投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

携帯電話が急激に普及しはじめた頃、電磁波による健康への影響を心配する声がありまし

携帯電話が急激に普及しはじめた頃、電磁波による健康への影響を心配する声がありました。

ところが、今ではその問題はあまり話題に上がらなくなりました。

そこで、

「技術の進歩によって携帯電話は進化して、今では人体への影響はなくなったのかもしれない」

と思っていたのですが、依然として問題が解決されたわけではないようです。

携帯各社は

「携帯を持ち運ぶときや身体に密着して使う場合、1.5cm以上離す」

と、説明書に記載しているのだそうです。

やはり、電磁波が体に悪影響を与えるという意見が一般的のようです。

国際基準になる世界保健機構(WHO)では、癌との可能性も指摘し、どちらかと言えば慎重な姿勢を示しています。

国によっては、特に抵抗力の弱い子どもたちに携帯の使用制限をもうけている国もあるくらいです。

また、ヨーロッパの各国では、ほぼ共通して

「16歳未満の子どもには使用を禁止すべき」

としています。

ところで、寝るときに携帯電話やスマホはどこに置いてありますか。

もし頭上だとすると、それは

「危険!」

なのだそうです。

その理由は、なんと

「電磁波は頭部に吸収されてしまう」

からです。

長時間、同じ場所で寝ているときに、有害な影響頭部に与え続けられれば、やはり身体に影響がないとは言えないのではないでしょうか。

電磁波の影響は、距離の2乗に反比例して減衰します。

過剰に電磁波を気にする必要はありませんが、やはり寝るときくらいは体から離して寝るようにしたいものです。

さらに、携帯電話を使うときに、体だけでなく肌への影響があることも御存知ですか。

携帯・スマホの液晶モニターは、高輝度化して明るくなっています。

この明るさのもとからは、極微量の紫外線が出ています。

肌の保持ためにも、顔にぴたりと当てて長電話をするのは、避けることが望ましいようです。

電磁波と紫外線は極微量ですから、少し離しただけでかなり影響は少なくなります。

実は、携帯やスマホを使う時に気をつけたいのは、衛生面の問題です。

寝ているときも食事のときも、中にはトイレの中にさえ持っていくことがある携帯電話。

そんな携帯電話は、トイレの便座や靴、ドアノブなどよりも、はるかに多くの細菌が繁殖していると言われます。

もしかすると、汚れを意識していない人は、一度も携帯やスマホの消毒をしたことがないのではありませんか!?

細菌の中には黄色ブドウ球菌が含まれていることもあり、もし体の中に入ると肺炎などを引き起こすこともあると言われます。

対策として行いたいのは、食事のときは携帯電話やスマホはしまうにすることです。

食事をした手で、携帯電話を触ることが、一番細菌が増殖する原因になるからです。

そして、抗菌作用のある濡れティッシュなどで、出来れば週に1回程度は液晶画面を拭くようにしましょう。

今や、台数的に国民の1人に1台といったほど普及し、私たちの生活にはなくてはならないものとなっている感のある携帯電話ですが、意外と見落とされている事実があるものです。

“枕元に置いて寝る”“顔にぴったり当てて長電話”“食事中の使用”とりあえず、この3つは今日からでも避けるようにした方が良さそうですね。

『どんなところにも生かされていく道はある』

鹿児島には、県外から多くの観光客が来られます。

また、桜島と鹿児島を結ぶフェリーの中では、日本語に続いて英語・中国語・韓国語のアナウンスが流れますので、おそらく外国からも雄大な桜島を目当てに、多くの方が観光に来ておられるのだと思われます。

私は、桜島の溶岩道路を走行している時、いつも見慣れているせいか、桜島を見ても特に感慨を覚えることはないのですが、私の車に同乗しておられる県外から来られた方は、その雄姿に感動の言葉を口にされます。

