投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『どんなところにも生かされていく道はある』

現代社会を生きるということは、けっこうしんどいものがあります。

なぜならば、人生で名を成した方は、一応に

「あなたの個性を生かせ」

「人生に目標をもって生きよ」

などと、これから人生を歩み出そうとする人たちには、何かと刺戟的な言葉であおり立てる傾向にあるからです。

すると、仕事や人間関係に悩みを持つお互いは

「今のままではいけない」

「もっと自分らしく生きなければ」

と、背中を押されるようにして、自分探しの旅を始めます。

確かに

「自分らしく」

生きることが出来れば素晴らしいことなのですが、それではどう生きることが

「自分らしい」

のか、そもそも

「自分とは何なのか」

と問うていくと、何か曖昧でよく分からなくなってしまいます。

「自分らしさ」

を自分自身で見つけられる人もいるのでしょうが、自分では見つけられない人もいます。

自分では分からなくても、周囲との関係性の中で

「自分」

が感じられ、

「自分らしさ」

に気付くことがあります。

「それって、あなたらしいね」

と他人に言われて、

「私ってそうなんだ」

「私はそう見られていたのか」

と、初めて

「自分らしさ」

に気付かされることもあったりします。

唐突ですが、例えば

「幕の内弁当」

を通して考えてみましょう。

幕の内弁当は、一つの箱の中にご飯とさまざまなおかず(副食)が一緒に詰められています。

おかずは、蒲鉾、玉子焼き、焼き魚などバラエティー豊かですが、特にどれが一品の主役ということはありません。

西洋料理には、必ず主役の一品(豚カツ等)がありますが、幕の内弁当は箱の中にいろいろな種類の食べ物を詰め合わせた食事といえます。

このような取り合わせは、日本独特のもののようです。

蒲鉾、玉子焼きなど、それぞれが個性を持ち、お互いがお互いを認めつつ、

「自分らしさ」

を表現しています。

これは必要、これはいらないと取捨選択をしません。

相互に関係し合い、引き立て合っているところに

「蒲鉾らしさ」

「玉子焼きらしさ」

があります。

「ありのままの自分」は、

「自分だけの私」

だけでなく、

「他者の私」

でもあるのです。

「ありのままに生きる」

「自分らしく生きる」

ことが、どう生きることなのか見つけられなかった時、与えられたことの中で生きる、求められたことの中で生きることもまた、選択肢の一つなのです。

自分らしく生きようとするあまり、周囲との関係性を断ち切ってしまわず、努めて周囲とつながって生きてみてはいかがでしょうか。

そうしますと、どのような状況にあっても、生かされていく道はおのずと開かれてくると思います。

「教行信証」の行と信(10月後期)

同様に、現代においては、親鸞聖人や蓮如上人の大遠忌法要が営まれても、共に七百五十年、あるいは五百年以上も前に亡くなっておられますので、お二人が私の念仏となって輝いておられると聞いても、なかなか実感することは出来ません。

けれども、もし自分の身近に亡くなった方が浄土に生まれて、いま現に私の念仏となって燦然と輝いているということになると、どうでしょうか。

私の念仏が、亡くなった祖父や祖母、あるいは父や母によって支えられている。

そのような実感が生じると、この念仏は非常に温かくなります。

本来宗教とは、温かさを有するものであるといえます。

そしてその温かさが、具体的に分かることが必要です。

そうしますと、亡くなった父や母であれば、私と共に一生懸命に念仏を称えてくれている、と思うことは可能です。

その姿を具体的に見ることも出来ますし、また温かさに触れることも出来ます。

浄土真宗では先祖崇拝を否定しますが、それは念仏を我が物として、その功徳を先祖に振り向けようとするあり方を問題にしているのです。

決して、先祖を敬い大切に思うことを否定しているのではありません。

また、父や母が、そしてご先祖の方々がいま、この私に何をして下さっておられるかを、もし具体的に味わうことが出来れば、それは素晴らしいことになるのではないかと思われます。

私たちが、仏壇に向かって手を合わせる、そこに還相の菩薩としてのご先祖のはたらきを見ることが出来れば、阿弥陀仏についての難しい教説を聞くよりも、よほど直接的にお仏壇に対して温かみを感じることが出来るのではないでしょうか。

親鸞聖人の教えは、非常に難しく厳しいのですが、その中に限りない温かさが組み込まれています。

廻向の思想がそれですが、殊に還相の廻向において、親鸞聖人ご自身が礼拝の中に、浄土に生まれた菩薩が親鸞聖人をして礼拝せしめているすがたをご覧になっておられます。

南無阿弥陀仏と称えることにおいても、浄土に生まれた菩薩がこの私を讃嘆せしめているととらえられます。

そして、作願においても観察においても同じような表現がとられます。

このことは、私が称えている念仏の全体が、還相の菩薩によって称えさせられていると理解しておられることを意味しています。

そうしますと、私が念仏と関わっている、まさにそのことが父とか母とかによって伝えられた法となり、ここにまことに温かい念仏の世界を味わうことができるように思われます。

