投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇 川霧 9月(10)

彼の鬢(びん)の白さに、

「おもとも、変ったのう」

しみじみと、範宴も見入っていた。

箭四老人の語るところによると過ぎつる年のころ、木曾殿乱入の時にあたって、平家は捨てて行く都に火を放ち、また日ごろ、憎く思う者や、少しでも源家に由縁(ゆかり)のある者といえば、見あたり次第に斬って、西国へと落ちて行った。

その折、六条の館も、あの附近も、一様に焼き払われて、範綱は身辺すら危ない身を、朝麿の手をひいて、からくも、青蓮院のうちに隠れ、箭四郎も供をして、しばらく世の成りゆきを見ていたが、つらつら感じることのあったとみえて範綱は、ふたたび世間へ帰ろうとはせず、髪を下ろして、院の裏にあたるわずかな藪地(やぶち)を拓いて草庵をむすび、名も、観(かん)真(しん)とあらためていた。

で、箭四郎にも暇(いとま)が出たので、宇治の縁家に一人の娘が預けてあるのを頼りに、故郷へ戻って、共に、生活(なりわい)を励もうと一家をもったのであるが、久しく離れていた実(まこと)の父よりは、年ごろの娘には思い合うた若者の方が遥かによいとみえて、家に落ち着いていることなどはほとんどなく、姿が見えない思えば、烏帽子の国助の家に入りびたっている始末なのでほとほと持て余しているところなので――と彼は長物語りの末に、

「どうしたものでございましょう」

と面目ないが、包み隠しもならず、恥をしのんで、打ち明けるのであった。

「なるほど」

それで仔細は分ったが、そう聞けば、萱乃の恋もいじらしいものである。

それを、男の国助は、ほかにも女があって、かくばかり萱乃を苦しませているのはよろしくない。

遊女とかいう国助の一方の情婦(おんな)をこそ、この際、どれほど、深い仲なのか、正直に聞かしてもらおうではないか。

それが、解決の一策というものだと、まず性善房が、なれない話ながら、相談あいてになってみると、国助のいうには、

「てまえが、遊女屋がよいをいたしたのは、まったくでございますが、決して、浮いた沙汰ではなく、何を隠しましょう、東国を流浪しているうちに、木賊四郎(とくさのしろう)という野盜に誘拐(かどわ)かされて、この宇治の色町へ売られた妹なのでございまする。

――けれど、妹が売女(ばいじょ)だなどという沙汰が、人に知られては外聞も悪し、この萱乃にも、つい初手に打ち明けかねて、近ごろになって、そう申しても、もう信じてもくれないのでございます。

けれど手前は、決して、萱乃が憎いのではございません。

どうかして、妹の身代金(みのしろきん)だけを、兄妹して稼いで抜こうとお互い慰めていますので、少しでも生活(くらし)の剰(あま)りができれば妹にわたし、妹も幾らでも客にもらえば私に見せて、共々に、月に二度か三度の会う日を、楽しんでいたのでございます。

決して、萱乃がいうような浮いた話ではありません」

吶々(とつとつ)ということばには真実があって、むしろ、妹思いな兄と、兄思いな妹とが、髣髴(ほうふつ)として、眼を閉じて聞いている人々の瞼(まぶた)に迫ってくるほどなのである。

「すみませんッ……」

突然、泣き伏したのは萱乃であった。

身悶えをして咽(むせ)びつづけた。

親鸞・去来篇 川霧 9月(9)

