投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

小説 親鸞・紅玉篇4月(5)

「また、空が赤い」

「どこぞのお館へ、盗賊が押しこんだのではないか」

往来へ出て、町の者は、首を空に上げて見ていた。

戦いに次ぐ恐怖は、強盗だった。

こそこそと出没するのではない。

十人、二十人、多い時には五十人も手下をつれて、どこへでも堂々と押しこむのであった。

少し、きかない家来などがいると、忠義だてして闘(あらそ)うので、邸宅(やしき)はたちまち火を放(つ)けられて焼かれてしまう。

「貧乏人には、盗賊の心配だけはない」

町の人々は、赤い空をながめて、せめての慰めのように、つぶやき合った。

その往来を、向う見ずに、駈けて行った男がある。

介であった。

「待てっ」

と、京極の辻でさけんだ。

先へ走ってゆく影も、これまた、おそろしく迅(はし)っ来い。

ちらと、近くで見たところでは、それは、河原や枯れ野などによく寝ている物乞いか、菰僧(こもそう)の類であるらしかった。

初めは、てっきり、成田の郎党と見て追いかけてきた介は、いよいよ、狼狽した。

十八公麿さまを誘拐(かどわ)かして、遠国へでも売ろうとする野盜か人買いにちがいあるまい、と今度は考えた。

「待てッ、待てッ」

叫べば、叫ぶほど、先の男は、背中に十八公麿を負っているにかかわらず魔のように迅くなる。

そして、どう抜けてきたか、六条のお牛場へと駈けこんだ。

「おおここだ」

男は、築地(ついじ)を見上げて、佇(たたず)んだ。

そして裏門をどんどんと叩く。

誰か、開けた。

開けると同時に、男は、背に負ってきた十八公麿を、抛(ほう)りこむように、門の中へ渡して、さっさと、元の道へ、引っ回(かえ)した。

「この乞食めっ、和子さまを、どこへやった」

いきなり組みついてきたのは介である。

「あっ」

よろめいたが、男は、何もいわなかった。

身をねじって、介の体を、勢よく振りとばした。

介は、男の足をつかんだ。

男は前へのめって転んだ。

得たりと、介はのしかかって、拳固で、ぽかぽかと撲りつけた。

初めの勢いは、どこへやら、菰僧ていの男は、両手で顔をおおって、痛いとも叫ばなかった。

介は、腹が癒えないように、なおも、打って打って、打ちすえた。

すると、築地のそばから走って来た十八公麿が、それを見ると、わっと大声で泣いた。

滅多に、泣いたことなどない十八公麿が、しかも、異様な感情をあらわして泣いたので、介は、びっくりした。

「和子様、こいつは、野盗か、人買いか、悪党です。なぜお泣きなさるのです」

十八公麿は、そういって、肩で息をしている介を、うらめしげに見ていった。

「その人を、わしは覚えている、悪党ではない」

「えっ、和子様の知っている人ですって」

「館のお厩(うまや)に、縛られていたことがある……。

そうそう、もと成田兵衛の家来であった庄司七郎というのじゃ」

「げっ」

介は意外な顔をして。

「あの寿童丸に付いていた成田兵衛の家人、庄司七郎が、その男ですか」

振りかえって、見直すと、菰僧は両手で顔をかくしたまま、不意に起って、恥ずかしそうに逃げてしまった。

真宗講座親鸞聖人の十念思想(4月中期)

ところで、人間は

「弥陀の招喚」と

「釈迦の発遣」

という二つの大悲の中で念仏の教えを聞かされることになるのですが、愚かな私たちはその念仏をそのごとく仏の声としては聞くことが出来ません。

どうしても、私が称えている行だと理解してしまいます。

ただし、念仏を我が行としてとらえている限り、いかに念仏行に励んでも私の心は清浄にはなりませんし、往生の確かさは得られません。

そこで、一心の念仏行がかえってこの私を苦悩のどん底に落としめることになるのです。

そのため、結局この者は行に破れ、信に破れて、苦しみの中でどうすることも出来なくなるのですが、このとき、もしこの私と同じ苦しみを持ちながら、しかもその来るしみを超える、念仏の喜びを持っている念仏者に遇うことができたとするとどうでしょうか。

