投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

キラキラネーム

個性的ではあるものの読むのが難解な名前が「キラキラネーム」と呼ばれていますが、子どもの名前に見られるようになったのは1990年代の半ば頃からだそうです。

これは、マタニティー雑誌の『たまごクラブ』が子どもの名前に関する特別付録をつけて、その中で個性的な名前を多数紹介したことがきっかけで広がったといわれます。

そういえば、今から20年前の1993年に「悪魔」と名付けられた子どもに対して、行政が出生届を認めなかったことが世間の耳目を集めました。

戸籍法には人名に使える漢字の規定があるために、使いたくても使えなかったことから、その部分だけ平仮名や片仮名で表記せざるを得なかったという人の話を聞いたことがあります。

そのため、これまで何度も多くの漢字が追加されてきました。

このように、人名には使える漢字に一定の制約があるのですが、その一方読み方については特に規定もなく、漢字をどう読ませるかは親の裁量に任されています。

そのため、本来その漢字にはない読み方をしても、法律上全く問題はないことから、『たまごクラブ』はそのことに着目して、宇宙(こすも)とか月(るな)など“当て読み”が可能だということを紹介しました。

緑輝(さふぁいあ)、皇帝(しいざあ)、男(あだむ)、礼(ぺこ)、煌翔(きらと)、来桜(らら)、乃愛琉(のえる)、英雄(ひーろー)、恋恋愛(れんれこ)、いずれも実際にある名前だそうですが、振り仮名無しではなかなか読めないものばかりです。

もはや「キラキラネームのほうが普通」といった感じさえするような昨今の状況ですが、聞くところによると、既に弊害が出始めているのだそうです。

例えば、小学校などの「お受験」では、キラキラネームの場合、“名付けた親は非常識な人間なのでは?”という印象を学校に持たれがちで、名門校になればなるほど敬遠されたり、中には名前のことで学校でいじめられ引きこもりになるというケースもみられるそうです。

また、同様の理由で就職試験で落とされたり、あるいは結婚相手の親から

「こんな名前をつけるような親の息子にうちの娘はやれない」

と、反対されたケースもあったりしたそうです。

自分の意思とは無関係に、親につけられた名前によって、進学・就職・結婚が上手くいかなかったり、学校で苛められたりするというのは、本人には何の責任もないことだけに、極めて悲劇的なことだと言えます。

しかも、一生その名前に縛られるのですから…。

だからといって、改名は容易ではありませんが、必ずしも変更できない訳でもありせん。

ただし、容易でないのは、頻繁に名前が変わると社会的に混乱を招いてしまうからです。

したがって、本来、名前を付ける前には、よく考えることが求められます。

しかし、どうしても変えなければならない場合、一つは「読み方だけ変える」という方法があります。

これは、漢字を変更せずに、読み方だけを変える方法です。

これは比較的簡単で、住民票を登録できる役場の窓口に行き、読み方の変更手続きを行います。

次に、漢字を変更する場合ですが、これには戸籍の変更が必要です。

「正当な事由」によって名前を変更しようとする場合は、家庭裁判所の許可を得てその旨を届け出る必要があります。

「戸籍法第107条の二」によれば、「正当な事由」とは、過去の判例では具体的に以下のような場合を指します。

  • 珍奇・難解など、社会生活上、著しい支障がある。
  • 家族や近所に同姓同名の人がいる。
  • 性別を間違えられる。
  • 犯罪者に同姓同名の人がいる。
  • 神官や僧侶となった。
  • 神官や僧侶をやめた。
  • 商売上・伝統芸能などで襲名した。
  • 帰化して日本風の名前をつける。
  • 長い間、通称名として使ってきた。

なお、姓名判断や占い、画数が悪いからという理由の場合は「正当な事由」とは認められません。

ところで、浄土真宗では念仏者であることの証として、生前に「法名」を名のります。

一般に「法名」は死んだ時に付けるものと錯覚されていますが、本来は生前に名のるもので、その機会がなかった方には葬儀に際して住職がつけているのが現状です。

では、どうすれば「法名」は名のれるのかというと、原則として京都の西本願寺で「帰敬式」という儀式を受式して頂きます。

なお、2カ月以上前に申請をすれば「内願」という形で自分の希望する名前を「法名」として名のることもできます。

ただし、今流行りのキラキラネーム的な「法名」は不可ですが…。

自分の生き方や願いを「法名」として名のることはとても素晴らしいことです。

「帰敬式」を受けるのは後からでも、とりあえず先に自分の「法名」を考えてみませんか。

戸籍上の名前(俗名)は親からつけてもらったものですが、「法名」も死んでから、しかも自分の知らない名前をつけてもらいますか。

それとも、生きている今、自らの願いを名のりますか。

やっぱり…、「今でしょ!」

法名を「通称名」として一定期間(裁判所の判断にもよりますが一般的には10年ほど)使えば、上記の「長い間、通称名として使ってきた」に該当して、手続きをすれば「法名」を正式名称とすることも可能だと思われます。