一方、私も旅行や出張などで見知らぬ土地に出かけた時、初めて見るその地の建物や風景の素晴らしさに感動したりすることがあります。

けれども、そこに住んでおられる方は、毎日私と同じ思いに浸っておられるかというと、おそらく私が桜島見るような感覚でいらっしゃるのではないかと想像することです。

このことから、同じ光景であっても、見る人によって目に映る様は全く違う気がします。

源信僧都の『往生要集』の中に

「苦といい楽といい、ともに流転を出でず」

という言葉があります。

流転ということは、言い換えると、自分を忘れる、自分を見失うということです。

私たちは、苦しい状態あっても愚痴を言うという形で自分を失っています。

それと同時に、楽しい状態にあっても、その楽しみに中に自分を忘れて、空しく日々を過ごしてしまうということがあります。

そこに、苦しみといい楽しみといい、いずれにしてもそういう自分を忘れたあり方というものを出ていないのが、私たちの姿だといわれるのです。

また、苦というのは

「自情に逼迫(ひっぱく)している状態」

であると言われます。

私の感情、気持ちにとって、今の私の状況が胸苦しく圧迫してくる、そういう状態として受け止められるという時が苦です。

それに対して、楽というのは

「自情に適悦」

というあり方、自分の情に合致しているというあり方です。

この場合

「自情に」

ということが要点です。

それは、苦というのは

「私にとって苦しい状況」

だということです。

決して、世の中に苦しい世界というものがあるのではありません。

事実は、ひとつの世界を私は苦しいものとして生きているということがあるだけなのです。

したがって、同じような状態であっても、他の人は生きがいのある世界として生きているということもあり、また私自身にあっても、今まで苦しみしか感じなかったその世界が、今は楽しい世界だと感じられるようになるということもあります。

そうすると、同じような環境であっても、そこに大きな問題を荷なって、生きがいをもって生きている人もあれば、反対にただ愚痴ばかりをこぼして世の中を呪っている人もいたりします。

このように、私の

「自情」

をはなれて、外側に苦しい世界とか楽しい世界が色わけされて存在しているのではありません。

ただ、自らに与えられている状況を、私は自分の思いによって苦しいもの、あるいは楽しいものとして受け取り、生きている事実があるということがあるだけなのです。

このように、苦楽ともにそれによって自分を見失っていくのがこの私たちの迷いの世界です。

一方、苦といい楽といい、そのいずれをもあるがままに受け止めていける世界を極楽(浄土)といいます。

苦楽いずれにあっても、そのことによって、自分というものを本当に受け止め、自分というものを本当に生きていける。

そういう世界を見出して行くあり方を、親鸞聖人は

「浄土真宗」

と教えてくださったのだと言えます。

したがって、そのみ教えに生きる人は、どんなところにも生かされていく道はあるのだということを実感し、体現してくださるように思われます。

「教行信証」の行と信(10月中期)

このことは、親鸞聖人が獲信することによって、往相の真実と還相の真実が、聖人ご自身の中で明らかになったということを意味しています。

往相と還相の真実が、親鸞聖人の中で明らかになった。

それ故に、今問題なのはどこまでも往相の念仏の行者ということになるのですが、ただしこの者に還相の真実も同時に明らかになったということは、浄土に生まれた衆生が浄土で何をなすかが明らかになったということです。