必ず、その獲心の念仏者は、苦しむ私と同じ次元に立って、念仏の真実を語ってくれることになることと思われます。

これが、親鸞聖人にとっての法然聖人との出遇いということになります。

私たちは、自分と同じ立場に立って念仏の真実を語ってくれるような縁に遇うということが、今一つ必要になります。

そういうことからしますと、未信の念仏者にはもちろん報恩の行はないのですが、その一方仏になる行もありません。

そこで、この未信の者にとって仏になる可能性は、私と同じレベルで語られる獲信者の念仏の教えをただ聞くのみということになります。

この獲信者が、善知識です。

だからこそ、未信の者にとっては、ただ聞法のみになるのですが、その聞法する者が弥陀の声を聞き、釈尊の声を聞き得るのは、善知識の教えを通してのみになります。

私たちにとっての善知識とは、

「正信偈」

や和讃で讃えられる七高僧であり、親鸞聖人です。

そこで、その教えを、教えのごとく聞くことが重要になります。

その中で、自分という人間が、いかに愚かな人間であって、仏になるには阿弥陀仏の本願に依るしかないということが、初めて分かるのです。

そして、この本願の真理の分かった瞬間が、

「仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし」

という心です。

未信者が善知識に育てられて本願の真理に頷く、それが

「仏願の生起本末を聞いた」

瞬間ですが、そこで全く新しい私に生まれ変わるのです。

それは、自らが獲信の念仏者になるということです。

そして、そこから始まる獲信の念仏者の道が

「常行大悲」

の実践です。

ここに、親鸞聖人の信の思想の特徴があります。

未信の者は、阿弥陀仏の大行を聞き続けるのですが、獲信の瞬間からは、その阿弥陀仏の大行を語り続ける。

そして、この念仏者の全体が、常に阿弥陀仏の大悲の躍動の中で生かされているということです。

このように見れば、浄土真宗の念仏と信心は常に動的に躍動しているということが出来ます。

ところが、今日の宗学はそうではなく、まず自分の信心の状態を作ることを重視しています。

自分の真実の信心の姿を描いて、その心を静止させてしまう。

そして、それから何をするのかというと、その真実信心の心をもって、向こうから来る阿弥陀仏の法をいただくことになります。

そこで初めて、いただいた喜びの心で念仏を称える。

これが称名報恩の思想ですが、その報恩とは、ただ喜んでそこで終わってしまっています。

未信の念仏者は、不実の心しか持っていません。

そのため、真実の心で念仏をいただくことは出来ないのです。

けれども、そうではなく不実の心に念仏の真実か来るのです。

そして、その法の道理を信知することが、信心なのです。

だからこそ、獲信の念仏者は、獲信後、その念仏の真実を語り続けることになるのです。

これが、親鸞聖人の明らかになさった報恩の念仏の意味です。

したがって、獲信の念仏者には、静的で清浄なる心で

「嬉しい、嬉しい」

と念仏を喜んでいる暇などありません。

常に、有縁の人々に念仏の真実を語り続けるのです。

ここに、非常に動的な親鸞聖人の獲信の構造が見られます。

「宗教をどう教えるか」(中旬)夢を奪わないで

話は戻りますが、五番目は宗教寛容教育です。

今、日本には、外国人がいっぱいいて、いろんな宗教の方がいっぱいます。

そういう人達に寛容でないといけない。

ドイツでは公立でも宗教教育をしていますが、小学四年生になると、イスラム教とユダヤ教について、キリスト教の授業で教えることになっています。

これはとてもいいなあと思います。

この五つの宗教教育の中で、宗派教育以外は公立の学校でも十分できるんじゃないかと思っています。

しかし、今の子どもたちに宗教について本質的なことを教えられるかというと、本当に難しいですね。

本来は、お寺とか教会といった宗教者が教えることであって、学校の教師には無理だなあという気もするんです。

ただ、なんとか学校で少しでも宗教の本質的なことを教えられないかと考えますと、方法としては、まず

「信じない」

ということを教えてはどうかと思います。

例えば、私立学校の先生の中には、新入生に対していきなり

「宗教は素晴らしいですよ」

と教える先生がいるんです。

たいていの子どもは

「ちょっとやばいな」

と思います。

変な学校に入ってしまったと。

少し馴れてきてからは

「あの先生ははまっているからしょうがない。一時間我慢しよう」

