投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇 川霧 9月(4)

ちらと、彼方に灯が見えた。

町の灯である。

生紙(きがみ)へ墨を落したように、町も灯も山も滲(にじ)んでいた。

「宇治だの」

範宴は立ちどまった。

足の下を迅い水音が聞える。

やっと、黄昏れに迫って、この宇治川の大橋へかかったのであった。

「さようでございまする。――もういくらもございますまい」

云い合わしたように、性善房も、橋の中ほどまで来ると、欄に見を倚(よ)せかけて、一(ひと)憩(やす)みした。

ひろい薄暮の視野を、淙々(そうそう)と、秋の水の清冽が駈けてゆく。

範宴は冷やかな川の気に顔を吹かれながら、

「――治承四年」

とつぶやいた。

「わしはまだ幼かった。

おもとはよく覚えておろう」

「宇治の戦でございますか」

「されば、源三位頼政殿の討死にせられたのは、この辺りではないか」

「確か。……月は五月のころでした」

「わしには、母の君が亡逝(みまか)られた年であった。

……母は源家の娘であったゆえ、草ふかく、住む良人(おっと)には、貞節な妻であり、子には、おやさしい母性でおわした以外、何ものでもなかったが、とかく、源氏の衆と、何か、謀叛気でもあったかのように、一族どもは、平家から睨まれていたらしい。さだめし、子らの知らぬご苦労もなされたであろう」

「いろいろな取り沙汰が、そのころは、ご両親様を取り巻いたものでございました」

「さあれ、十年と経てば、この水のように、淙々と、すべては泡沫(うたかた)の跡形もない。――平家の、源氏のと、憎しみおうた人々の戦の跡には何もない」

「ただ、秋草が、河原に咲いています。――三位殿は、老花(おいばな)を咲かせました」

範宴は、法衣の袂から数珠を取りだして、指にかけた。

高倉の宮の御謀議(おんくわだて)むなしく、うかばれない武士(もののふ)たちの亡魂が、秋のかぜの暗い空を、啾々(しゅうしゅう)と駈けているかと、性善房は背を寒くした。

母の吉光の前と源三位頼政とは、同じ族の出であるし、そのほか、この河原には、幾多の同血が、屍(しかばね)となっているのである。

範宴は、またいとこ複従兄弟にあたる義経の若くして死んだ姿をも一緒に思いうかべた、そして、そういう薄命に弄(もてあそ)ばれてはならないと、わが子の未来を慮(おもんぱか)って、自分を僧院に入れた母や養父や、周囲の人々の気もちが、ここに立って、ひしとありがたく思いあわされてくるのでもあった。

その霜除けの囲いがなければ、自分とても、果たして、今日この成長があったかどうか疑わしい。

自分の生命は、決して、自分の生命でない気がする。

母のものであり同族のものであり、そして、何らかの使命をおびて、自身の肉体に課されているこの歳月ではあるまいか――などとも思われてくるのであった。

「…………」

数珠が鳴った。

性善房も瞑目(めいもく)していた。

すると、その二人のうしろを、さびしい跫音(あしおと)をしのばせて、通りぬけてゆく若い女があった。

親鸞・去来篇 9月(3)

