投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・登岳篇 大和路へ 8月(9)

「よくも人を打(ぶ)ったね」

遊女は、怒った。

性善房も怒っていた。

「あたりまえだ」

遊女はまけずに、

「人を打つのが当りまえなら私も打ってやる」

と手を出して、性善房の横顔を打つ真似したが、性善房は顔を避けて、

「けがらわしい」

とその手を払った。

今度は、ほんとに怒って、遊女は性善房の胸ぐらをつかまえた。

「何がけがらわしいのさ」

「離せ、僧侶に向って、不埒(ふらち)なまねをする奴だ」

「ふン……だ……」

と、遊女は嘲笑のくちびるを、柘榴(ざくろ)の花みたいに毒々しくすぼめて、

「坊さんだから、女は汚らわしいっていうの。……ちょッ、笑わすよ、この人は」

と、家のうちにいる朋輩の女たちをかえりみて、

「あそこにいる花扇さん、その隣にいる梶葉さん、みんな、坊さんを情夫(いろ)に持っているだよ。

私のとこへだって、叡山から来る人もあるし、寺町へ、こっちから、隠れて行くことだってあるんだよ」

「人が見る。離せ」

性善房が、むきになっていうと、

「そう。人が見るから、いけないというなら、話は分かっている。人が見てさえいなければいいんだろう。……晩にお出で」

と、女は、胸ぐらを離して、性善房の肩をぽんと突いた。

泥濘(ぬかるみ)に足を落して、性善房は、脚(きゃ)絆(はん)を泥水によごした。

「こいつめ」

いち早く、家の中へ逃げこんだ女を追って、何か罵っていると、露地の外で、

「性善房――」

範宴の呼ぶのが聞えた。

「はいっ」

彼は、大人げない自分の動作に恥じて、顔を赤らめながら、往来へ出てきた。

そして、範宴へ、

「とんだことをいたしました」

と謝った。

「ほかを探そう」

範宴が歩みだすと、

「ちょっと、お待ち遊ばせ」

と性善房は、師の法衣(ころも)の袂(たもと)をつかんで、そのまま、道(みち)傍(ばた)ちの井戸のそばへ連れて行った。

(何をするのか)と範宴は、だまって彼のするとおりにさせていた。

性善房は、井戸のつる瓶(べ)を上げると、師の法衣の袂をつまんで、ざぶざぶと洗って、

「さ……これでよろしゅうございます。不浄な浮かれ女(め)の手に、お袖をけがしたままではいけませんから」

と水を絞って、それから自分の手も洗って、やっと、気がすんだような顔をした。

それからはもう遊女の手につかまらないように注意して二人は歩いたが、脂粉のなおいは、袂を水で洗っても消えないような気がするのだった。

のみならず六条の館は、どう探してもみつからなかった。

親鸞・登岳篇 大和路へ 8月(8)

それから六条の大路へ足を入れると、二人はさらに、

「変わったな」

というつぶやきをくりかえした。

辻の市場は、目立って繁昌しているし、往来の両側にある商い家も、平氏の世盛りのころより、ずっと、数が殖えていた。

空地にさえも、傀儡師(くぐつし)か、香具師(やし)か、人寄せの銅鑼(どら)を鳴らしている男が、何か喚いているし、被(かず)衣(き)をかぶって、濃い脂粉をほどこした女が、あやしげな眼ざしをくばって、鼻の下の長い男を物色している。

「人間の社会(よのなか)というものは、ちょうど春先の野火焼とおなじようなものでございますな。――焼けば焼くほど、後から草が伸びてくる……」

と、性善房は、感心していった。

一見、戦は、急速に社会を進化させるもののように見える。

そして、誰一人、ここに生きているものは戦を呪っていなかった。

その代りに、人間は、おそろしく、刹那主義になっていた。

平家の治世がすでにそうだったが、一転して、源氏の世になると、なおさら、その信念を徹底してきたかのように、女は、あらん限り美衣をかざり、男は、絶えず、息に酒の香をもって歩いていた。

「――坊(ぼ)んさん」

「お法師さま」

六条のお牛場のあたりを、二人は、見まわしていると、かつて、その辺の空地に寝ころんでいた斑(まだ)ら牛や、牛の糞に群れていた青蠅のすがたは一変して、どこもかしこも、入り口の瀟洒(しょうしゃ)な新しい小屋や小館(こやかた)で埋っていた。

