投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

小説 親鸞・乱国篇 第一の声 10月(8)

「なんだ?……、なんだろう……あれは?」河童は、眼を大きくしたまま、怯えたように、そうつぶやいた。

「あ――」吉次も、その前に、足をとめていたのだった。

二人とも、呼吸(いき)をのんだ。

そこの大銀杏から小半町先の一廓に、館構えが見え、古びた殿作りの屋根が、墨で捌いたように、赤松の梢と、築地の蔭に、沈んでいる。

それはいい。

それはさっき河童がいった有(あり)範(のりの)朝(あ)臣(そん)の館に違いないのである。

しかし、二人は、そのほかに、異なものを見たのであった。

異なものというのは、そこを曲がった途端に、眼を射た光である。

およそ、夜といえば、光に乏しい世界に住んでいる人間にとって、光ほど、尊く、有難く、また、妖しく考えられるものはなかった。

その光だった。

白い虹といおうか、彗星(ほうきぼし)の尾のような光が、有模朝臣の屋の棟とおぼしい辺りから燿々(ようよう)としてさして、二人が、(あっ?)といった間に、眼を拭ってみれば、何事にも思えない元の闇なのであった。

「見たか、お前も部

「見た」と、答えて、河童は急に、

「おじさん、おら、ここで帰るよ」尻ごみをした。

「ご苦労だった」吉次は、銭を与えて、

「――今の光ものを、お前は何だと思う?」

「わかんない」

「俺にもわからぬ。

ふしぎなこともあるものだ」

「みんなに、話してやろう」

「こらこら、うかつなことを、言いふらしてはいけないぞ」

「ああ!」河童は、鴉みたいな返辞を投げて、一目散に、もとの道へ、駈けて行った。

砂金売りの吉次は、築地の外に立った。

どこを眺めても、盲目のように門が閉まっている。

雑草が、ほとんど、門の腰を埋めているのである。

野良犬ならば、すぐ跳び越えられるように、崩れている所もある。

かずらの絡んでいる椋の樹の上で、キチキチと、リスが啼いた。

「変わるなあ……世の中は」しみじみと、彼は思う。

藤原氏の一門といえば、人間のなしうる豪華な生活図を地上に描き出したものである。

それが、武家同士の興亡となり、武家政治となり、今の平家の全盛になってからは「落魄れ藤家」と嘲られて、面影もない存在になってしまった。

狐狸でも住みそうな、この古館のしいんとしていることはどうだ。

灯の気も見えぬし、犬すらもここにはいないと見える。

とん、とん、とん……試みに、裏門とおぼしい所を、吉次は、そっと叩いてみた。

そして、低声(こごえ)で、

「こんばんは――」何度か、訪れてみた。

「駄目だ」考えていたが、やがて、小石をひろって、侍部屋らしい屋根を目当てに、投げつけた。

蔀(しとみ)をあげる音がした。

――間もなく、壺のうちで、灯りが揺らぐ。

そして、木履(ぽっくり)の音が、カタ、カタ、と近づいて来た。

4回目の…

4回目の…

今回も、この場をお借りして東日本大震災のボランティア報告をさせていただきます。

今回は、5月下旬から6月上旬にかけて10日間行ってまいりました。

今回の活動は…イチゴを抜きにしては語れません(≧∇≦)

昨年10月に活動をさせていただいた宮城県南部に位置する山元町のイチゴ農家さん。

お電話やお手紙等を通じて繋がりを持たせていただいており、宮城入りした当日に、ご挨拶と情報収集に行ってきました。

お父さんは畑に出ておられて会えなかったのですが、お母さんと再会を喜ばせていただきました。

しばらくご自宅で話をした後、ご厚意でイチゴ狩りをさせていただいたんです!!

「もうすぐ苗を植えかえるから、遠慮なくたくさん採ってね」

と。

初めてのイチゴ狩りを十分に楽しませていただきました。

…が!!!

「それしか採ってないの?はい、コレ!はい、コレも!」

と、お母さんが採って行かれる後ろで私は、イチゴを紙箱と口の交互に運んでいました(”^∇^)

甘い!大きい!山盛り!

イチゴ狩りというよりは、収穫に近かったような気がします。

箱に山盛りのイチゴは、ボランティアセンターに持ち帰り、仲間たちとおいしくいただきました。

さて数日後、今度は活動で伺いました。

イチゴの苗を育てるポットに付いているヘドロの洗浄作業。

ビニールハウス内の清掃等。

すべきことは、まだまだあり2日連続で行ってきました。

また贅沢な話をさせていただきます♪♪10時の休憩に食べて、といただいたのは

「進物用じゃないの!?」

と思われるほど大振りなイチゴ!!