「いつ、ご法体(ほったい)になられたのか」

範宴は、涙で、養父のすがたがみえなくなるのだった。

「……面影もない」

と昔の姿とひき比べて、十年の養父の苦労を思いやった。

性善房は、たまりかねたように、そこの門を押して入ろうとした。

「これ、訪れてはならぬ」

範宴は叱った。

そして、心づよく、垣のそばを離れて、歩きだした。

「お会なされませ、お師様、そのお姿を一目でも、見せておあげなされませ」

「…………」

範宴は、首を横に振りながら、後も見ずに足を早めた。

すると、鍛冶ケ池のそばに二人の若い男女が、親しげに、顔を寄せ合っていたが、範宴の跫音(あしおと)に驚いて、

「あら」と、女が先に離れた。

この辺の、刀鍛冶の娘でもあろうか、野趣があって、そして美しい小娘だった。

男も、まだ十七、八歳の小冠者(こかんじゃ)だった。

秘密のさざめ語(ごと)を、人に聞かれたかと、恥じるように、顔を赧(あか)らめて振りかえった。

「おや……?……」

範宴は、その面ざしを見て、立ちすくんだ。

若者も、びくっと、眼をすえた。

幼い時のうろ覚えだし、十年も見ないので、明確に、誰ということも思いだせないのであったが、骨肉の血液が互いに心で呼び合った。

ややしばらく、じっと見ているうちに、どっちからともなく、

「朝麿ではないか」

「兄上か」

寄ったかと思うと、ふたつの影が、一つもののように、抱きあって、朝麿は範宴の胸に、顔を押しあてて泣いていた。

「――会いとうございました。毎日、兄君の植髪の御像をながめてばかりおりました」

「大きゅうなられたのう」

「兄上も」

「このとおり、健やかじゃ。――して、お養父君も、その後は、お達者か」

「まだ、お会遊ばさないのでございますか」

「たった今、垣の外から、お姿は拝んできたが」

「では、案内いたしましょう。養父も、びっくりするでしょう」

「いや、こんどは、お目にかかるまい」

「なぜですか」

「自然に、お目にかかる折もあろう。ご孝養をたのむぞ」

すげなく、行きすぎると、

「兄上――。どうして養父上に、会わないのですか」

朝麿は、恨むように、兄の手へ縋(すが)った。

女は、池のふちから、じっとそれを見ていた。

処(むす)女心(めごころ)は、自分への男の愛を、ふいに、他人へ奪(と)られたような憂いをもって、見ているのだった。

「…………」

性善房は、すこし、傍(わき)へ避けて、兄弟の姿から眼を背けながら、ぽろぽろと、頬をながれるものを、忙しげに、手の甲でこすっていたが、そのうちに、範宴は、何を思ったか、不意に、弟の手を払って、後も見ずに、走ってしまった。

親鸞・去来篇 9月(2)

修行の山を下りて十年目の第一夜だった。

久しぶりで範宴は人間の中で眠ったような温か味を抱いて眠った。

眼をさまして、朝の勤めをすますと、きれいに掃かれた青蓮院の境内には、針葉樹の木洩れ陽が映(さ)して、初秋の朝雲が、粟田山の肩に、白い小猫のように戯れていた。

「性善房、参ろうぞ」

範宴は、いつの間にか、もう脚絆や笠の旅支度をしていて、草鞋(わらじ)を穿(は)きにかかるのであった。

「や、もうお立ちですか」とかえって、性善房のほうが、あわてるほどであった。

「僧正には、勤行の後で、お別れをすましたから」

と範宴は、何か思い断(き)るように足をはやめて山門を出た。

性善房は、笈(おい)を担って、後から追いついた。

すると、執事の高松衛門が、山門の外に待っていて、

「範宴殿、ご出立ですか」

「おせわになりました」

「僧正のおいいつけで、今日は、六条範綱様のお住居(すまい)へ、ご案内申すつもりで、お待ちうけいたしていたのですが――」

「ありがとう存じます」

「まさか、このまま、お発足のおつもりではございますまいが」

「いや」

と、範宴はゆうべから悶えていた眉を苦しげに見せていった。

「……養父(ちち)の顔を見たし、弟にも会いたしと、昨日は、愚かな思慕に迷って、一途に養父の住居を探しあるきましたが、昨夜(ゆうべ)、眠ってから静かに反省(かえり)みて恥かしい気がいたして参りました。

そんなことでは、まだほんとの出家とはいわれません。

僧正もお心のうちで、いたらぬ奴と、お蔑(さげす)みであったろうと存じます。

いわんや、初歩の修行をやっと踏んで、これから第二歩の遊学に出ようとする途中で、もうそんな心の緩(ゆる)みを起こしたというのは、われながら口惜しい不束(ふつつか)でした。