と、下を向いて時間が過ぎるのを待っている生徒が私立学校には結構多いんです。

それは、先生たちが信じ込ませようと思って教えるからですね。

これは東京にあります浄土真宗本願寺派の千代田女学園の宗教家の先生に聞いた話ですけど、

「信じない」

ということを教えていくと、生徒の方から

「先生、夢を奪わないで」

と言ってくるんだそうです。

それがその先生にとっては

「しめた」

ということらしいのです。

つまり、人間は

「信じない、信じない」

と教えていくと、不安になってくるんですね。

やっぱり何か信じない訳にはいかないんじゃないかと深く考える訳です。

結局、人間というのはどうしても信じたくなる存在だと思うんですね。

病気だとか肉親が死んだとか、あるいは心配ごとがあると、私たちはどんなに強い人でもつい何かを信じたい、祈りたいとなりますね。

だけど、それでいいかといえば、それだけじゃないと思います。

お釈迦さまの時代というのは、呪術的なものがいっぱいうごめいていて、そういう社会の中にお釈迦さまは生れた訳ですよね。

その意味は何かということです。

お釈迦さまは、呪術的なものを認めなかった人だと思うんです。

お釈迦さまは、それを迷いだと言ったのです。

この精神を私たちは思い出すべきではないかと思っています。

私がかつてお伺いした学校で、大分県の日田というところに大谷派系の昭和女子高校というのがあります。

ここの若い宗教家の先生がこういう授業をやっていました。

四月の末頃で、ちょうど花まつりが終わった後でしたから、新入生を対象に花まつりについてお話なさっていたんです。

まだ三十代の若い先生でした。

お釈迦さまがどうやって生れたかという伝説がありますね。

右脇から生れて、生れ落ちたらすぐ七歩歩いて

「天上天下唯我独尊」

と言ったお話です。

このことを彼は説明して、その後で

「これは全部ウソです」

と言うんです。

「お釈迦さまは決して妖怪変化ではありません。

私たちと同じ人間なんだから、ちゃんとお母さんのお腹から産道を通って生れてきました。

生れてすぐ七歩歩いたなんてこともありません。

言葉もしゃべれなかったはずです。

だからこそ、お釈迦さまの教えは偉大なんです」

ということを、とうとうとしゃべる訳なんです。

私はその授業にとても感動しました。

とかく仏教の授業というと、まずお祈り、手を合わせましょうとかいった儀式のことばかりになりがちなんです。

でも、この若い先生は、仏教とはそういうものではないんだと。

お釈迦さまは非常に科学的な人だったし、そんな夢物語のような人じゃないんだと一生懸命に教えるんですね。

読み過ごしがちな新聞の投書欄には、幅広い年代の人たちがいろいろなことを寄稿しています

読み過ごしがちな新聞の投書欄には、幅広い年代の人たちがいろいろなことを寄稿しています。

それを読むと、世の中の空気や人々の関心事が述べられているように窺えます。

また、時には宗教や寺院に対する素朴な声も散見されます。

その中の一つに、次のようなものがありました。

報恩講法座を聴聞させていただいた。

お経が始まった直後、急にせきが出てきた。

外に出て咳き込んでいると、坊守さんがお茶を持ってきてくださった。

あたたかいほうじ茶がのどを心地よく潤してくれた。

おかげでせきも治まり本堂に戻ると、八十歳前後のご婦人が

「せきに効くよ」

とアメを持たせてくださった。

「逆の立場だったらどうしただろう」

と思うと、うつむかざるを得なかった。

「生かされているいのち」

とよく聞くが、正直その実感がなかった。

この日の法座で

「仏法は自分の人生の中で味わうもの。

わが身はさまざまなご縁の中に生かされている」

とのご講師の言葉が耳に留まり、ハッとした。

お茶とアメに託してその意味を気付かせてくださったのかもしれない。

【中国新聞・広島県・63】

仏教には学び方が二通りあると言われます。

一つは「解学」。

これは、仏教についてのいろいろな知識を身に付けて理解していくという在り方です。

もう一つは「行学」。

これは、学んだ教えを生活の中で学んでいくという在り方です。

例えば「愛別離苦」という教えがあります。

「愛する人とはいつまでも一緒に居たいものだが、どちらが先かは分からないけれど、いずれ死別という一番悲しい形で別れていかなくてはならない」

ということです。

確かに、人生は出会いと別れの繰り返しですから、これを教えとして学ぶ時には、

「確かにそうだな」