しかも一人一パック!!

「食べきるかな…」

と思っていましたが、アッという間に胃袋の中へ^^;

活動を終え帰るときには、ボランティアセンターへのお土産と再び箱に山盛りのイチゴをいただいて…本当に贅沢なイチゴのいただき方をさせていただきました。

宮城入りした初日に伺った際、お母さんから漏れてきた言葉は…、震災以降、必死に頑張ってきて疲れが出てきていること。

畑は津波の被害を受けたが、自宅は津波の影響を受けなかったために、周りの方々から

「家が残っているんだから、まだマシじゃない」

と言われることなど。

一見お元気そうではあっても、心身ともに疲れておられるんだろうなと思われました。

しかし

「キツイよ。

でもね、いろんな人と出会える。

いろんな人と話ができる。

だから、頑張ろうって思える。」

というお母さんの言葉に、私が元気づけられたことでした。

またイチゴ農家での2日目の活動は、女性だけでの活動だったということもあったからなのでしょうか。

手を動かしつつも、口もひっきりなしに動きっぱなし^^;

「女性だけっていうのも、楽しいね」

と、お母さんが話されていました。

力仕事となると、男性には劣るかもしれない。

でも、いろんな話をすることで少しでも楽しい気持ちになっていただけるのならば、女性だけで活動をするというのもアリですね(*^-゚)d

さて前回のコラムで、活動報告をさせていただいた際、

「次回は寿司リベンジ」

と書いておりましたが、今回はそちら方面へ行く活動をしておらず、寿司リベンジ断念でした^^;

一応、ご報告まで…

『どんなところにも生かされていく道はある』

現代社会を生きるということは、けっこうしんどいものがあります。

なぜならば、人生で名を成した方は、一応に

「あなたの個性を生かせ」

「人生に目標をもって生きよ」

などと、これから人生を歩み出そうとする人たちには、何かと刺戟的な言葉であおり立てる傾向にあるからです。

すると、仕事や人間関係に悩みを持つお互いは

「今のままではいけない」

「もっと自分らしく生きなければ」

と、背中を押されるようにして、自分探しの旅を始めます。

確かに

「自分らしく」

生きることが出来れば素晴らしいことなのですが、それではどう生きることが

「自分らしい」

のか、そもそも

「自分とは何なのか」

と問うていくと、何か曖昧でよく分からなくなってしまいます。

「自分らしさ」

を自分自身で見つけられる人もいるのでしょうが、自分では見つけられない人もいます。

自分では分からなくても、周囲との関係性の中で

「自分」

が感じられ、

「自分らしさ」

に気付くことがあります。

「それって、あなたらしいね」

と他人に言われて、

「私ってそうなんだ」

「私はそう見られていたのか」

と、初めて

「自分らしさ」

に気付かされることもあったりします。

唐突ですが、例えば

「幕の内弁当」

を通して考えてみましょう。

幕の内弁当は、一つの箱の中にご飯とさまざまなおかず(副食)が一緒に詰められています。

おかずは、蒲鉾、玉子焼き、焼き魚などバラエティー豊かですが、特にどれが一品の主役ということはありません。

西洋料理には、必ず主役の一品(豚カツ等)がありますが、幕の内弁当は箱の中にいろいろな種類の食べ物を詰め合わせた食事といえます。

このような取り合わせは、日本独特のもののようです。

蒲鉾、玉子焼きなど、それぞれが個性を持ち、お互いがお互いを認めつつ、

「自分らしさ」

を表現しています。

これは必要、これはいらないと取捨選択をしません。

相互に関係し合い、引き立て合っているところに

「蒲鉾らしさ」

「玉子焼きらしさ」

があります。

「ありのままの自分」は、

「自分だけの私」

だけでなく、

「他者の私」

でもあるのです。

「ありのままに生きる」

「自分らしく生きる」

ことが、どう生きることなのか見つけられなかった時、与えられたことの中で生きる、求められたことの中で生きることもまた、選択肢の一つなのです。

自分らしく生きようとするあまり、周囲との関係性を断ち切ってしまわず、努めて周囲とつながって生きてみてはいかがでしょうか。

そうしますと、どのような状況にあっても、生かされていく道はおのずと開かれてくると思います。

「教行信証」の行と信(10月後期)

同様に、現代においては、親鸞聖人や蓮如上人の大遠忌法要が営まれても、共に七百五十年、あるいは五百年以上も前に亡くなっておられますので、お二人が私の念仏となって輝いておられると聞いても、なかなか実感することは出来ません。