店の前を、網代(あじろ)垣(がき)でかこんだ家もあるし、朽葉(くちば)色(いろ)や浅黄(あさぎ)の布を垂れて部屋をかくしている構えもある。

また塗塀ふうに、目かくし窓を作って、そこから、呼んでいる女もあるのだった。

「これが、元のお牛場であろうか――」

と、範宴も、性善房も、茫然としてたたずんでしまった。

このつい近くであったはずの六条の範綱の館はどこだろう。

跡かたもない幼少のころの家をさがし廻って、範宴は、ここでもまた、憮然(ぶぜん)とした。

「きれいなお坊んさんと、お供の方――」

黄いろい女たちの声が、家々の窓や垂れ布の蔭から。

しきりと、呼びぬくのであったが、自分が呼ばれているのであるとは二人とも気がつかない。

で、なお、狭い露地まで入って行こうとすると、低い檜垣(ひがき)の蔭から、

「いらっしゃいよ」

と、白い手が法衣の袂をつかんだ。

範宴は、眼をまろくして、

「なにか御用ですか」

女は、白い首を二つそこから出して、

「あなた方は、何を探しているんです」

「六条の三位範綱さまのお館を」

「ホ、ホ、ホ。……そんな家は、もう一軒もありませんよ。ここは、遊女町ですからね」

「え。……遊女町」

「往来から見れば分りきっているじゃありませんか。お入りなさいよ」

性善房が横から、

「馬鹿っ」

と叱って、範宴の袂をつかんでいる女の手を、ぴしりと打った。

童謡『ふるさと』

童謡『ふるさと』

兎、追いしかの山
小鮒(こぶな)釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたきふるさと

如何(いか)にいます父母
恙(つつが)なし無しや友垣(ともがき)
雨に風につけても
思い出ずるふるさと

志を果たして
いつの日にか帰らん
山はあおきふるさと
水は清きふるさと

先日の夕方、なんとなくテレビをつけていたら、画面から『ふるさと』が流れてきました。

久しぶりに耳にした『ふるさと』。

とても懐かしい気持ちになりました。

私の幼かった頃、夕方5時になると近所の小学校から、毎日『ふるさと』の音楽が流れてきていました。

団地中に響き渡る音楽。

どこで遊んでいてもちゃんと聞こえてきます。

この音楽がお家に帰る合図のようなものでした。

夏休みは、ラジオ体操を終えて、家に戻ると9時になるのが待ち遠しいものでした。

(9時を過ぎなければ友達の家に遊びに行ってはダメとしつけられていたので)

9時になると近所の同級生と外で遊びまわります、お昼まで遊びます。

そしてお昼ご飯のため、いったん帰宅。

そして、また遊びに出かけるのです。

夕方、5時になり、小学校から『ふるさと』が流れてきます。

そこで、お友達とはお別れするのです。

「また遊ぼうね〜、また明日ね〜」って。

家に「ただいま〜」って帰ると、夕ご飯の香りが玄関にまで漂っていました。

そして、夕食時には、その日あった出来事など他愛もない話しを沢山しました。

・・・・・数十年たって。

今では、仕事もあったり、友達との付き合いもあったりで、家族みんなで夕食をとる時間というのは本当少なくなってきました。

友達、同級生と朝から、夕方まで思いっきりはしゃぎ遊び回るということもなくなりました。

大人になるということは、こういうことなのかもしれません。

でも、『ふるさと』を聞いたときに、

なんか、なつかしいのだけれど、もの悲しいような、なんとも言葉では表現しがたい気持ちになったのです。

時の流れることの早さであったり、歳を重ねていくむなしさであったり。

(歳をとるということを悪いと言っているのでは決してありません。)

様々のことが頭をめぐり、しばらく「ぼーっ」となってしまいました。

あの頃、幼かった、私がもういい大人。

おばさんと世間では言われてもおかしくないような年齢になりました。

ということは、父も母も、祖母も、周りも、みんな、もちろん私と一緒に歳をとってきているんだな〜っという、誰もが理解していることを、今さらながら改めて気付かされました。