『聞思まことのみ法に自らを問う』(中期)

なぜ、私たちにとって、常日頃から仏さまの教えに耳を傾けることが大切なのでしょうか。

もし、日常生活における幸福の求めだけが人間にとって重要なことだとすると、ことさら仏さまの教えに熱心に耳を傾けなくて良いのかもしれません。

また、日頃から神仏に幸福への祈りを捧げていても、時として不幸な状況に陥ることもあります。

そのため、不慮の事故に遭い悲惨な状態になると、つい

「世の中には神も仏もあるものか」

と叫んでしまう人もいたります。

実はこのような時にこそ、その人にとって必要となるのが、その人を真の意味で救う教えだと言えます。

つまり、自分が思い描いていた幸福の求めが破れた時にこそ、真の意味で宗教が求められることになるのです。

ところで、このような非常の事態に陥った時は、人の心は大きく動揺しています。

したがって、深遠な宗教の哲理をじっくりと聞いたり、深く学んだりすることはできません。

「溺れる者は藁(わら)をも掴む」

という諺がありますが、まさにそのような状況にあるといえます。

そして、このような局面においては、藁を掴んだその時が、まさにその人の溺れている時になります。

一般に、人がどうしようもない悲惨な状態に置かれると、その人を救うという宗教が現れ、その人の心に響くような言葉を語りかけます。

この時その人は、心が動転しているため、その言葉の真偽を聞き分けることは容易ではありません。

そこでその人は、自分の耳にとって最も甘く響く言葉を選ぶことになります。

この場合、もしこの選びがこの人にとって

「藁」であるとすると、その宗教を掴んだが故に、さらなる悲惨な状態に陥ってしまうことになります。

なぜなら、藁は掴んでも浮かばないように、このような教えはその人を正しい方向に導くものではないからです。

けれども、私たちは掴んだという思いがあるため、余計にもがいてしまうことになるのです。

だからこそ私たちは、常日頃から真実の教えに耳を傾ける必要があるのです。

人は、心が平常であって理性が働いている時には、偽りの宗教を見分ける力を持っています。

したがって平生、真の宗教を選び、その教えに耳を傾けることが大切になるのです。

なぜなら心が混乱して動揺した時でも、今まで聞いている宗教が、その人を正しい方向に導くことになるからです。

このことについて、『金光明経』には次のように述べられています。

深くおのれを省みて、自分の罪と汚れを自覚し、懺悔する。

他人の善いことを見るとわがことのように喜んでその人のために功徳を願う心が起きる。

またいつも仏とともにおり、仏とともに行い、仏とともに生活することを願うのである。

この信ずる心は、誠の心であり、深い心であり、仏の力によって仏の国に導かれることを喜ぶ心である。

だから、すべての所でたたえられる仏の名を聞いて、信じ喜ぶ一念のあるところにこそ、仏は真心をこめて力を与え、その人を仏の国に導き、ふたたび迷いを重ねることのない身の上にするのである。

さて、では私たちは真の宗教を、どのようにして選べばよいのでしょうか。

そのためには何よりもまず、自分とはいかなる者であるか、自らの真の姿を知ることが大切なのではないでしょうか。

親鸞聖人は、今日の私たち愚かな凡夫の姿を

「悪人」ととらえられます。

この悪人とは、人間社会の日常生活の中で、法律や倫理的な悪を行う人という意味ではありません。

どのような宗教であっても、人に悪を勧める宗教はありません。

宗教は、必ず私の人生にとっての

「善」を勧めるものであって、善がその人によい結果をもたらすと信じるからこそ、人はその宗教を信じ、その宗教にしたがうことになるのです。

けれども、そうすると、私たちが好み行おうとしているその善が、はたして本当の意味での善であるかどうかということが問題になります。

これは『歎異抄』でも言われていることなのですが、私たちは往々にして、仏の教えを判断の基準に置かず、自分が善だと思うことを善とし、悪のように見えれば悪だと考えてしまう傾向があります。