だからこそ念仏者は、その法を喜びの心をもって人々に温かく伝えることが出来るようになるのです。

この大悲の行の躍動の姿が、つまるところ『教行信証』の構造ということになります。

このように見ますと、

「信巻」

から

「証巻」

への流れは同時的です。

そして、その

「証巻」

の中で、往相の廻向の証と、還相の廻向の証が明かされます。

往相廻向の証とは、往相廻向の行・信・証の構造であり、還相廻向の証とは、もちろん獲信の念仏者の還相廻向の証なのですが、この世の念仏者は未だ死んではいませんから、関係ありません。

それ故に、還相の問題は、既に往生された方々が、この現実の私にどう関わられるかが問題になるのです。

「現代日本の医療文化と仏教文化」(下旬)毎日、人は生れ変わっている

では、実際どうしたら死を超えることが出来るのでしょうか。

それは時間を考えることで、答えが見えてきます。

私たちは、時間の概念を学ぶとき、過去に生まれて、未来のどこかで死ぬと思っていますよね。

死ぬとは未来です。

今生きている人は、誰も死を経験したことがありません。

全く未知のことですから、不安や恐れを抱く訳です。

でも、そのように、過去・現在・未来が直線的につながっているという時間の概念は、あくまで一つの考え方なんです。

仏教は、過去・現在・未来をどう考えているかというと、

「今」

しかないんです。

この実感を大事にするんです。

明日というのは、夢・幻の世界です。

明日になったら、明日の

「今」

なんですよ。

常にあるのは、今ここしかありません。

普段考えている時間の考え方とは少し違いますよね。

仏教では、今ここということを非常に大切にします。

仏教では、それを一刹那といい、分割できる最も小さな時間の単位で表します。

今を感じるのは、とても難しいですね。

今といっても、その瞬間に過去になっていますから。

それは難しいから、1日と考えてみましょう。

これは東京大学名誉教授の養老猛司先生や、国際アンデルセン賞級の賞を受賞した詩人のまど・みちおさんも言っていることです。

今日は8月11日ですね。

8月10日の私は、昨日の夜に死にました。

そして、今日の朝、2012年8月11日を初体験する私はここで生まれたんです。

そして今日の夜また死んでいく。

明日の朝、目が覚めなかったら、それは死んだということです。

ということは、死というものは未来にあると思っていたのが、歳の数だけ生まれては死に、生まれては死にを繰り返していた訳です。

それが、仏さまから見た私たちのあるがままの姿なんです。

私の仏教の先生は、お念仏の生活を

「朝目覚めたとき、今日もいのちを頂けた南無阿弥陀仏、と1日がスタートします。

そして夜休むとき、今日私なりに精一杯生きさせて頂きました南無阿弥陀仏、と休んでいくんですよ。

そして、その間に思い出してお念仏をする。

すると、1日がお念仏に始まり、お念仏で終わると喜べますね。

これが浄土真宗です」

と言われました。

これに養老猛司先生や、まど・みちおさんのお話をくっつけると、朝目が覚めたとき

「今日1日のいのちが頂けた、南無阿弥陀仏」

と生を受け、今日が終わるときに

「1日のいのちを精一杯生きさせて頂きました。

南無阿弥陀仏」

と、死んでいく。

仏教っていうのは、実験なんです。

だから志のある方は、1週間でもいいですので、実験してみてください。

朝起きたときには南無阿弥陀仏のお念仏を。

今日眠るとはきは、ああこれで死ぬんだ南無阿弥陀仏と死んでいく。

明日はないんです。

今日しかない。

焦点は、死ぬ準備ではありません。

今をいかに輝かせるか。

それが仏教の中心課題です。

死の問題が解決されれば安心して今を生きていける訳です。

老病死を避けることで安心する訳ではないんですね。

仏さまにおまかせして、精一杯生きていけば、結果として死も怖くなくなってくるんですよ。

小説 親鸞・乱国篇 第一の声 10月(7)