折角のご好意、ありがとうぞんじますが、養父にも弟にも、会わないで立つと心に決めましたから、どうぞ、お引きとり下さいまし」

「さすがは、範宴御房、よう仰せられた。――それでは、その辺りまで、お見送りなと仕ろう」

衛門は、先に立って、青蓮院の長い土塀にそって歩きだした。

そして、裏門の肩へと二十歩ほど、杉木立の中を行くと、小(ささ)やかな篠(しの)垣(がき)に囲まれた草庵があって、朝顔の花が、そこらに、二、三輪濃く咲いていた。

「きれいではございませぬか」

衛門は、垣の打ちの朝顔へ、範宴の注意を呼んでおいて、そこから黙って、帰ってしまった。

性善房は、何気なく、垣のうちを覗いて、愕然としながら、範宴の袂をひいた。

「お師さま。……ここでござりますぞ」

「なにが」

「ご覧(ろう)じませ」

「おお」

性善房に袖をひかれて、草庵のうちを覗いた範宴の眼は、涙がいっぱいであった。

姿は、ひどく変っているが、日あたりのよい草堂の縁に小机を向けて、何やら写(うつ)し物の筆をとっている老法師こそ、紛れもない、養父の範綱なのであった。

鹿児島別院において雅楽の研修会が開催されました

先月、鹿児島別院において雅楽の研修会が開催されました。

今年の11月に鹿児島別院にて勤修される親鸞聖人750回大遠忌法要をお迎えするにあたり、ご講師をお招きしてご指導頂いたことです。

最初に、全体で打ち物(かっこ・たいこ・しょうこ)の打ち方・作法等について説明を受けた後、しちりき・龍笛・笙の三つの楽器にわかれて、各楽器それぞれにご講師の先生より法要にて奏楽される曲目に沿って細かい指導がありました。

最後に、3つの楽器と打ち物も交えて奏楽がなされました。

各楽器それぞれに練習にて指摘されたところを意識しながらまた、お互いの楽器の音を聞きながら、同時に打ち物に合わせて奏楽がなされました。

私自身、ご本山で雅楽の勉強をさせて頂いたときから気づけばもう17年の歳月が経過しています。

楽器の奏楽の際の指の使い方・打ち物の打ち方など、記憶が曖昧になってきている部分もありました。

そういった意味でも今回の練習会で、先生の指導によりその曖昧な部分がはっきりとなったことは有難いことでした。

また、今回の研修で日頃の自分自身の練習不足を感じ、学ぶことの大切さを改めて気づかされたことです。

11月のご法要では、ご門主さま・新門さまがご出座されます。

とくに、ご門主さまは来年の6月に退任されることが決まっておられます。

そういう意味でも、ご門主として鹿児島に来られるのはこれが最後のご縁ではなかろうかと思います。

もう少しでご門主さまから新門さまへと法灯が受け継がれようとする時期に、ご門主さま・新門さまがご出座されるその場にて、奏楽させていただくことを有難く思うことです。

法要では、今回の研修で学ばせていただいたことをしっかりと生かしながらご法要をお迎えできればと思うことです。

お気楽コラム(中期)

真宗講座末法時代の教と行 浄土真宗の教行信証 9月(前期)

謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。

一つには往相、二つには還相なり。

往相の廻向について真実の教行信証あり。

『教行信証』「教巻」

冒頭の文です。

ここで

「浄土真宗」の語に着目したいと思います。

今日この語を理解する場合、大きく二つの見方があります。

一つは

「浄土真宗の教えを考えてみるに」と、浄土真宗の「教え」ととらえる立場です。

いま一つは

「浄土真宗の宗旨を考えてみると」と、「宗旨」としてとらえている立場です。

先ず、前者の立場に立つとすると、この

「教」は続いて説かれる

「それ真実の教を顕はさば」の文にみる

「教」と、どのような関係におかれることになるのか、理解し難い面が生じます。

両者は共に、

「教巻」の「教」を示そうとしているのですから、二者は当然、同一の内容を意味するものと受けとられます。

しかしながら

「教巻」冒頭の「浄土真宗」を「教」と見る場合は

「真実の教行信証あり」

といわれているように、教・行・信・証の四法を含む

「教」のことです。

これに対して

「それ真実の教を顕はさば」の

「教」は、四法中の一つ、行・信・証に対する教の意味ですから、二者の

「教」の意味内容は、明らかに異なっているとみなければなりません。

そうだとすれば

「浄土真宗の教え」というとらえ方は、注釈者自身が矛盾を犯しているか、あるいは非常に誤解を招く表現をしていることになります。

では「宗旨」だとする後者はどうでしょうか。

「宗旨」とは、本来は一つの教説の根本の趣意の意です。

そして、一宗の教義の主旨の意味でもあります。

しかし、ここの意味は、今日一般的に使われている

「宗派名」を示す言葉としてのものです。

けれども、もしそうだとするとこれは前者以上に問題があるといわなくてはなりません。

なぜなら親鸞聖人は、残された著述においても、そのご生涯においても、凡愚の集団による人間的な営みである宗派のあり方については、殆ど関心を示しておられないからです。

もちろん、後に成立した

「浄土真宗」という宗派については、全く関与しておられません。

既に示したように、親鸞聖人が明らかになさった

「機の真実」は、人間の不実性であり、人間の営みの一切はてん倒の中にしかないということです。

そうであるならば、人間的な営みの中にある一宗派は、たとえどれほどの隆盛をきわめたとしても、それはどこまでも一時的な現象に過ぎず、やがて必ず堕落は衰退していきます。

ここに私たちの社会の必然の理があります。

しかもこの真理を如実に見極められた方が親鸞聖人であるならば、その親鸞聖人ご自身が宗派のすがたに真実を見られるはずはなく、ましてやそこに確固不動の理念を求められることなど、ありえないと言わねばなりません。

ひるがえって、親鸞聖人の筆致をうかがうと

「謹んで浄土真宗を按ずるに」は、単なる

「教巻」冒頭の語というよりも、明らかにこれは『教行信証』全体の根源を示す語になっていて、この書が顕らかにしようとしている浄土真実の教行信証こそ、まさにこの

「浄土真宗」だと見ることができます。

このことから、この「浄土真宗」

の語は、親鸞聖人の究極的なよりどころ

「畢竟依」を示す語と理解することができます。

では、その「畢竟依」

とは、親鸞聖人にとっては何なのでしょうか。

『教行信証』の「序」において明示されている

「難思の弘誓・無碍の光明・円融至徳の嘉号・難信金剛の信楽・摂取不捨の真言・超世希有の正法」

である

「阿弥陀仏の仏教」であることは言うまでもありません。

そうすると

「謹んで浄土真宗を按ずるに」の文は、親鸞聖人が究極的なよりどころとしておられる阿弥陀仏の仏教の根本義、阿弥陀仏自身が私たちに説こうとしておられる浄土真実の教とは何かを、この冒頭において問われているのだと受け止めなければなりません。

ここにおいて、この御自釈の大意は、次のようになります。

阿弥陀仏の仏教には二種の廻向があります。

一つは往相(阿弥陀仏が十方世界の迷える衆生を自身の浄土に往生せしめるはたらき)二つは還相(阿弥陀仏が浄土に生まれた衆生を、再び彼らの国土に還裸らしめ、菩薩行を行ぜしめるはたらき)です。

この二種の廻向の内、往相の廻向についてみてみると、真実の教と行と信と証とがあります。

さて、今一つ、この文中の

「廻向」の義に着目することにします。

よく知られているように、親鸞聖人の廻向義は、仏教の教義として特殊な思想だとされています。

仏教思想一般では、廻向には菩提廻向・衆生廻向・実際廻向といった、いくつかの義が見られるとしても、いずれの場合も例外なく、廻向は仏道者自身の行為性を意味しています。

自分が修した善因を仏果のためにふり向ける、あるいは自分が具する善根功徳を他の衆生を利益するためにふり向ける、といった自らの

「はたらき」を指します。

ところが、親鸞聖人においてはそうではありません。

本願成就の文の

「至心に廻向せしめたまへり」という親鸞聖人独自の読み方によって明らかなように、自分の行為性の中に廻向義を見るのではなく、自分に向って来る如来大悲のはたらきの中に、親鸞聖人の廻向義は成り立っているからです。