『ふるさと』のメロディーと歌詞を通して、今、私が思うこと。

ただ過ぎていく日常なのではなく、父、母、祖母はもちろんのこと、私に関わる全ての人に、感謝し恩返しをしていけるような生活を送っていきたい。

そのような人間に成長していけるよう日々努力をしていきたい。

「心を磨いていきたい」と、思います。

「東日本大震災から2年を経て」〜原発事故被災者の現状について〜(下旬)お寺は小さな歯車の一部

一方、津波で亡くなった方の連絡は、次々入りました。

南相馬市では500人以上の方が津波で亡くなったので、一時油がなくなって火葬場がストップするようなこともありました。

私は火葬場でこんな経験もしました。

ご門徒の遺体が見つからなかったため、火葬される前にお参りしたいと思い、袈裟を付け、衣体を整えて遺体収容所に行くと

「あなたはいったい誰ですか」

と言われたんです。

理由を説明してもダメでした。

原因は赤の他人だったからです。

しかし、すぐそばには、読経ボランティアで来ているお坊さんがいるんですよ。

どの宗派の方かわかりませんが、南相馬市の僧侶でないことだけは確かでした。

どの宗派かもわからないお坊さんがお経をあげているんです。

それなのに、なぜ所属寺の住職がお参りできないのか。

「こんなバカな話はない」

と、そのときは本当に悔しい思いをしましたね。

平成23年という年は、いろんなことで苦労しました。

あっちこっち行ったり来たり。

今振り返ってみますと、ただ思いつくままに動き回っていたばかりだったんじゃないかな、と反省することばかりです。

昨年の4月16日、私のお寺があります小高区は、避難指示解除準備区域という、放射線量が下がればいつでも戻れる状況にはなったんですが、水は出ませんし、排水もできません。

また光慶寺は警戒区域が解除されたとはいえ、原発から20キロメートル圏内にあるで、ボランティアの方も足を踏み入れるのは躊躇(ちゅうちょ)する場所です。

しかし同じ浄土真宗の若い仲間たちが、

「誰も行かないんだったら、俺たちが行くよ」

と言って、13〜14名の方が、3回も来て下さったんです。

雨漏りで本堂はかなりボロボロだったんですが、それを仏壇屋さんのご指導もいただいて、分解して外陣におろし、汚れた仏具類も丁寧に掃除していただいたおかげで、内陣はずいぶんきれいになりました。

それで

「時期がくれば何とか再建に向けて取りかかれる」

という状況まで至っております。

これから賠償のことなど課題は山積みですが、私の住んでいる人口2万に満たない小さな町にも、お寺を中心としたコミニュティが180年前から連綿と続いています。

お寺はそのコミニュティの小さな歯車の一部で、この歯車の一部が回らなければ、地域の再生は難しいんじゃないかと考えています。

だからどんなことがあっても、いつでもその歯車が回るようにしておきたいと思っています。

東北人はよく牛にたとえられます。

動きがゆっくりで鈍い。

しかし、牛のゆったりな動きであっても、一歩一歩力強く前を向き、離れ離れになったご門徒と連絡を取りながら進んでいきたいなと思っています。

『お盆深い縁に心を寄せる』(後期)

「いのち」と「いのち」の出会いを仏教では「ご縁」と言います。

この「縁」という字は、糸偏に彖(たん)という字を書きます。

「たん」とは「端っこ」という意味で、たとえば左右の屋根のひさしを「たん」と言います。

ですから、「たん」という字は、どう考えても一緒に会うはずがない、プラスとマイナスのことで、一つに重なることはあり得ないという意味です。

その「彖」に「糸」をつけると「縁」という字になります。

縁という文字の心は

「出遇うはずのないものを目に見えない深いところで結びつけている糸のようなもの」

ということになります。

では、考えてみてください。

夫婦・親子・兄弟・隣近所の人との日々の出会いは、当たり前なのでしょうか。

それとも不思議な出遇いの繰り返しなのでしょうか……?

仏さまのお心は「無縁の慈悲」ともいわれます。

無縁とは

「すべて縁ならざるものはない」

という立場からおこされる慈悲のことです。

仏さまは、私を救う際に何一つ条件をつけられません。

すべてを無条件に受け入れる心が仏さまの慈悲なのです。

しかも、人間のいのちだけでなく、生きとし生けるすべてのいのちへと想いが広がっていくのが無縁の慈悲の姿です。

朝焼け小焼けだ

大漁だ

おおばイワシの大漁だ

浜は祭りのようだけど

海の中では何万の

イワシのとむらいするだろう

(金子みすゞ)

海の中には、数えきれないほどのたくさんの魚がいて、人間に捕って食べられるが魚だと思っていたが、本当にそうなのかな…?