しかも自分が置かれている状況によって、どのような振る舞いをするかわからないのが私の本質です。

例えば、日頃とても気の優しい人が、条件によっては平気で人を殺すことになるかも知れません。

あるいは、自分では善意でなしたつもりの行為が、時として相手の心を深く傷つけることもあったりします。

そうすると、このような不確かな私の行為が、どうして真の善だといえるでしょうか。

そこで仏教では、このような毒をまじえた善の一切を仏果への行とはみないで、むしろ迷いの因であるとみます。

このことを踏まえて善導大師は、自分自身のことを

いま現にここにいる自分は、罪悪生死の凡夫であって、無限の過去から今日まで、常に、迷いの世界に沈み流転し続けて、まったくこの迷いから出る縁に恵まれなかった。

と述べておられます。

では、なぜ、永遠に迷い続けてきた自分の姿を、善導大師は見ることができたのでしょうか。

それは凡夫として、ここに佇んでいる自分を、知ることができたからにほかなりません。

『金光明経』にも説かれていますが、もし自分が過去において、仏とともにいて、仏の教えにしたがい、仏の教えを行じたならば、また、仏の名を聞き、信じ喜ぶ一念があったならば、仏は善導大師をすでに仏果に導き、ふたたび迷いを重ねることはあり得なかったはずです。

「深くおのれを省みて、自分の罪と汚れを自覚し、懺悔する」

とは、まさに善導大師のように、今の自分を知ることだといえます。

ところが、善導大師は同時に、その自分がいま仏法を聞く縁に恵まれたことを、心から喜ぶことになります。

ことに阿弥陀仏の名号を聞き、この仏の本願が、大悲心をもって、迷える善導大師を摂取しておられることを次のように喜ばれます。

阿弥陀仏の四十八願は、迷える衆生を摂取したもうています。

したがって、衆生には、何の疑いもはからいも必要ではありません。

阿弥陀仏の願力に乗じて、必ず往生すると信じればそれでよいのです。

ここで私たちは、仏とは何かを知ることが求められます。

お釈迦さまは悟りを得られた後、とのようなご一生を過ごされたのでしょうか。

それは

「迷える衆生を救う」

という一筋の道を歩まれたといえます。

悟りの智慧を得られたが故に、迷える衆生を知り、お釈迦さまに救いを求める人びとを悟りに導くために、慈悲の実践を続けられたのです。

だとすれば、最高の仏・無上仏は、一切の衆生を救われるために、衆生の願いに先がけて、すでに衆生の心にきているといえます。

だからこそ、衆生が自らの迷える姿を知り、その姿を慙愧して仏の願力を信じれば、そのとき衆生は救われるのです。

このように

「人生のよりどころを明らかにする確かな言葉をよく聞き考えること」、言い換えると

「まことのみ法に自らを問う」あり方を「聞思」といいます。

親鸞聖人は

「聞思して遅慮することなかれ」と、積極的に聞思することを説いておられます。

親鸞・去来篇 川霧 9月(4)

ちらと、彼方に灯が見えた。

町の灯である。

生紙(きがみ)へ墨を落したように、町も灯も山も滲(にじ)んでいた。

「宇治だの」

範宴は立ちどまった。

足の下を迅い水音が聞える。

やっと、黄昏れに迫って、この宇治川の大橋へかかったのであった。

「さようでございまする。――もういくらもございますまい」

云い合わしたように、性善房も、橋の中ほどまで来ると、欄に見を倚(よ)せかけて、一(ひと)憩(やす)みした。

ひろい薄暮の視野を、淙々(そうそう)と、秋の水の清冽が駈けてゆく。

範宴は冷やかな川の気に顔を吹かれながら、

「――治承四年」

とつぶやいた。

「わしはまだ幼かった。

おもとはよく覚えておろう」

「宇治の戦でございますか」

「されば、源三位頼政殿の討死にせられたのは、この辺りではないか」

「確か。……月は五月のころでした」

「わしには、母の君が亡逝(みまか)られた年であった。

……母は源家の娘であったゆえ、草ふかく、住む良人(おっと)には、貞節な妻であり、子には、おやさしい母性でおわした以外、何ものでもなかったが、とかく、源氏の衆と、何か、謀叛気でもあったかのように、一族どもは、平家から睨まれていたらしい。さだめし、子らの知らぬご苦労もなされたであろう」

「いろいろな取り沙汰が、そのころは、ご両親様を取り巻いたものでございました」

「さあれ、十年と経てば、この水のように、淙々と、すべては泡沫(うたかた)の跡形もない。――平家の、源氏のと、憎しみおうた人々の戦の跡には何もない」

「ただ、秋草が、河原に咲いています。――三位殿は、老花(おいばな)を咲かせました」

範宴は、法衣の袂から数珠を取りだして、指にかけた。

高倉の宮の御謀議(おんくわだて)むなしく、うかばれない武士(もののふ)たちの亡魂が、秋のかぜの暗い空を、啾々(しゅうしゅう)と駈けているかと、性善房は背を寒くした。