そこでこの廻向義を浄土真宗では殊に

「他力廻向」と呼び、『真宗新辞典』では

「阿弥陀仏がその功徳を衆生にめぐらし施して、救いのはたらきをさしむけること」

と定めています。

ところが不思議なことに、今日この「二種廻向」

の註釈をみると

「その一は往生廻向。これは私共が浄土に往生する一切の仕掛けをお与え下さることである。他の一は還相廻向。これは私共が、浄土からこの娑婆世界へ衆生済度に還ってくる大用(はたらき)をお与え下さることである」

と、ほぼ救われゆく

「衆生」を中心としてこの廻向義が解釈され、私が如来の功徳の一切を与えられて浄土に往生し、またこの穢土に還り来ることだとして、往還の廻向義を

「廻向せしめられる」という意味に説いているのです。

これはむしろ当然ともいうべきで、親鸞聖人の廻向義の特異性を認めるかぎり、このように語られるからこそ、親鸞聖人の意図がより明確にとらえられているように窺えます。

しかしながら、果たして

「教巻」冒頭のこの文は、そのようなことを語っておられるのでしょうか。

「生涯トライアウト」(上旬)理屈でなく、体を張って「強さ」を伝える

ご講師:山上康弘さん(元プロレスラー)

プロレスの活動を13年間続けきました。

長いようで短く、本当に大変な毎日だったのでが、いいこともありました。

プロレスの巡業は、でっかいバスに乗って、北は北海道からずっと移動しながら試合して周るんです。

もう試合よりも、その地域のおいしいものを食べられるのが唯一の楽しみで、北海道はもちろんカニを楽しみにして行きました。

ところが行ってみたものの、先輩に付き合わされて、食べたのはラーメンだけ。

「先輩、カニはないんですか」と言ったら、

「カニじゃなくてカネがねえよ」

なんて冗談を言われたこともありましたね。

そういう思い出もあるプロレス時代、引退からさかのぼって5年間、地元鹿児島のために何かできないかということで、

「TEAMGAMILOCK(チームガミロック)チャリティープロレス」

という活動を始めました。

GAMILOCKとは、私の必殺技の名前です。

どのような活動かといいますと、私は子どもが大好きなんですが、今テレビなどのメディアでは、自殺やいじめが問題になっていることが報じられていますよね。

私は、本当に強い人はいじめなんてしないと思うんです。

だからこそ、いのちというものの大事さを、プロレスを通してどうしても伝えたかったんです。

なぜなら、自分がいのちがけのことをやっているからです。

そういう思いで、このチャリティープロレスを始めました。

「友だちがいじめられたら、助ける勇気が必要なんだ。勇気も強さだ。けんかに強いということではなくて、自分自身が生きる強さを持たなきゃいけない。僕たちの試合を見てみろ、こんな偉そうに大きな体でのしのしと歩いているけれど、リングに上がると僕だって踏みつけられたり投げられたり締められたりして、こんな人前でボロボロになっているんだよ。でも僕は立ち上がるんだ」

という強さを、子どもたちに理屈じゃなくて、体を張って伝えたかったんです。

昔は

「いじめ」ってありましたか。

私は、いじめという言葉は現代語のような気がするんです。

私は幼少の頃に、先輩に抱えられて船から投げられ、溺れそうになったことがあります。

これは、今の時代だといじめだと思うんですね。

でも当時の私たちの考えは

「泳げないと一人ぼっちになるぞ。お前はここで待っていて寂しくないか。泳ぐ練習をしろ」

という、半分はスパルタ式ですが、半分は自分のために泳ぎを必死に教えてくれたんだととらえていました。

それを私がいじめられたと言ってしまえば、いじめですね。

けれど、私の記憶の中では、昔の先輩っていうのは、半分親代わりで、みんな両親が仕事で忙しかったり、うちも農家でしたから、先輩がしつけもしてくれたりしていたので、そういう感覚だったんです。

それを現代の子どもたちにどのように伝えるか考えたとき、私にできることは体を張ってリングで試合をすることだと思ったんです。

踏みつけられても、子どもたちが見ていれば、こんなところで弱音を吐く訳にはいかないと思いますよね。

だから私は、子どもたちが必死に応援してくれる声援に力をもらって一生懸命戦うんです。

「いじめはやめようよ」

「誰かが困っていたら助けようよ」

ということを伝えるために、私ができる表現がプロレスだったんです。