投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「門徒式章」は、どのような時に着用するのですか?

『門徒式章』とは、もんとしきしょうと読み、浄土真宗本願寺派の門信徒が、仏前における礼装として首から下げて着用する法具のことです。

宗紋である「下り藤紋」(「西六条藤紋」)の刺繍が施されています。

この『門徒式章』は、昭和25年の本願寺の規定によって制定されています。

「門徒」とは、寺院護持の為に浄土真宗本願寺派の寺院に所属する檀信徒(先祖の法要等を依頼する信徒)の事を総称して門徒といいます。

「式章」とは、浄土真宗の門徒としての明かしとなるものです。

ある説によりますと、昔はお手次のお寺の法要にお参りする時には最高の正装にてお参りをし、その時につけた帽子のかわりであるとの説もあるのだそうです。

いづれにしても、浄土真宗門徒としての明かしとなるものであり、念仏を喜ぶ人である事を示しています。

従って、その本来の意味を知り、身につけることが大事といえるでしょう。

ちなみに、浄土真宗大谷派では、『門徒式章』とは呼ばず、『略肩衣(りゃくかたぎぬ)』と呼び、宗紋の刺繍も異なります。

「略肩衣」(門徒式章)の外観は、「畳袈裟」に似ていますが、浄土真宗においては、袈裟は僧侶が法要等の際に着用するものですので、半袈裟・門徒袈裟と呼ぶのは誤りです。

以前は「肩衣」を用いていたそうですが、大きく持ち運びに不便なため、簡略化され、これが認められるようになりました。

簡略化されたことにより、家長のみならず男女問わずに用いることが可能となり、現在では子供用の門徒式章(略肩衣)もあります。

デザインについては、現在は宗紋と結び目が共通している点以外は、様々なデザインがあり、基本的には過度に特定の表現や意志を示したりするもの以外は、自由に好みのデザインの物をお使いいただいて構わないと思います。

よく門信徒の方には、どこで入手するのかという問い合わせをいただきますが、お寺の門信徒にご加入いただいた時に寺院から贈られたり、仏具を販売しているお店などで好みのデザインの物をお求めいただいたり、また最近ではインターネットなどで購入される方も増えているそうです。

記念法要などでいただく特別な記念式章もあったりして、いろいろな種類を法要ごとに使い分けあれる方もいらっしゃるそうです。

『門徒式章』は、ご家庭での仏事や法事、お寺での行事の時には必ず身につけ、違う宗派の家の法事にお参りする際にも、自分の宗派の作法(焼香や念珠・門徒式章)で自信をもってお参りしましょう。

親鸞・去来篇 9月(1)

無事さえ知ればよいようなものの、やはり範宴は一目でも会いたいと思った。

僧正は、その顔いろを見て、明日の朝でも寺の者に案内させるから久しぶりに訪れて行ったがよかろうといった。

「まあ、今宵は、旅装を解いて、ゆるりと休んだがよい」

「ありがとう存じます」

範宴は、退がって、風呂所(ふろしょ)で湯浴みを終えた後、性善房と共に、晩の膳を馳走されていた。

するとそこへ、執事が来て、

「ただ今、僧正のお居間へ、おひきあわせ申したい客人(まろうど)がお見えになりましたから、お食事がおすみ遊ばしたら、もいちど、お越しくださるようにとの仰せでござる」

と告げた。

(誰であろう?……自分に紹介(ひきあ)わせたい客とは)範宴は、ともかく、行って見た。

見ると、寛(くつろ)いだ衣を着て、大口(おおく)袴(ち)を豊かにひらいた貴人が、短徑(たんけい)をそばにして、正面に坐っている。

僧正よりは幾歳(いくつ)か年上であろう、四十四、五と見れば大差はあるまい。

鼻すじのとおった下に薄い美髯(びぜん)を蓄えている。

その髯を上品に見せているのは、つつましくて、柔和な唇のせいである。

「…………」

範宴を見ると、貴人は、前から知っているように、にこと眼で微笑んだ。

慈円僧正はそばから、

「兄上、これが、範宴少納言でございます」

と秘蔵のものでも誇るように紹介した。

「うむ……」

貴人は、うなずいて、

「なるほど、よい若者じゃ」

間のわるいほど、じっと、見ているのであった。

僧正はまた、範宴に向かって、

「月輪関白様じゃ」と教えた。

「お……月輪様ですか」範宴は驚いた。

そして礼儀を正しかけると、関白兼実は、

「いやそのまま」といって、いたって、気軽を好まれるらしく、叡山の今状だの、世間ばなしをし向けてくるのであった。

月輪兼実が、師の僧正の血を分けた兄君であることは、かねがね承知していたが、関白の現職にある貴族なので、こんな所で、膝近くこうして言葉を交わすことなぞは思いがけないことなのである。

