういわれてから、性善房も、

「なるほど」

と気がついた。

怖いと見れば怖い。

やさしいと見れば優しい。

健康の点では、骨格も、気力も頼もしい頑健さを天質的に備えていた。

これも母系の祖父の遺伝に恵まれているのかも知れないと彼は思った。

たくましい肋骨の張った胸幅の下には、どんな大きい心臓が坐っているのかと思われるくらいだった。

その実証を、性善房は、この九年間に眼のあたりに見てきて、ひそかに、

(自分にはとてもできない)と舌を巻いて驚いているのであった。

それは、範宴の知識慾の旺(さかん)なことと、それを、満たしてゆく学究心の強さであった。

唯識論(ゆいしきろん)とか、百法問答抄とかいう難解なものすら、十二歳のころに上げてしまったし、十五歳の時には、明禅法印から、密法の秘奥(ひおう)をうけて、かつて、慈円大僧正が大戒を授けた破例を、(依怙贔屓である)と、罵った一山の大衆も、今では、口を黙して、

(やはり、彼の質は天稟(てんぴん)なのだ)と認めるようになっていた。

けれど範宴自身は、それに誇るようなふうは少しもなく、林泉院の智海に随って、天台の三大部を卒業するし、また、仁和寺(にんなじ)の喜存をたずねて、華厳(けごん)を聴き、南都の碩学たちで、彼はといわれるほどな人物には、すすんで、学問を受けた。

「お体を、おこわしにならないように――」

と性善房は、日夜の彼の精進に、口ぐせのようにいっていたが、それは杞憂(きゆう)にすぎなかった。

やがて範宴の体質がそんなことでこわれるような脆弱(ぜいじゃく)なものでないことがわかると、

「まったく、異常なお方だ」

と心から頭が下がってきて、もう、そんな通常人にいうようないたわりはいえなくなってきたのであった。

そして、同じ侍(かしず)いて仕えているにしても、九年前と今日とは、まったく違った畏敬の心をもって、

(師の御房)と呼び、そして範宴から垂示(すいじ)を受ける一弟子となりきっていた。

親鸞・登岳篇 黒白(こくびゃく)8月(5)

ぐったりと四肢を伸ばしている朱王房の姿をながめて、孤雲は、落涙しながら、

「若様、おゆるし下さい、あなたを、範宴御房にも劣らぬ立派な者にしたいばかりに、かような手荒な真似もするのですから」

取り縋(すが)って、詫びていたが、気づいて、

「そうだ人が来ては」

と、にわかに鋭くなって、四辺(あたり)を見まわした。

幸に、性善房の落して行った笠がある、それを、朱王房の頭にかぶせて、背に負おうとすると、朱王房は、うーむ、と呻(うめ)いて、呼吸(いき)をふきかえした。

だがもう暴れ狂う気力はなかった。

永い土牢生活のつかれも一度に出たのであろう、孤雲の肩にすがったまま、ぐったり首を寝せていた。

孤雲は、谷間に下り、水にそって、比叡の山から里へと、いっさんに逃げて行った。

東塔の無動寺には、近ごろ、推さない住持が来て、日ごとに勤行の場(にわ)へ見えるようになった。

いうまでもなく範宴である。

境内の一乗院が、彼のいる室と定(き)められた。

そこで彼は、四教義の研究に指をそめた。

その四教義を講義してくれる人は、東塔第一という称のある篤学家の静(じょう)厳法印(ごんほういん)だった。

静厳は、彼の才をひどく愛した。

少納言、少納言といって、自分の子のように寺務の世話までよく面倒を見てくれた。

するとある日、その静厳が、何か、報(し)らせに来た若い法師たちを罵っていた。

「なに、まだ見つからん。そんなはずはないぞ、山狩りを始めてから、もはや今日で二十日にもなるではないか」

「しかし、木の根をわけても、分からないのです。所詮、この様子では、麓へ走ったにちがいないから、一度山狩りを解いて、世間のほうを探してはどうかと、西塔の衆も、申しておりますが」

「西塔の者は、西塔の考えでやるがよい。こちらは、飽くまで、本人が、食物に困って、姿をあらわしてくるまで、固めを解いてはいかん」

静厳に一喝されてすごすごと、谷の方へ下りてゆく法師たちの疲れた姿を、範宴は、一乗院の窓から見ていた。

何のための山狩りか、範宴には、よくわかっていた。

で、心のうちで、

(どこかの樹の下で、あの主従は、この雨に打たれているのではないか)と人知れず案じたり、また、朝夕の食事に、箸をとる時も、ふと、(あの主従は、何を食べているだろう?)と思いやった。