母の吉光の前と源三位頼政とは、同じ族の出であるし、そのほか、この河原には、幾多の同血が、屍(しかばね)となっているのである。

範宴は、またいとこ複従兄弟にあたる義経の若くして死んだ姿をも一緒に思いうかべた、そして、そういう薄命に弄(もてあそ)ばれてはならないと、わが子の未来を慮(おもんぱか)って、自分を僧院に入れた母や養父や、周囲の人々の気もちが、ここに立って、ひしとありがたく思いあわされてくるのでもあった。

その霜除けの囲いがなければ、自分とても、果たして、今日この成長があったかどうか疑わしい。

自分の生命は、決して、自分の生命でない気がする。

母のものであり同族のものであり、そして、何らかの使命をおびて、自身の肉体に課されているこの歳月ではあるまいか――などとも思われてくるのであった。

「…………」

数珠が鳴った。

性善房も瞑目(めいもく)していた。

すると、その二人のうしろを、さびしい跫音(あしおと)をしのばせて、通りぬけてゆく若い女があった。

親鸞・去来篇 9月(3)

「いつ、ご法体(ほったい)になられたのか」

範宴は、涙で、養父のすがたがみえなくなるのだった。

「……面影もない」

と昔の姿とひき比べて、十年の養父の苦労を思いやった。

性善房は、たまりかねたように、そこの門を押して入ろうとした。

「これ、訪れてはならぬ」

範宴は叱った。

そして、心づよく、垣のそばを離れて、歩きだした。

「お会なされませ、お師様、そのお姿を一目でも、見せておあげなされませ」

「…………」

範宴は、首を横に振りながら、後も見ずに足を早めた。

すると、鍛冶ケ池のそばに二人の若い男女が、親しげに、顔を寄せ合っていたが、範宴の跫音(あしおと)に驚いて、

「あら」と、女が先に離れた。

この辺の、刀鍛冶の娘でもあろうか、野趣があって、そして美しい小娘だった。

男も、まだ十七、八歳の小冠者(こかんじゃ)だった。

秘密のさざめ語(ごと)を、人に聞かれたかと、恥じるように、顔を赧(あか)らめて振りかえった。

「おや……?……」

範宴は、その面ざしを見て、立ちすくんだ。

若者も、びくっと、眼をすえた。

幼い時のうろ覚えだし、十年も見ないので、明確に、誰ということも思いだせないのであったが、骨肉の血液が互いに心で呼び合った。

ややしばらく、じっと見ているうちに、どっちからともなく、

「朝麿ではないか」

「兄上か」

寄ったかと思うと、ふたつの影が、一つもののように、抱きあって、朝麿は範宴の胸に、顔を押しあてて泣いていた。

「――会いとうございました。毎日、兄君の植髪の御像をながめてばかりおりました」

「大きゅうなられたのう」

「兄上も」

「このとおり、健やかじゃ。――して、お養父君も、その後は、お達者か」

「まだ、お会遊ばさないのでございますか」

「たった今、垣の外から、お姿は拝んできたが」

「では、案内いたしましょう。養父も、びっくりするでしょう」

「いや、こんどは、お目にかかるまい」

「なぜですか」

「自然に、お目にかかる折もあろう。ご孝養をたのむぞ」

すげなく、行きすぎると、

「兄上――。どうして養父上に、会わないのですか」

朝麿は、恨むように、兄の手へ縋(すが)った。

女は、池のふちから、じっとそれを見ていた。

処(むす)女心(めごころ)は、自分への男の愛を、ふいに、他人へ奪(と)られたような憂いをもって、見ているのだった。

「…………」

性善房は、すこし、傍(わき)へ避けて、兄弟の姿から眼を背けながら、ぽろぽろと、頬をながれるものを、忙しげに、手の甲でこすっていたが、そのうちに、範宴は、何を思ったか、不意に、弟の手を払って、後も見ずに、走ってしまった。

親鸞・去来篇 9月(2)