つまり、浄土での自分の姿が見えることになるのです。

浄土に生まれた瞬間、阿弥陀仏によって誓われた第二十二願の本願の力によって、浄土に生まれた者は、その瞬間に再びこの穢土に還って来ることを明らかに知ります。

しかも、再びこちらに還ってきた還相の菩薩が、この世で何をするのかということも知るのです。

還相の菩薩がこの世ですることは、ただ一つです。

それは、五念門を行じることです。

還相の菩薩が、この世で五念門行を成すのです。

五念門行とは

「礼拝、讃歎、作願、観察、廻向」

の五つですが、今はその廻向の実践の中にあるのですから、廻向行の中で同時に礼拝、讃歎、作願、観察の実践行が行われることになります。

もちろん、還相の菩薩自身が自分のために礼拝、讃歎、作願、観察の行をする必要はありません。

では、この五念門行とはいったい何なのでしょうか。

自分のための行でないとすれば、それはまさにこの五念門行は

「他の衆生のために」

ということになります。

浄土に生まれた還相の菩薩は、この世に還り来たってまず有縁の人の心に入り、礼拝、讃歎、作願、観察をなさっていることになるのです。

そうだとしますと、今度は現実に生きているこの私の問題になるのですが、その還相の菩薩の廻向行が、今まさに自分の心身に満ち満ちていることになります。

還相の菩薩の功徳が、私の体の中に満ち満ちているのです。

私が手を合わせる時、それは還相の菩薩が私と共に手を合わせて下さっていることを意味します。

私が念仏を称える時、還相の菩薩が私をして念仏を称えさせて下さっているのです。

私が、浄土について考える場合も同様です。

還相の菩薩が、私に阿弥陀仏の心を作願せしめているのです。

なぜ、愚かな凡夫である私に、阿弥陀仏を思う心が生じるのでしょうか。

それは、ひとえに還相の菩薩の種々の方便によって、私の心に阿弥陀仏を念ずる心が生じるからだと言えます。

このように、私の念仏の全体を還相の菩薩がせしめている利他行だと信知する心が、ここに生じることになるのです。

このように見ますと、浄土教の教えをより身近に感じることが出来るようになるのではないでしょうか。

私たちは、阿弥陀仏によって救われると教えられています。

けれども、阿弥陀仏はやはり、私にとっては遥か彼方にまします存在でしかありません。

十刧の昔に法蔵菩薩が阿弥陀仏になり、その南無阿弥陀仏によって救われるから有り難いと言われますが、実際に有り難いと実感するのは至難のことです。

それは、誰も阿弥陀仏を知り得ないからです。

「だからこそ、釈尊がお生まれになったのだ」

と言われますが、その釈尊もまた二千五百年も前にお生まれになられた方です。

したがって、釈尊と私の関係もまた、遥かに遠いといわなければなりません。

「現代日本の医療文化と仏教文化」(中旬)仏教は老病死を超える

じゃあ、そこで仏教がどういうふうに老病死を解決できるのかというと、浄土真宗において

「死」

とは、お念仏を通して超えてすけるものであり、恐れるものではないと言われています。

しかし、そういう文化がないところでは、死が非常に不安なんです。

五木寛之さんは自身の著書『うらやましい死にかた』に、石川県金沢市に住む60歳の男性が投書した事例を挙げています。

内容は次のようなものです。

「曾祖母よみは文久3(1863)年生まれ。

昭和28年に死んだ。

享年90。村の最高齢者であった。

よみが死んだとき、私は高校2年生だった。

あの晩は、能登の春にしては暖かかった。

よみが隣の部屋にいる私を呼んでいるのに気づいたのは10時頃であったか。

よみは“今夜は間違いなく浄土に参らせてもらうよ”と言った。

息をついで、年長である私が、妹3人の手本となるように、貧乏にひがむことのないように父母を大切にするようにと、珍しく教訓めいたことを語り出し、日頃とは違う物言いに驚いている私に

“死ぬということは、少しも特別なことではないがやぞ。

人は阿弥陀さんのところから来てまた阿弥陀さんのところへ帰る。

浄土ではみんな一緒になれるがや”

と、諭すように、ゆっくり話す。

しばらくして、よみは母を呼べと言う。

ワラ布団に半ば身を起こして、母の手を両手で包んだ。

“そろそろ浄土へ参らせてもらう。

あねさんに一言礼が言いたくて。

あねさおはおらの子ではない。

孫でもない。

孫の嫁や。

それなのにこの婆をよく世話してくれた。

本当に大事にしてくれた。

有り難いこと。

有り難いこと。”