しかし、それから、七日すぎても、十日すぎても、土牢を破った者が捕まったという噂は聞こえてこなかった。

叡山には、夏が過ぎ、秋が更け、やがて雪の白い冬が訪れた。

雪に埋った一乗院の窓からは、どんな寒い晩も、四教義を音読する範宴の声が聞こえてこない晩はなかった。

真宗講座末法時代の教と行 機の真実と無条件の救い 8月(中期)

もしかすると、このような問いを発すること自体に、奇異な思いを抱く人がいるかもしれません。

すでに指摘したように、今日の真宗者の多くは、あたかも最初から自分は第十八願の

「信」の場に置かれていると思い込んでいます。

いわば無自覚的に浄土真宗の念仏者になっているのです。

そのため、たとえ第十八願の教えを一心に聞き学んだとしても知識として理解するだけにとどまり、教えが全く自分のものとはなりません。

自己の問題として問う厳しさをなくし、ただ安易な有り難さのみの生き方に終始しています。

そこで、親鸞聖人の説かれた

邪見きょう慢悪衆生、信楽受持することはなはだもって難し。

難の中の難、これに過ぎたるはなし。

と言われる言葉さえも、これはすでに信をいただいている自分に対する教えではなく、未だ信を頂いていない自力の執心者を戒めておられる言葉だと、他人事のように理解しています。

けれども、何よりも大切なことは、私たちはその自力執心の

「邪見きょう慢悪衆生」

こそ自分だということを知ることなのです。

さらに今一つ、私たちは親鸞聖人の思想の独自性に一段と深く注意を払う必要があります。

それは、阿弥陀仏の仏教は信も行も仏より来たるという他力廻向の法にほかなりませんが、このような仏教は親鸞聖人以前においては誰一人として気付くことの出来なかった思想であり、また親鸞聖人以後においても新たに説きえてはいません。

まさしく、後にも先にも親鸞聖人ただ一人の思想です。

このことは、裏返せば親鸞聖人の思想は極めて難解だということになり、親鸞聖人の教えを承け継ごうとする者においてさえその真意を十分に理解しきれていない面があります。

なぜなら、仏教において

「行」といえば衆生が仏果に至るために修する行為を指し、その行為の助縁となるはたらきは

「行」とは解されていません。

仏教一般においては、仏から衆生にかけられる大悲は、仏の業力・増上縁と呼ばれてはいても、その大悲のはたらきそのものが衆生自身にとって

「行」だとは考えられていません。

ところが、親鸞聖人は、その阿弥陀仏の大願業力こそが、この末法濁世における唯一の自己における

「行」だと見られるのです。

これは

「末法」という世を鋭く見つめることによって、初めて明らかになった、全く新しい仏教の原理なのであって、現世における衆生の

「行道」の徹底的な否定を通して、必然的に顕かになった真理だと言えます。

その仏教の原理とは、もしこの世に、衆生が仏果に至りうる真の行道があるとすれば、それは阿弥陀仏の廻向行によってのみということですが、この仏廻向の行こそ、第十八願に誓われている

「乃至十念」の「念仏」にほかならないことを親鸞聖人は顕かにされたのです。

こうして、親鸞聖人はこの念仏行を、ことに

「大行」と名付けられます。

改めて言うまでもなく、真宗者はこの親鸞聖人の教えを忠実に承け継ごうとしています。

それ故に「如来廻向の行」に関しては、何にもましてその真実をとらえようとし、また一心にそのことを人々に説き明かそうとしています。

ところが、それにもかかわらず、念仏そのものが阿弥陀仏の廻向行だというその点を明確にするまでに至り得ていません。

それは、阿弥陀仏より廻向されているはずの念仏行を、無意識の内に自己の側に引き寄せて、衆生の行為として述べられていることがあまりにも多く見られるからです。

しかし、考えてみると、それはむしろ当然のことだというべきかもしれません。

どれほど力んで

「念仏とは如来廻向の行であり、大行だ」

と人びとに語りかけたところで、現に私の口から出ている念仏の声は、どう考えてみても私の行為によるものとしかとらえようがないからです。

そのため、必然的に念仏を

「私のもの」として扱ってしまうことになるのです。

『お盆深い縁に心を寄せる』(中期)

「お盆」は、本来は「盂蘭盆会」といい、もともとは古代インドの言語であるサンスクリット語の

「ウランバナ」の音写語で、「倒懸(さかさにかかる)」と意訳されています。

また、お盆の行事は『盂蘭盆経』(西晋、竺法護訳)に説かれるお釈迦さまの高弟・目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への「供養」の伝説によると伝えられています。

さて、この「供養」ということを考える場合、

「寺院は先祖供養しかしない」とか、

「法事・葬儀しかしない」と、社会性を欠く面があるという点について批判をされることがあります。

これを総称した非難の言葉が、いわゆる

「葬式仏教」

ですが、本願寺教団をはじめ多くの仏教教団ではこの批判に対して、終末医療に携わる方がたとの連携や、差別・平和・環境などの社会問題に積極的取り組むことで応えようとしています。