女がさらに血相を持ち直して、甲だかく猛(たけ)りかかると、その時、門(かど)の戸を開けて、

「娘、われはまた、ここへ来ていくさるのか」

誰やら、老人らしい声がした。

その声を聞くと、萱乃は、びくりとして、

「あっ、お父さん」

水を浴びたように、今までの狂態を醒(さ)まし、にわかに、穴へでも入りたいように、居竦(いすく)んでしまう。

烏帽子の国助も面目なげにうろうろとしていた。

するともう案内もなく上がって来た萱乃の父なる人は、厳(いか)つい顔を硬(こわ)ばらしてそこに突っ立ちながら、若い男女を見下して、さも忌々(いまいま)しげに、

「恥さらしめっ」

と、唾でも吐きかけたいように睨(ね)めつけた。

宇治の郷士でもあろうか、粗末な野太刀を佩(は)いた老人だった。

「さ、家へこい、家へ帰れ。こんな怠け者の職人と、痴話狂いをさせようとて、おやは、子を育てはせぬぞ。

不届き者め」

萱乃の襟がみをつかんで、叱りながら、引っ立てると、

「嫌です、嫌です」

娘は、筵(むしろ)へしがみ伏して、

「――家へは帰りません」

と必死でいった。

「なぜ帰らない」

「でも私は、国助さんと、どんな苦労でもしたいのです」

「親の許さぬ男に?」

「かんにんして下さい」

「ならぬっ」

と老人は一喝(いっかつ)して、

「こんな男に見込みはない。親のゆるさぬ男の家へ入りこんで、仲よくでも暮らしていることか、町の衆が、笑っている。嫌ならよし、親の威光でも、しょッ引いて行かねばならぬ」

憤怒(ふんぬ)して、老人は、娘の体を二、三尺ずるずると門の方へ引きずり出した。

皺(しわ)の深い唇(くち)のまわりに、ばらっと、針のような無精髭の伸びている老人の顔と、物言い振りを、それまでじっと傍観していた性善房は、その時初めて口を開いて、

「待て、――おぬしは、六条のお館に奉公していた箭四郎じゃないか」

といった。

「げっ?」

老人は開いた口をしばらくそのまま、

「…………」

小皺の中の眼をこらして、いつまでもいつまでも性善房の顔を見つめ、一転して、その側にきちんと坐っている範宴の姿を見て、

「や、や、や……」

萱乃の襟がみから手を離して、そこへ、べたっと坐ってしまった。

「お――。……おぬしは元の侍従介?」

「介じゃよ」

「では、これにお在(わ)すのは……」

「わからぬか、あまりご成長あそばしたので、見違うたも無理じゃない。日野の和子さま……十八公麿様じゃ」

「あっ、何としよう」

箭四老人は、両手をつき、額を筵につけたまましばらくは面を上げようとしない。

親鸞・去来篇 川霧 9月(8)

「はい、どなた?」

若い男の返辞だった。

すぐ家の中から板戸を開けて、そこに立っていた者が、二人の僧であったのに意外な顔をしたが、さらに、性善房の手から逃げようともがいている女の姿を見ると、

「この阿女(あま)」

と、裸足で飛び出してきて、女の黒髪をつかんだ。

「どこへ行っていやがったので。――おや、ずぶ濡れになって、また、馬鹿なまねをしやがったな」

あまり無造作に家の中へ引き摺り上げてしまったので、範宴は、

「もしっ、そんな乱暴はせずにいて下さい」

共に、家のうちへ入ったが、もうその時は、女のほうが、俄然、血相を烈しくして、

「何をするんだッ、そんなに、私が憎いかっ。殺せ」

「気ちがいめ」

「さ、殺せ」

いいつつ、男の胸ぐらへつかみかかって、

「そのかわりに、私一人じゃ死なないぞ。この浮気男め、白状者め。口惜しいっ」

範宴も、これには手を下しかねた顔つきで、眺めていた。

しかし、抛(ほ)っとけば限(き)りもないので、

「止めてやれ」

と、性善房にいうと、

「こらっ」

彼は、まず男のほうを隔て、

「やめぬか、まさか、仇同士でもあるまい」

「仇より憎い」

と女はさけんだ、

それからは油紙に火がついたように、男のざんそを人前もなく喋(しゃ)舌(べ)り立てて、男が自分を虐待して、ほかで馴染んだ売女(ばいじょ)をひき入れようとしていることだの、この家が貧乏なために、自分が持ち物を売りつくして貢いだのと、あらゆる醜悪な感情をおよそ舌のつづく限り早口でいった。

さすがに、間がわるくなったと見えて、烏帽子の男は、青白い顔をして、うつ向いていた。

そして今になってから、気がついたように、範宴へ、

「どうも相すみません」と、いった。

「あなたの内儀ですか」

と性善房が口を入れた。

「いいえ、でき合って、ずるずるに暮らしている萱乃(かやの)という女です。けれど、萱乃のいうような、そんな、私は悪い男じゃないつもりです」

「仲を直してはどうじゃ」

「私は、可愛くって、しかたがないくらいなんだが、ご覧のとおりな……」

女は、眸(め)から針を放って、

「嘘をおつきッ」

『聞思まことのみ法に自らを問う』(後期)