修行の山を下りて十年目の第一夜だった。

久しぶりで範宴は人間の中で眠ったような温か味を抱いて眠った。

眼をさまして、朝の勤めをすますと、きれいに掃かれた青蓮院の境内には、針葉樹の木洩れ陽が映(さ)して、初秋の朝雲が、粟田山の肩に、白い小猫のように戯れていた。

「性善房、参ろうぞ」

範宴は、いつの間にか、もう脚絆や笠の旅支度をしていて、草鞋(わらじ)を穿(は)きにかかるのであった。

「や、もうお立ちですか」とかえって、性善房のほうが、あわてるほどであった。

「僧正には、勤行の後で、お別れをすましたから」

と範宴は、何か思い断(き)るように足をはやめて山門を出た。

性善房は、笈(おい)を担って、後から追いついた。

すると、執事の高松衛門が、山門の外に待っていて、

「範宴殿、ご出立ですか」

「おせわになりました」

「僧正のおいいつけで、今日は、六条範綱様のお住居(すまい)へ、ご案内申すつもりで、お待ちうけいたしていたのですが――」

「ありがとう存じます」

「まさか、このまま、お発足のおつもりではございますまいが」

「いや」

と、範宴はゆうべから悶えていた眉を苦しげに見せていった。

「……養父(ちち)の顔を見たし、弟にも会いたしと、昨日は、愚かな思慕に迷って、一途に養父の住居を探しあるきましたが、昨夜(ゆうべ)、眠ってから静かに反省(かえり)みて恥かしい気がいたして参りました。

そんなことでは、まだほんとの出家とはいわれません。

僧正もお心のうちで、いたらぬ奴と、お蔑(さげす)みであったろうと存じます。

いわんや、初歩の修行をやっと踏んで、これから第二歩の遊学に出ようとする途中で、もうそんな心の緩(ゆる)みを起こしたというのは、われながら口惜しい不束(ふつつか)でした。

折角のご好意、ありがとうぞんじますが、養父にも弟にも、会わないで立つと心に決めましたから、どうぞ、お引きとり下さいまし」

「さすがは、範宴御房、よう仰せられた。――それでは、その辺りまで、お見送りなと仕ろう」

衛門は、先に立って、青蓮院の長い土塀にそって歩きだした。

そして、裏門の肩へと二十歩ほど、杉木立の中を行くと、小(ささ)やかな篠(しの)垣(がき)に囲まれた草庵があって、朝顔の花が、そこらに、二、三輪濃く咲いていた。

「きれいではございませぬか」

衛門は、垣の打ちの朝顔へ、範宴の注意を呼んでおいて、そこから黙って、帰ってしまった。

性善房は、何気なく、垣のうちを覗いて、愕然としながら、範宴の袂をひいた。

「お師さま。……ここでござりますぞ」

「なにが」

「ご覧(ろう)じませ」

「おお」

性善房に袖をひかれて、草庵のうちを覗いた範宴の眼は、涙がいっぱいであった。

姿は、ひどく変っているが、日あたりのよい草堂の縁に小机を向けて、何やら写(うつ)し物の筆をとっている老法師こそ、紛れもない、養父の範綱なのであった。

鹿児島別院において雅楽の研修会が開催されました

先月、鹿児島別院において雅楽の研修会が開催されました。

今年の11月に鹿児島別院にて勤修される親鸞聖人750回大遠忌法要をお迎えするにあたり、ご講師をお招きしてご指導頂いたことです。

最初に、全体で打ち物(かっこ・たいこ・しょうこ)の打ち方・作法等について説明を受けた後、しちりき・龍笛・笙の三つの楽器にわかれて、各楽器それぞれにご講師の先生より法要にて奏楽される曲目に沿って細かい指導がありました。

最後に、3つの楽器と打ち物も交えて奏楽がなされました。

各楽器それぞれに練習にて指摘されたところを意識しながらまた、お互いの楽器の音を聞きながら、同時に打ち物に合わせて奏楽がなされました。

私自身、ご本山で雅楽の勉強をさせて頂いたときから気づけばもう17年の歳月が経過しています。

楽器の奏楽の際の指の使い方・打ち物の打ち方など、記憶が曖昧になってきている部分もありました。

そういった意味でも今回の練習会で、先生の指導によりその曖昧な部分がはっきりとなったことは有難いことでした。

また、今回の研修で日頃の自分自身の練習不足を感じ、学ぶことの大切さを改めて気づかされたことです。

11月のご法要では、ご門主さま・新門さまがご出座されます。

とくに、ご門主さまは来年の6月に退任されることが決まっておられます。

そういう意味でも、ご門主として鹿児島に来られるのはこれが最後のご縁ではなかろうかと思います。

もう少しでご門主さまから新門さまへと法灯が受け継がれようとする時期に、ご門主さま・新門さまがご出座されるその場にて、奏楽させていただくことを有難く思うことです。

法要では、今回の研修で学ばせていただいたことをしっかりと生かしながらご法要をお迎えできればと思うことです。

お気楽コラム(中期)