「華厳を研究して、叡山の若僧(じゃくそう)のうちでは、並ぶ者がないよしを噂に聞いたが」

「お恥ずかしいことです。

まだ、何らの眼もあかぬ学生(がくしょう)にござりまする」

「弟も、おもとのうわさをするごとに、精進の態(てい)を、わがことのように、よろこんでおる」

「高恩を、無にせぬように、励むつもりでございます」

「いちど、月輪の館の方へも、遊びに出向いて賜もれ」

「ありがとう存じます」

「若くて、求法(ぐほう)に執心な者も多勢(おおぜい)いるから、いちど、範宴御房の華厳経の講義でもしてもらいたいものじゃ。

――この身も、聴いてきたいし」

と兼実はいった。

それから僧正が、自慢の舶載の緑茶を煮たり、一、二首の和歌を作って、懐紙に認(したた)め合ったりして、間もなく、兼実は、舎人(とねり)をつれて、待たせてある牛車に乗って帰った。

『聞思まことのみ法に自らを問う』(前期)

 「聞思莫遅慮」(もんしばくちりょ)

このお言葉は親鸞聖人の代表作である『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』の冒頭、

「総序」の中に出てくる一文です。

教行信証を書くにあたり、親鸞さまご自身の信仰に生きる喜びをまず表現されたものが、この総序とも言えます。

「聞思」とは、聞き、そして考えるということであり、

「遅慮」とは、不信の思いによってためらい、行き詰まっている様子を表します。

つまりは、

「(人生のよりどころを明らかにする確かな言葉を)よく聞き考えて、ためらってはならない」

という意味です。

親鸞さまは法然上人との出遇いから、阿弥陀仏の摂取不捨の誓い(必ずあなたを摂め取って決して見捨てない)に心から信順し、

「念仏せよ、救う」という仏のおいわれにそのまま生き抜かれた方でありました。

それは同時に自分の心や自己の考えというものを徹底して厳しく見つめていく生き方でもありました。

人生のよりどころ、私たちはどのように受けとめているでしょうか。

「仏法を聞くということは、自分の常識を否定できるか」

これは学生時代に聞いた先生の言葉ですが、今でも時々思い返し、意識している言葉です。

自分は正しい、自分こそ間違いないと無批判に自分をよりどころとする生き方は、大変危険であると受けとめています。

私たちの思いや心情は常に変化し、その都度その状況や縁のままに変わっていきますし、何よりも自分の好き嫌いを中心に物事を判断して生きているのが私たちでありましょう。

このことを仏教では

「我執」と呼びます。

つまり自分の経験によって作り上げた自分の感性にだけこだわって、自分が見聞きしていることが全て正しいと思い込んで執着しているのが私であると言えます。

それとは逆に、自己の限られた感性を離れて、真にものを感受することができる境地が開かれることを

「覚り」と呼び、その覚りといわれる感性に映ってくる世界を

「浄土」というのです。

好き嫌いという自分の都合でしかない私を見抜き、その私に向けて阿弥陀仏の教えは

「私を映す鏡」として

「南無阿弥陀仏」の名号となって呼びかけ、響いてきています。

それがお念仏であり、阿弥陀仏とは名を聞いてお遇いする仏さまであると親鸞さまは言われるのです。

当てにならない私自身をよりどころとせず、仏のおいわれに自らを問い、日常の

「当たり前」に、

「有ること難し」

と見ていく生き方を心がけたいものです。

親鸞・登岳篇 大和路へ 8月(10)