 「生きているうちが華だから、死んだら終わり」

 という考えを持っている方が、少なからずいるように思います。

 なるほど、普通に考えれば、そりゃそうだ、とうなずけそうです。

 しかし、もう少しはっきりした文体で考えると、どうでしょうか。

 わたしが生きているうちが華だから、わたしが死んだら終わり。

 つまり、自分の人生が華だから他のいのちを踏み台にしても自分の華を求めるべきだ、死んだ後の世界はどうでもいい、です。

 自分中心の人が出会うと、争いが起こり踏みつけ合ってしまいます。

 結果、華の人生ではなく、地獄を作っていくのです。

 死んだ後のことを考える必要がないなら、自分の子や孫に対しても、その他大勢の生き物に対しても、なんら愛情を注ぐ必要はありません。

 このような生き方が華でしょうか。

 ある先生がおっしゃっていました。

 「あなたのお母さんは、どうしてお母さんと呼ばれるのですか」と。

 ほとんどの方は、

 「私を生んでくれたからです」と答えるでしょう。

 しかし、先生は他の答を持っていると言われます。

 それは

 「自らがお母さんと名乗るから、お母さんと呼ばれる」という答えです。

 世の中には色々な家庭があり、自分で生まなくてもお母さんと呼ばれる人は沢山います。

 その家庭でも、子どもがお母さんと呼ぶのは、お母さんが小さな時から

 「お母さんがご飯を持ってきたよ」

 「お母さんがおむつを替えるよ」

 と、呼び続けてきたからです。

 少し古い曲ですが、

 「こんにちは赤ちゃん私がママよ」という歌がありました。

 その通りです。

 「私がママよ」と呼びかけているのです。

 そしてその呼びかけの中には、あなたがどうであろうと私はあなたのお母さんであり続ける、ビリでも失敗しても、落ちこぼれでも、私があなたの母だ、という強い意志が見て取れます。

 「ナモアミダブツ」は仏さまのお名前です。

 そしてその名前には、お母さんという響きが持っているのと同じような働きがあります。

 「私はナモアミダブツだ、あなたを必ず救うナモアミダブツがここにいるぞ」

 と聞いてみてはどうでしょうか。

 子どもが

 「お母さん」と言うまでには、それなりの時間がかかると思いますが、お母さんは何度も何度も

 「お母さんだよ」と呼びかけを繰り返し、ようやく私が気づくようなありさまです。

 仏さまはずっと

 「必ず助ける、ナモアミダブツだよ」と呼びかけ続けておられます。

 聞いて、聞いて、聞いて、親の働きに感謝し、親の名前を呼べる人生をありがたく思うことが人生の華なのではないでしょうか

 

真宗講座末法時代の教と行 浄土真宗の教行信証 9月(後期)

では、なぜ

「浄土の真宗は証道今盛り」と言えるのでしょうか。

それは、阿弥陀仏の大悲によって教行証のすべてが、ここに廻向されているからに他なりません。

それ故に、釈尊の教えによって、この弥陀の大法を頂戴する者は、末法の現世においても行を成就し証果に至ることができます。

浄土真宗が

「証道今盛りなり」といわれるのもまた、当然のことだと言えます。

ここにおいて、聖道の諸教と浄土の真宗、すなわち釈尊の仏教と親鸞聖人が明らかにされた阿弥陀仏の仏教の証果に至る構造は、次のように対比することができます。

聖道の諸教・行を信じ行じて証に至る

浄土の真宗・教に説く行を信じ証に至る

聖道の諸教(浄土の第十九・二十願の教をも含む)では、衆生は、釈尊の教えを一心に信じ、教えのごとく行じて仏果に至るのですから、教えに対して行者は、一毛の疑惑心を持つことも許されません。