よみは繰り返す。

母もよみの耳元に口を近づけて、重ね重ねよみに感謝の言葉をのべている。

よみと母と、後で入ってきた父と3人がいつしか念仏を称えていた。

よみの念仏がやみ、深い息をした時、

「婆さまが参られたぞ。仏壇に燈明をあげよう」

と父の声。

わたしたちも父に従い、深夜の勤行が始まった。

父は現在87歳。

よみのような死を迎えられればと、そんな私の思いは父に通じると思う」

これがね、うらやましい死に方の1番に出ているんですよ。

そこには、往生浄土、何の心配もないんだという世界があります。

浄土真宗では、

「念仏する者を必ず浄土に迎えとるぞ」

という阿弥陀さまの願いを受けとることで、老病死を超えて行くことができるんです。

小説 親鸞・乱国篇 第一の声 10月(4)

 文覚は、まだ十九の頃に、若い髻(もとどり)を切って、大峰、葛城(かつらぎ)、粉河(こかわ)、戸隠(とがくし)、羽黒、そしてまた那智(なち)の千日籠もりと、諸山の荒行を踏んできた。

 その昔の遠藤武者盛遠が成れの果てであった。

 どこかに、面影がある。

 

いや、ありすぎる――と旅商人の堀井弥太は、そう重いながら、彼の磊落(らいらく)な話しぶりに、誘いこまれて、腹をかかえた。

「はははは。

――道理で、疱瘡(ほうそう)神(かみ)のように、顔も頭も、腫れておる」

「まだ、いたい」

「懲りたがよい」

「何の、懲りる男じゃない」

「法衣はきても相変わらずの武者魂、それでこそ、生きている人間らしい」

「生まれ変わってこぬうちは、その魂というやつ、氷の上に座らせても、滝に打たせても、たやすくは、変わらぬものじゃて」

「わけて弓矢なきたえられた根性は。

――したが一別以来、お互いに、変わらぬ身こそ、まずめでたい」

「いや、おぬしの身なりは、ひどう変わっておるぞよ。

初めは、誰かと見間違えた」

「これは砂金売りの旅商人、よも、侍と見るものはあるまい」

「陸奥(むつの)守(かみ)藤原(ふじわらの)秀衡(ひでひら)が身うち、堀井弥太ともある者が、いつの間にか、落ちぶれて、砂金商人にはなりつるか、やはりおぬしも、無常の木々の葉――。

梢から、何かの風に誘われたな」

「何の」と、弥太は手を振った。

「これは、世をしのぶ、仮の姿じゃ」

「さとて、都へ、密使にでも来たという筋合いか」

「ま、そんなもの」

「俺の身の上ばかり糺(ただ)さいで、その後のおぬしの消息、さ、聞こう。

――それとも、旧友文覚にも、洩らせぬほどの大事か」

「ちと、言い難い」

「では聞くまい」

「怒ったか」

「ム、怒った」文覚は、わざと、むっとして見せたが、すぐ白い歯をむき出して、

「そう言わずと、話せ。

法衣は着ても、性根は遠藤盛遠、決して、他言はせぬ」

「……………」弥太は、立って、堤のあなたこなたを、見まわしていた。

頭に物を乗せた大原女(おおはらめ)が通る。

河原の瀬を、市女笠の女が、女の使(わ)童(らべ)に、何やら持たせて、濡れた草履で、舎人町(とねりまち)の方へ、上がってゆく。

ほかには、蝉の音と、水のせせらぎと、そして白い水鳥の影が、けだるく、淀に居眠っているだけである。

「盛遠」座り直すと、

「わしの名は、文覚。

盛遠は、十年も前に捨てた名前、文覚と呼んでくれい」

「つい、口癖が出てならぬ。

ならばついでに、俺の変名(かえな)も、覚えておいてもらおうか」

「ほ、名前を変えたか」

「旅商人が、堀井弥太では、おかしかろう。

――一年に一度ずつ、都へ顧客(とくい)廻りに来る、奥州者の砂金売り吉次とは、実は、この弥太の、ふたつ名前だ」

「え、吉次」

「そう聞いたら、何か、思いだしはせぬか」

「思いだした。

……おぬし、鞍馬寺の遮那(しゃな)王(おう)様へ、密かに、近づいているな」

小説 親鸞・乱国篇 第一の声 10月(3)