と容易に頷くことが出来ます。

けれども、実際に自分の愛する人、大切な人、肉親が亡くなった時には、その事実に簡単に頷くことは難しいものです。

「もしかすると、一晩寝て目が覚めると、実は夢だった」

と思いたいものですが、現実はなかなか私の期待するようにはなりません。

「愛別離苦」

こそが、私の現実だからです。

このように、知識として身に付けた教えを生活を通して学んでいく在り方が行学ですが、それは解学の前提があってこそです。

新聞に投書なさった方も、

『「生かされているいのち」とよく聞くが、正直その実感がなかった』

と述べておられます。

けれども、日頃聞いておられたからこそ、咳き込んだ後のお茶とアメを通してそのことを実感することが出来たのだと思われます。

そして、このような尊い事実を伝えて下さる方がいらっしゃるからこそ、私たちは今自分が歩いている念仏の道が、確かな道であることを知ることが出来るのだと思います。

『すべてのものは移りゆくおこたらずつとめよ』(中期)

インドの北部に、マハー・パンタカ、チューダ・パンタカという兄弟がいました。

兄のマハー・パンタカはとても賢い人で、お釈迦さまの教えをよく理解し、深く仏法に帰依していました。

一方、弟のチューダ・パンタカは自分の名前さえ覚えられないほど愚かな人で、みじめで孤独な生活を送っていました。

弟思いの兄マハー・パンタカは、やむなくチューダ・パンタカを出家させ、自分が聞き学んだお釈迦さまの教えを偈文(仏の功徳をたたえる経文)にし、それを授けて暗誦するように命じました。

それは

三業に悪を造らず

有情(いきもの)を傷めず

正念に空を観ずれば

無益の苦を離るべし

という、わずか四句の偈文です。

チューダ・パンタカは、教えられた偈文を何とか覚えようと、毎日毎日、ひたすらこの偈文を口にしていました。

僧院の中でも、外で仕事をしたり道を歩いているときでも繰り返し口にしていました。

そのため、近くで働いていた牧夫の方が、いつのまにかその偈文を暗誦したほどでした。

ところが、肝心のチューダ・パンタカは、なかなかその偈文を暗記することが出来ませんでした。

朝覚えることが出来たと喜んだのも束の間、昼にはもう記憶が曖昧になっているというありさまでした。

そんな自身の愚かさを悲しんでいると、なかなか覚えられないその偈文をどこかで口ずさむ声が聞えてくるので、驚いて周りを見まわすと、いつもその偈文を耳にしていた牧夫が口にしていました。

チューダ・パンタカは、驚くと共に心からその牧夫を慕い、行き詰まると牧夫のもとを訪ね、礼を尽くしてその偈を学んでいました。

それでも、結局チューダ・パンタカは、その偈文を暗誦することは出来ませんでした。

そこで、兄のマハー・パンタカは、

「お前には仏法を学ぶことは不可能だ。これからは、自分で他の道を探しなさい」

と弟を外に放り出してしまいました。

これは、突き放すことで弟が発奮して、何とかこの偈文だけでも身に付けてくれれば願ってしたことだったのですが、チューダ・パンタカは愚直であったため、兄の真意を理解することが出来ず、ただひたすら自身の愚かさを嘆くばかりでした。

自身の愚かさに涙を流しながら途方にくれているチューダ・パンタカに気付かれたお釈迦さまは、

「自分が愚かであることに気づいている人は、智慧ある人です。

愚かであるのに自分は賢いと思っている人こそ、本当の愚か者です。」

と諭され、チューダ・パンタカに1本のほうきを渡されました。

そして、掃除をしながら

「塵を払わん、垢を除かん」

と、唱えなさいと教えられました。

それ以来、チューダ・パンタカは、来る日も来る日もお釈迦さまに教えられたその言葉を繰り返し唱え続けました。

そして、何年か経った頃、その

「塵を払わん、垢を除かん」

という言葉は、チューダ・パンタカの身体全体にしみ込んでいきました。

やがて、チューダ・パンタカはいつからともなく、

「いったい塵とは何だろう。垢とはなんだろう」

と心に問い続けるようになり、ただひたすらそのこと一つを考え続けるようになりました。

そして、いつしかそれは自分の心の塵のことであり、心の垢であることを自覚し、それらを離れ捨てきるまでになりました。

チューダ・パンタカは、いつとはなしに心に積もってしまう塵とは、自分の経験したことのみを絶対的なこととして誇る自負心や驕慢心のことであり、どこからともなくにじみ出てきて肌を覆ってしまう垢とは、自分の行動や考え方について執着する心であることを悟ったのです。