けれども、もし自分の身近に亡くなった方が浄土に生まれて、いま現に私の念仏となって燦然と輝いているということになると、どうでしょうか。

私の念仏が、亡くなった祖父や祖母、あるいは父や母によって支えられている。

そのような実感が生じると、この念仏は非常に温かくなります。

本来宗教とは、温かさを有するものであるといえます。

そしてその温かさが、具体的に分かることが必要です。

そうしますと、亡くなった父や母であれば、私と共に一生懸命に念仏を称えてくれている、と思うことは可能です。

その姿を具体的に見ることも出来ますし、また温かさに触れることも出来ます。

浄土真宗では先祖崇拝を否定しますが、それは念仏を我が物として、その功徳を先祖に振り向けようとするあり方を問題にしているのです。

決して、先祖を敬い大切に思うことを否定しているのではありません。

また、父や母が、そしてご先祖の方々がいま、この私に何をして下さっておられるかを、もし具体的に味わうことが出来れば、それは素晴らしいことになるのではないかと思われます。

私たちが、仏壇に向かって手を合わせる、そこに還相の菩薩としてのご先祖のはたらきを見ることが出来れば、阿弥陀仏についての難しい教説を聞くよりも、よほど直接的にお仏壇に対して温かみを感じることが出来るのではないでしょうか。

親鸞聖人の教えは、非常に難しく厳しいのですが、その中に限りない温かさが組み込まれています。

廻向の思想がそれですが、殊に還相の廻向において、親鸞聖人ご自身が礼拝の中に、浄土に生まれた菩薩が親鸞聖人をして礼拝せしめているすがたをご覧になっておられます。

南無阿弥陀仏と称えることにおいても、浄土に生まれた菩薩がこの私を讃嘆せしめているととらえられます。

そして、作願においても観察においても同じような表現がとられます。

このことは、私が称えている念仏の全体が、還相の菩薩によって称えさせられていると理解しておられることを意味しています。

そうしますと、私が念仏と関わっている、まさにそのことが父とか母とかによって伝えられた法となり、ここにまことに温かい念仏の世界を味わうことができるように思われます。

だからこそ念仏者は、その法を喜びの心をもって人々に温かく伝えることが出来るようになるのです。

この大悲の行の躍動の姿が、つまるところ『教行信証』の構造ということになります。

このように見ますと、

「信巻」

から

「証巻」

への流れは同時的です。

そして、その

「証巻」

の中で、往相の廻向の証と、還相の廻向の証が明かされます。

往相廻向の証とは、往相廻向の行・信・証の構造であり、還相廻向の証とは、もちろん獲信の念仏者の還相廻向の証なのですが、この世の念仏者は未だ死んではいませんから、関係ありません。