「盛遠殿」旅商人はまた、辻の柳の樹の蔭から声をかけて、

「もう誰も、お身のまわりに聞いている者はいないぞ。

――盛遠殿」文覚は、はっと、勧進の文から顔を話して、いつのまにか、犬もいない当たりの空地に、舌うちをした。

そして、腹だたしげに、

「やんぬるかな!」とつぶやいて、勧進の文をぐるぐると巻き、ふところに突っ込んで、歩みかけた。

すると、日除(ひよけ)傘(がさ)で顔を縛った旅人は、ついと、彼のそばへ寄ってきて、文覚の肩をたたいた。

文覚は、じろりと眼を向けて、

「おう。

堀井(ほりい)弥(や)太(た)か」始めて、驚いたらしい顔をして手をのばした。

弥太と呼ばれた旅の男は、なつかしげに、路傍へわかれた。

さっきの赤直垂の小僧が、ちんと、手(て)洟(ばな)をかみながら、二人のあいだを、威張って通って行った。

そして、小馬鹿にしたような眼を振り向けて、ヘヘラ笑いを投げた。

旅商人は、その眼へ、わざと見せるように、ふところ紙を出して、銭をつつんでいた。

そして、文覚の手へ、

「御寄進――」といって、渡した。

「や」文覚は、真面目に受けとって、押しいただいた。

「一枚半銭のご奉加も、今の文覚にはかたじけない、路傍にさけんでも、人は、耳をかさず、院の御所へ、合力とて願いに参れば、犬でも来たかのように、つまみ出される…」

旅商人の堀井弥太は、先へ、足を早めながら、

「碩(かわら)へ」と、顎をしゃくって、見せた。

頷きながら、文覚は、てくてくと後からついてゆく。

牛の糞(ふん)と、白い土が、ぽくぽくと乾いて、足の裏を焼くような、京の大路であった。

だが、加茂の堤に出ると、咸(かん)陽宮(ようきゅう)の唐画にでもありそうな柳樹の並木に、清冽な水がながめられて、冷やりと、顔へ、濡れ紙のような風があたる。

「ここらでよかろう」二人は土手に座った。

汗くさい文覚の破れ衣に、女郎花(おみなえし)の黄色い穂がしなだれる。

「しばらくだなあ」弥太がいうと、

「無事か」と、文覚もいう。

「いや、俗身はそこもとのように、なかなか無事ではない」

「俺とても、同じことだ」からからと、文覚は、笑って、

「聞かぬか、近頃の噂を」

「今日、都みやこへついたばかり。

何のうわさも聞いておらぬ」

「そうか。

…実は、神護建立の勧進のため、院の御所へ踏み行って、おりから、琵琶や朗詠に酒宴をしていた大臣(おとど)どもに、下々の困苦の呪い、迷路の呻きなど、世の実相(さま)を、一席講じて、この呆痴(たわけ)輩(ばら)と一喝したところ、武者所の侍どもに、襟がみ取って抛(ほう)り出され、それ、その時の傷や瘤(こぶ)が、まだこの顔から消えておるまいが…」イガ栗の頭を撫でて、笑いながら示すのだった。

顔の凸凹に腫れあがっているのも、その時の棒傷であったらしい。

※「咸陽宮」=中国・秦の始皇帝が、首都咸陽に建設した宮殿