チューダ・パンタカは、決して賢くなって悟りを開いたのではありません。

どこまでも自分自身の愚かさを見つめ、まさに愚者に徹して、いよいよ仏法に生きる身になることで、まわりの人々すべての一人ひとりの尊さを讃えることのできる心豊かな人、自身が賜っているいのちの尊さに頭の下がる人となったのです。

このように、誰よりも愚かだったチューダ・パンタカが悟りを得たことに対して周囲の人々が驚いていると、お釈迦さまは

さとりには、多くのことを学ばなければいけないというのではないのです。

ほんの短い教えの言葉であっても、その言葉の本当の意味を理解し、道を求めていくならば、さとることができるのです。

と説かれたと、伝えられています。

ほんの短い言葉であってもかまわないのです。

おこたることなく、縁に触れ折りに触れ、尊いみ教えを聞くことに勤めることで、私たちはやがて願うに先立って、常に仏さまに願われている私であることに目覚めることが出来るのだと思います。

小説 親鸞・紅玉篇4月(4)

火の狂った奔牛は、三、四町ほど駈けて行って、忽然(こつぜん)と横に仆(たお)れてしまった。

牛が仆れると、燃えていた車蓋は、紅い花車(はなぐるま)が崩れるように、ぐわらぐわらと響きを立てて、解(ほぐ)れてしまった。

そして、蓋(おい)も、御簾(みす)も、轅(ながえ)も、一つ一つになって、めらめらと地上に美しい炎の流れを描いた。

介は、発狂したように、

「和子様ッ」

と、飛んで行った。

そして、必死になって、崩れた炎の板や柱を、ばらばらと、手で退(の)けてみた。

何らの熱さも感じなかった。

当然、その中にいる十八公麿は、彼の想像では、もう焼け死んでいるはずだった。

けれど、車の下に何ものもなかった。

「あっ……。途中で?」

介は、不安とよろこびと、二つの中に立って、そういった。

「……途中で、振り落とされたか、ご自身で飛び降りたかなされたであろう、ああ、よかった」

見ると、牛は、もう焼け死んでいた。

巨(おお)きな横っ腹を膨(ふく)らませて、足を曲げたまま、真っ黒になっていた。

まだ多少の呼吸(いき)をしているらしく、唇から白い泡が煮えていた。

介は、思わず眼をそらした。

曠野(こうや)は、真っ赤に染まっている。

誰か来て消さない以上、この火は、あしたの朝までつづくかも知れない。

それにしても、十八公麿が、こちらに見えないのはまだ不安である。

安心するには早すぎる。

一人で、六条まで帰れるはずはないし、さだめし、どこかで泣いて、自分の姿をさがしているにちがいない――

「おうっ――いッ」

介は、両手は唇のはたに当てて、全身の声で呼んでみた。

「和子さまあッ――」

返辞はなく、声は、いたずらに、野末のあらしになって、真っ暗に、消えてゆく。

「…………」

呼ぼうとして、涙が、眼につきあげてきた。

もしものことがあったらどうしよう、腹を切って、おわびをしても済まないことだ。

さっきの牛よりも、狼狽(ろうばい)して、狂気じみた彼の影が、それから脱兎のように、野を駈けまわったが、十八公麿は見えないのである。

「どこへおいで遊ばしたぞ。――介はここにおりますぞ。十八公麿様っ」

声も、おろおろとしてくるのであった。

すると、河岸へ寄った堤(どて)の上を一人の男が、誰やら、背に負って走って行くのが見えた。

堤の下まで、炎は這っていたし、空が赤いので、黒い人影が、はっきりと介の眼に映じた。

「やっ、和子様ではないか。

――そうだ、和子様にちがいない。

おのれ、成田の郎党めが」

夜叉のように、介は、堤を目がけて飛んで行ったが、枯れ芦の沼がいちめんに、そこを隔ててするので、遠く迂回(まわ)らなければ、堤にはのぼれなかった。

気が急(せ)くし、足は自由にならない。

沼水はかなり深かった。

介は膝まで濡れた足をもどして、半町ほど後ろから、堤へ這い上がった。

もう、さっき見た人影は、遠く去って、わからなかった。

介は、地だんだを踏んで、

「畜生」

と、さけんだ。

そして、堤の上を、鬼のように髪を後ろへなびかせて走った。

烏帽子(えぼし)は背へ落ちて、躍っていた。