ひたすら教えに信順し、行道に専念することによってのみ証果が得られるのです。

そこで信が初入で最も

「易」、証が究極で最も

「難」、行がその難に至る道程であるため

「難行」というのです。

しかもこの「行」が、仏果を得る因となるのですから、衆生にとって、行が最も重視されることになります。

では、浄土真宗の教えはどうでしょうか。

阿弥陀仏の仏教は、仏の大行が無条件で一切の凡愚を救うという法です。

釈尊は、自身の出世本懐の教えとしてこの法を説かれました。

そうすると、衆生はこの釈尊によって明らかにされた、阿弥陀仏の大行をただ信じるのもで、証果は自然に開かれます。

こうして、阿弥陀仏の大行が私を仏果に至らしめるのですから、行と証は衆生にとっては

「易」の至極です。

これに対して信は、この不可思議なる法を、愚かな凡夫が果たして真実、信じることが出来るかどうかが問われている心だということになります。

ここで、両者、聖道の仏教と浄土の真宗の行と信の関係を見ると、前者では信から行へと、信行の次第を、後者は行から信へと行信の次第を呈しています。

これは、単に順序が逆だという問題ではなく、仏果に至る法の構造が根本的に異なっていることを意味しています。

聖道の仏教においては、仏の教えを行者が信じ行じて証に至るのですから、教のみが仏から衆生へという仏のはたらきの中にあります。

これに対して信と行と証は、行者自身が仏になろうとする発菩提心と行業によって開かれる証果ですから、衆生自体のはたらきを示します。

一方、浄土の真宗においては、教と行と証が阿弥陀仏が、衆生を仏果に至らしめる法のはたらきとしてあります。

その法を衆生が領受する場が信です。

したがって

「信」のみが衆生が法とかかわることのできる唯一の場であると同時に、衆生のただ一つの主体的なはたらきになります。

この故に、信が衆生にとって最も重要な要因、仏果に至る真因となるのです。

衆生は、信によって法と出遇うのですが、それがほんの一瞬、あるいはわずか一点の事柄であっても、その接点の真の覚知は、凡愚自体の問題であるが故に、この信がまさに

「難中の難」なのです。

親鸞聖人が

「無上妙果の成じ難きにあらず、真実の信楽実に獲ること難し」

といわれるのは、まさしくこの点を述べられたものであると窺えます。

むすび

真宗者にとって

「念仏」とは何でしょうか。

これまで述べてきた法の構造が明かになるならば、自然とここに四つの場が開かれることになります。

第一は、未だ真の意味で浄土真宗の法門に出遇っていない者にとっての念仏です。

第十九・二十願の念仏がそれで、この者の念仏は聖道仏教の行と同一の場におかれています。

したがって末法にあっては、この行は直接的には仏果への行業となりえません。

けれども、その念仏の功徳は、やがてこの者を浄土真宗の法門へと導くことになります。

親鸞聖人にとっては、法然聖人に出遇われる以前の念仏、三願転入の構造がそれで、念仏が行者をして真に苦悩せしめ、阿弥陀仏の本願に出遇わしめるのです。

第二は、阿弥陀仏の本願としての念仏です。

親鸞聖人は法然聖人によってこの大法を信知せしめられました。

一声の念仏を通して、一切の衆生を救う阿弥陀仏の大行がこれで、親鸞聖人にとっての念仏義は、主としてこの阿弥陀仏の救いの構造として述べられています。

第三は、この阿弥陀仏の大行を、衆生が自身の主体を通して信知する場です。

第二が法の場の念仏であるとすれば、第三は機の場の念仏です。

獲信の構造としての念仏であり、親鸞聖人においては

「信の一念」の時がこの念仏です。

第四は、獲信者が念仏もの行者として生きる念仏の場です。

ここでは、真の念仏者の実践が問われることになります。

したがって、四つの場を見ることなく親鸞聖人の念仏を論じることは、必然的に論そのものが矛盾をきたすことになります。

したがって、親鸞聖人の念仏義について考える場合、その文章がどの場で述べられているのかということを明確に理解することが何よりも大切になります。

なお、これまで述べてきた

「末法の教行としての念仏」

は、第二の念仏論であることは言うまでもありません。

ONEPIECE

ONEPIECE

ご存じの方も多いと思います。

週刊少年ジャンプに連載されている漫画です。

私も大好きです。

この漫画(「ONEPIECE」)親が子どもに読ませたい漫画ランキング一位なんです。

そんなランキングがあったなんて驚いてしまいましたが

私が子供の頃は「読みなさい」親にそういって渡された漫画は『漫画日本の歴史』でした。

今の子どもは「この漫画を読みなさい」そう言って『ONEPIECE』を渡されるんだな。

羨ましい。

ちなみに

一位にONEPIECEが選ばれている多くの理由が

“仲間の大切さを学べるから”

らしいです。

いつか

ONEPIECEが教科書に載る日が来るのかもしれないですね。