あきらめて、二人はまた、もとの五条口の方へ引っ返した。

そして五条大橋を、こんどは東の方へと渡って行く姿に、もう黄昏(たそが)れの霧が白く流れていた。

粟田口の青蓮院についたころは、すでにとっぷりと暮れた宵の闇だった。

ここばかりは、兵燹(へいせん)の禍(わざわ)いもうけず、世俗の変遷にも塗られず、昔ながらに、寂(せき)としていたので二人は、

(やはり法門こそ自分たちの安住の地だ)という心地がした。

かたく閉じられてある門の外に立って、性善房は、

「おたのみ申す」

と、ほとほと叩いた。

範宴は、うしろに立って、錆びた山門の屋根だの、楼(ろう)の様だの、そこから枝をのばしている松の木ぶりだの眺めて、

「十年……」

なつかしげに眼を閉じて、十年前の、自分の幼い姿を瞼(まぶた)に描いていた。

ぎいと、小門が開いて、

「どなたじゃの」

番僧の声がした。

「無動寺の範宴にござりますが、このたび、奈良の法隆寺への遊学のため、下山いたしましたので、僧正の君に、よそながらお目にかかって参りとう存じて、夜中(やちゅう)ですが、立ち寄りました。お取次ぎをねがわしゅう存じまする」

「お待ちください」

しばらくすると、番僧がふたたび顔をだして、

「どうぞ」

と、先に立って案内した。

慈円僧正は、その後、座主の任を辞して、叡山からまたもとの青蓮院へもどって、いたって心やすい私生活のうちに、茶だの和歌だのに毎日を楽しんでくらしているのだった。

清楚な小屋に、二人を迎えて、慈円は、心からよろこんだ。

「大きゅうなったのう」

まず、そういうのだった。

得度をうけた時の小さい稚子僧の時のすがたと、十九歳の今の範宴とを思い比べれば、まったく、そういう声が出るのだった。

しかし、四、五年見ない慈円のすがたは、まだ初老というほどでもないが、かなり老けていた。

「僧正にも、お変りなく」

範宴がいうと、

「されば、花鳥風月と仏の道におく身には、年齢(とし)はないからの」

と若々しく慈円は微笑した。

そして、

「このたびは、法隆寺へ修学のよしじゃが、あまり励(つと)めて、からだを、そこねるなよ」

「覚運僧都について、疑義を、御垂示うけたいと存じて参りました。からだは、このとおり健固にございますゆえ、どうぞ、御安心くださいまし」

後ろの小縁にひかえていた性善房が、そのとき、畏る畏るたずねた。

「ついては、この折に、御養父の範綱様や、また御舎弟の朝麿様にも、十年ぶりでお会いなされてはと、私からおすすめ申しあげて、実は、これへ参る先に、六条のお館をさがしました所が、まるで町の様子は変って、お行き先も知れません。で、――青蓮院でおうかがいいたせば分るであろうと、戻って参ったわけでございますが、範綱様にはその後、どこにお住まいでございましょうか」

「その儀なれば、心配はせぬがよい。かねて、約束したとおり、変りがあれば当所から知らせるし、知らせがないうちは、お変りないものと思うていよ――とわしが申したとおりに」

親鸞・登岳篇 大和路へ 8月(9)