去りかけるとまた、

「やい、何だわりゃあ?」傀儡師だの、菰僧だのが、立って来そうにしたので、

「へい」吉次は、戻って、

「雨宿りをしていた旅人でございます」

「旅(たび)鴉(がらす)か」

「やみましたから、出かけたいと思いますが、日野の里へは、まだ、だいぶございましょうか」

「日野なら、近いが、日野のどこへ行くのだ」

「藤原(ふじわら)有(のあり)範(のり)様のお館まで、はい、使いに参りますので」

「あ、あのお慈悲深い吉光御前様のお住まいだよ」頓狂な声を出して、女のお菰が立った。

すると、浮浪たちも、にわかに丁寧になって、

「吉光御前様のところへ行かっしゃるなら、誰か、案内してあげやい」

「おらが行こう」竹の棒を持った河童みたいな小僧が、吉次の側へ寄ってきて、

「旅人、案内しよう」

「すまないな」

「なあに、吉光御前様には、おらたち、どれほど救われているかしれないのだ。

あのお館は、そういっちゃ悪いが、落魄れ藤家(とうけ)の、貧乏公家で、ご全盛の平家と違い、築地の崩れも繕えぬくらいだが、それでいて、俺たちが、お台所へ物乞いに行っても、嫌な顔をなされたことはない…」

一人がいうと、女のお菰も、

「冬が来れば、寒かろうとて、わしらばかりでなく、東寺や、八坂の床下に棲む子らにまで、古いお着物は恵んで下さるしの」口をそろえて、その他の浮浪たちもいうのであった。

「化粧(けわい)に浮身をやつすおしゃれ女や、身の安楽ばかり考えている欲ばり女は、お館という厳めしい築地の中にうんといるが、あんなやさしい女性(にょしょう)が、今の世のどこにいるかよ。

――あのお方こそ、ほんとうの観世音菩薩というものだろう」

「そういえば、如意輪観世音がご信仰で、月ごとに、ご参詣に見えておいでだが、この春ごろからお姿を見たことがない。

――もしやお病(いた)褥(つき)ではないかと、わしらは、案じているのじゃ」

鶏の骨をねぶりながら、女のお菰は、そういって、山門の外まで、送ってくる。

吉次は、心のうちで、うれしかった。

その吉光御前というお方こそ、自分が主命をうけて、機会さえあれば世に出そうと苦心している鞍馬の稚児遮那王の従姉にあたる人なのであった。

「水たまりがあるぜ、おじさん」河童は、竹の棒で、真っ暗な地をたたいて、先に歩いていく。

鼻をつままれてもわからない小路の闇に、野良犬が、吠えぬいている。

犬すら、飢えているように、しゃがれた声に聞こえた。

小川がある、土橋を越える。

やや広い草原をよぎると、河童は、竹の先っぽで、

「あそこに大銀杏(おおいちょう)が見えるだろう」と、指していった。

「……あの銀杏のそばの土塀が、正親町様だよ。

藤原有範様のお館は、あそこを曲がると、すぐさ」

「や、ありがと」道をすすんで、二人は目じるしの大銀杏を横に曲がりかけた。

すると河童は、何かに、驚いたように、

「おやっ?」と、立ちすくんでしまった。

小説 親鸞・乱国篇 第一の声 10月(6)

「雨は、やんだかよ」

「やんだらしいぞ」どこかで、誰か、つぶやいた。

兵戦で、半焼けになったまま、建ち腐れになっている巨(おお)きな伽藍(がらん)である。

そこの山門へ駈け込んで雨宿りをしていた砂金売り吉次は、そっと首を出してみた。

町は、もう、たそがれている。

濡れた屋根の石が、夕(ゆう)星(ずつ)の光に魚みたいに蒼く光る。

どこかで、ぱちぱちと火のハゼる音がするのだった。

赤い火光が、山門の裏からさしてくる。

そこから、がやがやと、

「阿(あ)女(ま)、何を、うまそうに、さっきから、ぴちゃぴちゃと、ねぶっているのだ、俺にも、分け前をよこせ」

「嫌だよう」

「しみったれめ、よこさぬか」

「鶏の骨だに、分けようがないだよ。なあ、菰(こも)僧(そう)さん」

「鶏を盗んできて、この阿女め一人で腹を肥やしてくさる」

「その、味噌餅くれれば、鶏の片股をくれてやるだ」

「ふざけるな」

「だって、おら、子持ちだから。他人よりは、腹がすくのは、当たりまえだに。

……あれっ、嫌だっていうに、傀儡師(くぐつし)さんよ、その、鶏の骨、とり返してくんな」

餓鬼のように何か争っているのである。

覗いてみると、女のお菰だの、業病の乞食だの、尺八を持った骸骨みたいな菰僧だの、傀儡師だの、年老いた顔に白いものを塗っている辻君だの、何して食べ何しに生きているのやら分からない浮浪人の徒が、仁王のいない仁王門の一廓を領して、火を焚いたり着物を干したり、寝そべったり、物を食ったり、宛として、一つの餓鬼国を作っている。