みすゞさんは

「違うよ。もう一度見直してごらん。ほら、海のお魚にもきっと親しい親兄弟や友だちがいるんだよ」

と、深い縁かに生まれる仏さまのお心の世界を教えてくださっています。

真宗講座末法時代の教と行 機の真実と無条件の救い 8月(後期)

そこで、親鸞聖人の言葉だけをそのまま口うつしにして、

「この念仏にはからいを加えてはいけない」とか、

「自力の念仏ではなく他力の念仏でなければならない」

といい、あるいは自身を既に獲信した者とみなして、獲信者の念仏のみが真実であるとか、報恩感謝の心で念仏を称えることを教示することになります。

ところで、このような場合、その教えを受ける人が、もし

「他力」「獲信」「報恩」

等の真意がよく理解できていなかったとしたらどうなるでしょうか。

このような念仏義は、逆に衆生にとって

「はからいの種」になるのではないでしょうか。

さらに、念仏の真・偽は、衆生の気分によって左右することができるということになってしまいます。

この意味からしても、念仏が仏廻向の行であり、衆生のはからいを超えて真実であるという不動の真理、言い換えると、一切の念仏が

「大行」であるという念仏の他力義は、どのような場合にあっても絶対に動かすことは許されないのです。

今少しこの点について、角度をかえて求めることにします。

『歎異抄』の第9条に説かれている事柄ですが、弟子の唯円坊は親鸞聖人に念仏を称えても一向に踊躍歓喜の心が生じてこないという、念仏者としての根源的な疑問を

念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらうやらん。

と尋ねています。

これに対して親鸞聖人は

『自分にも同じような疑問がわいてきたのであったが、よくよく考えてみると、それ故にこそ私たちはまさしく「往生は一定」であり、阿弥陀仏は必ず私たちを摂取されるのだ信じるべきである』

と、答えておられます。

その理由について、

よろこぶべきこころをおさへてよろこばせざるは煩悩の所為なり。

しかるに、仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり

と、述べておられます。

煩悩は常に真実を見る目をくるわせます。

凡夫とは、その煩悩の中でしか生きられない者です。

阿弥陀仏の誓願は、この凡夫を救うために成就されているのです。

そうすると、弥陀は仏の法を聞き、念仏の教えに導かれながら、しかもなお世俗の欲望に惑わされ、必死になってこの世の苦悩にしがみつくことしかできない凡夫の心を、既に見通しておられるといわなくてはなりません。

「仏かねてしろしめして」というのは、この点を端的に指しています。

この一言によって、阿弥陀仏の大悲の無限性が明白に知られます。

釈尊の仏教からすれば、一声の念仏でもよく、一歩の歩みでもよく、清浄なる心をもって仏道を行じる。

これが仏教者の仏果に至りうる最低の条件です。

けれども、凡夫は臨終の一念まで、一片の清浄性を持つことができません。

そこで弥陀は、その条件までも取り除かれて、浄土の道を開かれました。

この故に、阿弥陀仏の救済を

「無条件の救い」と呼ぶことができます。

ところで、この

「無条件の救い」に関しても、今日私たちはともすればある錯覚に陥っています。

「無条件の救い」というのは、どこまでも阿弥陀仏の大悲のはたらきの無限性を示す言葉です。

しかし、それをそのまま救われる側の、私たちの心のあり方の問題として理解されているからです。

すなわち、阿弥陀仏の救いは無条件なるが故に、私たちはその大悲にどのような

「はからい」も加えてはならないとして、その

「はからわない」というのはどのようなことかを詳細に説明しています。

けれども、もし自らの

「救い」を「無条件」

としてとらえ、その無条件とは何かを穿鑿し、はからいのない心を作り出そうとするのであれば、結局、弥陀の

「無条件の救い」をはからう心で条件化していることに他なりません。

これは

「はからわない心」で救われてゆく自分の姿を描こうとする言葉ではありません。

凡愚から

「はからい」

を捨てさることなど、所詮できないことだからです。

そこで、弥陀の

「無条件の救い」を私の側で問うのならば、問いは次のように発せられなくてはならなくなります。

「弥陀が私を摂取される時に清浄なる心でなすべき一つの条件をもし付しておられたなら」と。

そこで顕かになるのは、絶対に救われることのない自分の姿であり、このように問うことによって、初めて一つの条件も満たすことのできない不実なる自分を真に知り得ることになるのではないかと思われます。

したがって、末法の世における

「機の真実」とは、自己の不実性が限りなく明らかになることだといわなくてはなりません。