それ故に、還相の問題は、既に往生された方々が、この現実の私にどう関わられるかが問題になるのです。

「現代日本の医療文化と仏教文化」(下旬)毎日、人は生れ変わっている

では、実際どうしたら死を超えることが出来るのでしょうか。

それは時間を考えることで、答えが見えてきます。

私たちは、時間の概念を学ぶとき、過去に生まれて、未来のどこかで死ぬと思っていますよね。

死ぬとは未来です。

今生きている人は、誰も死を経験したことがありません。

全く未知のことですから、不安や恐れを抱く訳です。

でも、そのように、過去・現在・未来が直線的につながっているという時間の概念は、あくまで一つの考え方なんです。

仏教は、過去・現在・未来をどう考えているかというと、

「今」

しかないんです。

この実感を大事にするんです。

明日というのは、夢・幻の世界です。

明日になったら、明日の

「今」

なんですよ。

常にあるのは、今ここしかありません。

普段考えている時間の考え方とは少し違いますよね。

仏教では、今ここということを非常に大切にします。

仏教では、それを一刹那といい、分割できる最も小さな時間の単位で表します。

今を感じるのは、とても難しいですね。

今といっても、その瞬間に過去になっていますから。

それは難しいから、1日と考えてみましょう。

これは東京大学名誉教授の養老猛司先生や、国際アンデルセン賞級の賞を受賞した詩人のまど・みちおさんも言っていることです。

今日は8月11日ですね。

8月10日の私は、昨日の夜に死にました。

そして、今日の朝、2012年8月11日を初体験する私はここで生まれたんです。

そして今日の夜また死んでいく。

明日の朝、目が覚めなかったら、それは死んだということです。

ということは、死というものは未来にあると思っていたのが、歳の数だけ生まれては死に、生まれては死にを繰り返していた訳です。

それが、仏さまから見た私たちのあるがままの姿なんです。

私の仏教の先生は、お念仏の生活を

「朝目覚めたとき、今日もいのちを頂けた南無阿弥陀仏、と1日がスタートします。

そして夜休むとき、今日私なりに精一杯生きさせて頂きました南無阿弥陀仏、と休んでいくんですよ。

そして、その間に思い出してお念仏をする。

すると、1日がお念仏に始まり、お念仏で終わると喜べますね。

これが浄土真宗です」

と言われました。

これに養老猛司先生や、まど・みちおさんのお話をくっつけると、朝目が覚めたとき

「今日1日のいのちが頂けた、南無阿弥陀仏」

と生を受け、今日が終わるときに

「1日のいのちを精一杯生きさせて頂きました。

南無阿弥陀仏」

と、死んでいく。

仏教っていうのは、実験なんです。

だから志のある方は、1週間でもいいですので、実験してみてください。

朝起きたときには南無阿弥陀仏のお念仏を。

今日眠るとはきは、ああこれで死ぬんだ南無阿弥陀仏と死んでいく。

明日はないんです。

今日しかない。

焦点は、死ぬ準備ではありません。

今をいかに輝かせるか。

それが仏教の中心課題です。

死の問題が解決されれば安心して今を生きていける訳です。

老病死を避けることで安心する訳ではないんですね。

仏さまにおまかせして、精一杯生きていけば、結果として死も怖くなくなってくるんですよ。

小説 親鸞・乱国篇 第一の声 10月(7)

去りかけるとまた、

「やい、何だわりゃあ?」傀儡師だの、菰僧だのが、立って来そうにしたので、

「へい」吉次は、戻って、

「雨宿りをしていた旅人でございます」

「旅(たび)鴉(がらす)か」

「やみましたから、出かけたいと思いますが、日野の里へは、まだ、だいぶございましょうか」

「日野なら、近いが、日野のどこへ行くのだ」

「藤原(ふじわら)有(のあり)範(のり)様のお館まで、はい、使いに参りますので」

「あ、あのお慈悲深い吉光御前様のお住まいだよ」頓狂な声を出して、女のお菰が立った。

すると、浮浪たちも、にわかに丁寧になって、

「吉光御前様のところへ行かっしゃるなら、誰か、案内してあげやい」

「おらが行こう」竹の棒を持った河童みたいな小僧が、吉次の側へ寄ってきて、

「旅人、案内しよう」

「すまないな」

「なあに、吉光御前様には、おらたち、どれほど救われているかしれないのだ。

あのお館は、そういっちゃ悪いが、落魄れ藤家(とうけ)の、貧乏公家で、ご全盛の平家と違い、築地の崩れも繕えぬくらいだが、それでいて、俺たちが、お台所へ物乞いに行っても、嫌な顔をなされたことはない…」

一人がいうと、女のお菰も、

「冬が来れば、寒かろうとて、わしらばかりでなく、東寺や、八坂の床下に棲む子らにまで、古いお着物は恵んで下さるしの」口をそろえて、その他の浮浪たちもいうのであった。

「化粧(けわい)に浮身をやつすおしゃれ女や、身の安楽ばかり考えている欲ばり女は、お館という厳めしい築地の中にうんといるが、あんなやさしい女性(にょしょう)が、今の世のどこにいるかよ。

――あのお方こそ、ほんとうの観世音菩薩というものだろう」

「そういえば、如意輪観世音がご信仰で、月ごとに、ご参詣に見えておいでだが、この春ごろからお姿を見たことがない。

――もしやお病(いた)褥(つき)ではないかと、わしらは、案じているのじゃ」

鶏の骨をねぶりながら、女のお菰は、そういって、山門の外まで、送ってくる。

吉次は、心のうちで、うれしかった。

その吉光御前というお方こそ、自分が主命をうけて、機会さえあれば世に出そうと苦心している鞍馬の稚児遮那王の従姉にあたる人なのであった。

「水たまりがあるぜ、おじさん」河童は、竹の棒で、真っ暗な地をたたいて、先に歩いていく。

鼻をつままれてもわからない小路の闇に、野良犬が、吠えぬいている。

犬すら、飢えているように、しゃがれた声に聞こえた。

小川がある、土橋を越える。

やや広い草原をよぎると、河童は、竹の先っぽで、

「あそこに大銀杏(おおいちょう)が見えるだろう」と、指していった。

「……あの銀杏のそばの土塀が、正親町様だよ。

藤原有範様のお館は、あそこを曲がると、すぐさ」

「や、ありがと」道をすすんで、二人は目じるしの大銀杏を横に曲がりかけた。

すると河童は、何かに、驚いたように、

「おやっ?」と、立ちすくんでしまった。