もちろん、これらの社会的活動を行うことはとても大切ですが、その一方やはり寺院は批判を受けても

「先祖供養について、真摯に取り組むべきだ」

と、思います。

ただし、取り組むからには

「ほんとうの意味での先祖供養をする場になるべきだ」

と考えています。

この場合、重要なことは

「先祖供養をするといっても、それはどうすることがほんとうの意味で先祖供養をすることになるのか」

ということについて、きちんとした確かめをするということです。

私たちは日頃、先祖とか祖先という言葉を口にしたりしていますが、その対象者はあまりにも漠然としています。

10代遡っただけでも、私の前を生きた人は1024人にもなるそうですが、いったい何人の方をご存じでしょうか。

また、これまでいったいどれだけの人が、私にいのちの絆をつないでくれたのでしょうか。

『歎異抄』の第五条に

「一切の有情は、世々生々の父母兄弟なり(一切の生きとし生けるものは、すべてみな、いつの時にか父母であり、兄弟であった)」

という言葉があります。

私たちはお互いを他人のように思っていても、遡っていけばどこかでいのちが交わっているであろうことを物語る言葉ですが、そのような感覚において自分のいのちが受け止められるとき、つまり自分のいのちというものに限りない歴史を、あるいはそのようないのちの歴史をこの身に賜っているということにほんとうに頷くということがなければ、いくら

「先祖供養」

といっても、そこで行われる供養はただの「取引」になってしまいます。

「取引」とはどのようなことかというと、現在一般に理解されている「先祖供養」は、

「私がこれだけ供養をしたから、それに見合うご利益をください」

といったことが、具体的内容になってしまっているということです。

あるいは、ご利益を期待しないまでも、

「供養」をすることで

「私が不幸に陥りませんように」とか

「私や家族に災いをもたらさないでください」

といったことを願うあり方のことです。

これは、亡くなられ方がたを

「取引相手」と見るようなあり方でしかありません。

しかし、本来

「先祖供養」の場というのは、自らのいのちの歴史の前に身を据え、いのちの歴史を賜ったものとして今の自分の人生を喜び、今の自分の人生をほんとうに大事に受け止めていく場なのです。

したがって、そのことを抜きにして

「供養」ということは成り立たないはずなのです。

ですから、

「ほんとうの供養」

ということは、まさに私の人生をいただき直すということだと言えます。

浄土真宗を顕かになさった親鸞聖人は、自身に先立って亡くなって行かれた方がたを、単に

「過去に亡くなった人」

ということではなく、自らを仏道に引き入れてくださった「諸仏」として仰いでいかれました。

考えてみますと、大切な人、愛する人を見送るときには、言い知れぬ悲しさや歎きが心にわきあがってくるものですが、私たちがそのときに感じる悲しさや歎きは、亡くなったその人によってよび起こされるものです。

それは、いわば亡き人によって贈られた悲しさや歎きであり、まさにそのことが私たちを仏道に向かわしめる尊い機縁となります。

おそらく、そのように心から悲歎するという体験を持つことがなければ、なかなか私たちは自らの思いによって仏道を求めるということはできないのではないでしょうか。

また、浄土真宗では親鸞聖人のご命日を勤める法要を

「報恩講」といいます。

「報恩」とは「知恩報徳」の営みのことですが、この

「報徳」の前には必ず「知恩」があります。

しかしながら、今日の

「供養」のあり方をうかがうと、そこには

「知恩」という営みが全く欠落しているように感じられます。

そして、そのようなことに陥ると、

「供養」はそれを行うことで

「これで気持ちが安らぎました」

というような、私自身の単なる気晴らしに終わってしまうのです。

したがって

「先祖供養」においては、どこまでも私たち一人ひとりが自分の存在に

「知恩」ということを自覚していけるかどうか、そのことが

「供養」が「報恩」の営みになるかどうかを決定付けると言えます。

毎年お盆には、多くの方々が大変なご苦労をなさってふるさとに帰り、墓参をされます。

そうすると、そのことの根底に、自身のいのちがここにこうしてあることは、先に往かれた方がたの無数のいのちがあったからに他ならず、しかも今私が念仏の教えに遇い得ていることは、まさに

「先祖」の方がたが連続して絶えることなく、み教えを承け継ぎ伝えてくださったからです。

その深い縁に心を寄せ、先祖の方がたの

「ご恩を知る」とき、まさにそこで営まれる

「供養」は「徳に報いる」行為となるのだと思います。

いまここにこうして自らのいのちあることの深い縁に心を寄せたいものです。