院の御所とか、六波羅の館とかまた平家の門葉の邸宅には、夜となれば月、昼となれば花や紅葉、催馬楽(さいばら)の管弦の音に、美酒と、恋歌の女性が、平安の夢をおって、戦いと戦いとの一瞬の間を、あわただしく、享楽しているのであったが、一皮剥いた京洛(みやこ)の内部には、こうした、飢えと飢えとの寄り合い家族と、家なき浪人が、空寺、神社、辻堂、石垣、およそ屋根と壁の形さえあれば――そして住む主さえいなければ――巣を作って、虫けらのごとく、獣のごとく、生きていた。

(噂より、ひどい)吉次は、異臭に、顔をひそめながら、うたれて、見ていた。

(――五穀にも、風土にも、また唐土の文化にも恵まれぬ奥州(みちのく)でさえ、こんな図はない)

憮然として、吉次は、見ていた。

まざまざと、悪政の皮膚病がここに膿を出しているのである。

平家の門閥が、民を顧みるいとまもなく、民の衣食を奪って、享楽の油に燃やし、自己の栄耀にのみ汲々としているさまが、ここに立てば、眼にもわかる。

(これでいいのか)天に問いたい気がした。

(どうかしなければならない。――神の力でも、仏の力でも駄目だ。

兵戦は、神をも、仏をも、焼いてしまったではないか。――人の世を正しく統べるものは、人の力だ。

真実の人間だ。

ほんとうの人間こそ、今の時世に、待たれるものだ)

そう考えて、彼は、鞍馬の遮那王に近づきつつある自身の使命に重大な任務と、張り合いを感じた。

 

「やいっ、誰だ」すると、一人の乞食が、彼を見つけて、咎(とが)めた。

 

 

 

小説 親鸞・乱国篇 第一の声 10月(5)

鞍馬寺の遮那王。

ずばと、そういったのである。

この金的は、よも外れてはいまい――というように、自信を持った眸で、文覚は、じいっと、相手の顔をいろいろ見る。

「……」堀井弥太の砂金売り吉次は、えくぼをたたえて、頷いた。

ふとい――大きな息で、

「……そうか」文覚もうなずき返した。

遮那王といえば、源家の嫡男、前左(さま)馬頭(のかみ)源義朝(みなもとのよしとも)の末子で、幼名を、牛若といった御曹子のことだ。

常磐(ときわ)と呼ぶ母の乳ぶさからもぎ離されて、鞍馬寺へ追い上げられてから、もう、十年の余りになる。

「………」文覚は、黙って、指を繰っていた。

弥太の吉次も、黙然と、大文字山の雲を見ていた。

「今年は承安三年だな」

「さよう――」

「すると、遮那王様には、おいくつになられるか」

「十五歳」吉次が、答えると、

「ほ……。

はやいものじゃ。

もう、あの乳くさい源家の和子が、十五にも相成ったか」

「文覚、おぬしも稀には、お会なさるか」

「いや、一昨年、書写山に詣でた折、東光坊の阿闍(あじゃ)梨(り)を訪ねて、その折、給仕に出た稚児が、後でそれと聞かされて、もったいない茶を飲んだわと、涙がこぼれた。

――噂によれば、僧正ケ谷や、貴船の里人どもも、もてあましている暴れん坊とか」

「さればさ、寺でも、困っておるらしい」

「その困り者へ、眼をつけて、はるばる奥州路から年ごとの鞍馬詣では……。

ははあ、読めた」小膝を打って、

「――奥州平泉の豪族が、奢り振る舞う平氏の世を憎んで、やがて源家へ加担の下地でなくて何であろう。

これは、世の中がちと面白くなりそうだの」それには答えないで、「おや」吉次は、空を仰向いた。

ポッ、と雨が顔にあたる。

加茂の水には、小さな波紋へ、波紋が、無数に重なった。

東山連峰の肩が、墨の虹を吐き出すと、蒼天(あおぞら)は、見るまに狭められて、平安の都の辻々や、橋や、柳や、石を載せた民家の屋根が、暮色のような薄暗い底に澱んでゆく。

「ひと雨来るな」文覚も、立ち上がって、

「弥太。

――いや奥州の吉次殿、して、宿は」

「いつも、あてなしじゃ。

ねぐらを定めぬ方が、渡り鳥には、無事でもあるし……」

「高雄の神護寺へ参らぬか」

「いや、さし当たって、日野の里まで参らねばならぬ」

「日野へ。

何しに?」

「遮那王様のお従姉(いとこ)がいらせられて、いつも、鞍馬へのお言づてを聞いてゆくのだ」

「はて、誰だろう?」

「また、会おう。

――そのうちに」

「うむ、気をつけて行くがいいぞ」

「おぬしこそ」二人は、別れ別れに、駆けだした。

川柳の並木が、白い雨に打ち叩かれて、大きく揺れている中を。