「よくも人を打(ぶ)ったね」

遊女は、怒った。

性善房も怒っていた。

「あたりまえだ」

遊女はまけずに、

「人を打つのが当りまえなら私も打ってやる」

と手を出して、性善房の横顔を打つ真似したが、性善房は顔を避けて、

「けがらわしい」

とその手を払った。

今度は、ほんとに怒って、遊女は性善房の胸ぐらをつかまえた。

「何がけがらわしいのさ」

「離せ、僧侶に向って、不埒(ふらち)なまねをする奴だ」

「ふン……だ……」

と、遊女は嘲笑のくちびるを、柘榴(ざくろ)の花みたいに毒々しくすぼめて、

「坊さんだから、女は汚らわしいっていうの。……ちょッ、笑わすよ、この人は」

と、家のうちにいる朋輩の女たちをかえりみて、

「あそこにいる花扇さん、その隣にいる梶葉さん、みんな、坊さんを情夫(いろ)に持っているだよ。

私のとこへだって、叡山から来る人もあるし、寺町へ、こっちから、隠れて行くことだってあるんだよ」

「人が見る。離せ」

性善房が、むきになっていうと、

「そう。人が見るから、いけないというなら、話は分かっている。人が見てさえいなければいいんだろう。……晩にお出で」

と、女は、胸ぐらを離して、性善房の肩をぽんと突いた。

泥濘(ぬかるみ)に足を落して、性善房は、脚(きゃ)絆(はん)を泥水によごした。

「こいつめ」

いち早く、家の中へ逃げこんだ女を追って、何か罵っていると、露地の外で、

「性善房――」

範宴の呼ぶのが聞えた。

「はいっ」

彼は、大人げない自分の動作に恥じて、顔を赤らめながら、往来へ出てきた。

そして、範宴へ、

「とんだことをいたしました」

と謝った。

「ほかを探そう」

範宴が歩みだすと、

「ちょっと、お待ち遊ばせ」

と性善房は、師の法衣(ころも)の袂(たもと)をつかんで、そのまま、道(みち)傍(ばた)ちの井戸のそばへ連れて行った。

(何をするのか)と範宴は、だまって彼のするとおりにさせていた。

性善房は、井戸のつる瓶(べ)を上げると、師の法衣の袂をつまんで、ざぶざぶと洗って、

「さ……これでよろしゅうございます。不浄な浮かれ女(め)の手に、お袖をけがしたままではいけませんから」

と水を絞って、それから自分の手も洗って、やっと、気がすんだような顔をした。

それからはもう遊女の手につかまらないように注意して二人は歩いたが、脂粉のなおいは、袂を水で洗っても消えないような気がするのだった。

のみならず六条の館は、どう探してもみつからなかった。

親鸞・登岳篇 大和路へ 8月(8)

それから六条の大路へ足を入れると、二人はさらに、

「変わったな」

というつぶやきをくりかえした。

辻の市場は、目立って繁昌しているし、往来の両側にある商い家も、平氏の世盛りのころより、ずっと、数が殖えていた。

空地にさえも、傀儡師(くぐつし)か、香具師(やし)か、人寄せの銅鑼(どら)を鳴らしている男が、何か喚いているし、被(かず)衣(き)をかぶって、濃い脂粉をほどこした女が、あやしげな眼ざしをくばって、鼻の下の長い男を物色している。

「人間の社会(よのなか)というものは、ちょうど春先の野火焼とおなじようなものでございますな。――焼けば焼くほど、後から草が伸びてくる……」

と、性善房は、感心していった。

一見、戦は、急速に社会を進化させるもののように見える。

そして、誰一人、ここに生きているものは戦を呪っていなかった。

その代りに、人間は、おそろしく、刹那主義になっていた。

平家の治世がすでにそうだったが、一転して、源氏の世になると、なおさら、その信念を徹底してきたかのように、女は、あらん限り美衣をかざり、男は、絶えず、息に酒の香をもって歩いていた。

「――坊(ぼ)んさん」

「お法師さま」

六条のお牛場のあたりを、二人は、見まわしていると、かつて、その辺の空地に寝ころんでいた斑(まだ)ら牛や、牛の糞に群れていた青蠅のすがたは一変して、どこもかしこも、入り口の瀟洒(しょうしゃ)な新しい小屋や小館(こやかた)で埋っていた。

店の前を、網代(あじろ)垣(がき)でかこんだ家もあるし、朽葉(くちば)色(いろ)や浅黄(あさぎ)の布を垂れて部屋をかくしている構えもある。

また塗塀ふうに、目かくし窓を作って、そこから、呼んでいる女もあるのだった。

「これが、元のお牛場であろうか――」

と、範宴も、性善房も、茫然としてたたずんでしまった。

このつい近くであったはずの六条の範綱の館はどこだろう。

跡かたもない幼少のころの家をさがし廻って、範宴は、ここでもまた、憮然(ぶぜん)とした。

「きれいなお坊んさんと、お供の方――」

黄いろい女たちの声が、家々の窓や垂れ布の蔭から。

しきりと、呼びぬくのであったが、自分が呼ばれているのであるとは二人とも気がつかない。

で、なお、狭い露地まで入って行こうとすると、低い檜垣(ひがき)の蔭から、

「いらっしゃいよ」

と、白い手が法衣の袂をつかんだ。

範宴は、眼をまろくして、

「なにか御用ですか」

女は、白い首を二つそこから出して、

「あなた方は、何を探しているんです」

「六条の三位範綱さまのお館を」

「ホ、ホ、ホ。……そんな家は、もう一軒もありませんよ。ここは、遊女町ですからね」

「え。……遊女町」

「往来から見れば分りきっているじゃありませんか。お入りなさいよ」

性善房が横から、

「馬鹿っ」

と叱って、範宴の袂をつかんでいる女の手を、ぴしりと打った。