投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『お盆いのちの絆を思う』

ある日、お参り先で一冊の本をいただきました。

手にした途端、私の目に飛び込んできたのは、真白な表紙に墨字で書かれた

「あなたへ」

の文字。

医師であったご主人が、自らの闘病を日記形式で綴られたその本の巻頭には、亡きご主人へのメッセージが添えられていました。

まず、そのメッセージをご紹介します。

「もしも、誰かが私の願いを叶えてくれるなら、私はあなたに携帯電話を届けて欲しい。

そしてもう苦しくないですか?…って聞くのです。

そして次は、あなたはよく頑張ったわね。

でも、あなたのことをわかってあげられなくて、ごめんなさい。

私はあなたの辛さをわかっていたつもりだったけれど、本当は何もわかっていなかったと、今思います。

ごめんなさい。

頑張って、頑張って生きてねという代わりに、辛いね、辛いねと言ってあなたを抱きしめてあげればよかった。

ただされだけでよかったのですよね。

いつもそばにいたのに、どうして分からなかったのでしょう。

本当にごめんなさい…」

仏さまのお心は、一切を否定しないで、全てをありのままに受け入れる心であると言われます。

「あなたはあなたのままで、そのままでいいよ。

頑張らなくてもいいよ」

と、いつでもどこでも私の中で、終始より添っていて下さるのが南無阿弥陀仏の仏さまのお心です。

時には、

「頑張れ」

の励ましの言葉も必要かもしれません。

でも

「つらいね」

「悲しいね」

「しんどいね」

と、ありのまま共感してもらえる世界があることに、

「いのちの絆」

を知らされたことです。

「教行信証」の行と信(8月後期)

5.「行巻」の流れ

ここで、しばらく

「行巻」

の流れを見てみます。

「行巻」

の冒頭は、

「出体釈」

と呼ばれている部分で、親鸞聖人の言葉から始まります。

そして次に大経引文があり

「称名破満釈」

に続きます。

ここで釈尊の説法が結ばれる訳で、称名は南無阿弥陀仏のはたらきですから、必ず一切の無明の破られることが明かされます。

そしてこれから後に、七高僧(龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空)の言葉が引用されるのです。

ところで、この七高僧の引用文で、親鸞聖人は何を問題にしておられるのでしょうか。

一般的に仏道で行と言えば、仏になるために行ずべき行法が説かれるはずです。

ところが、龍樹引文を見ますと、この引文には龍樹菩薩自身、どのように行をはげみ、信を得たかということについては一言も書かれていません。

それは、天親引文でも同じなのです。

七祖引文では、七祖がいかに行に励み信を得たかということについては、一言も説かれていないのです。

私たちが、常識的な立場から

「行巻」

の行というものを考えますと、どうしても私が仏になるための

「行」

ととらえてしまうのではないでしょうか。

どのように一心にその行を行ずべきかと、まず考えてしまいます。

ところが

「教行信証」の

「行巻」

では、そのような行については一言も説かれていないのです。

では、どのような行が説かれているのでしょうか。

龍樹引文では、一切の諸仏が阿弥陀仏の本願を讃嘆していることが示されます。

なぜ諸仏は阿弥陀仏を讃嘆するのでしょうか。

それは、阿弥陀仏の本願が最高だからです。

そこで、龍樹菩薩もまたその釈尊の教えを承けて、阿弥陀仏の本願を讃嘆されるのです。

天親引文も同じです。

天親菩薩は、龍樹菩薩の教えを承けて阿弥陀仏の本願を観察されるのですが、その本願こそが一切の衆生を救うのだと讃えておられます。

このように見ますと、龍樹菩薩も天親菩薩も、いかに行じて信を得、浄土に生まれたかという行を

「行巻」

で述べておられるのではなく、すでに信を得ておられる龍樹菩薩と天親菩薩が、未信の衆生に本願の素晴らしさを説いておられることになります。

このことは曇鸞引文も同じです。

天親菩薩の教えを承けられて、天親菩薩によって明らかにされた阿弥陀仏の教えを、今度は凡夫の立場からよろこび説いておられるのです。

したがって、

「行巻」

の行は、未信の衆生がいかに念仏して信を得るかを問題にしているのではないのだと言えます。

「行巻」

では、未信のものの修すべき行については、一言も書かれてはいません。

諸仏と既に獲信した念仏者の、未信の衆生に対する名号の讃嘆が明かされているばかりです。

それは、名号の伝達を意味します。

七高僧は、いずれも釈尊が説かれた阿弥陀仏の法に信順しておられます。

その阿弥陀仏の法は、釈尊の心を通して、初めて私たち人間界に出現しました。

そして、釈尊から龍樹菩薩へ、龍樹菩薩から天親菩薩へ、天親菩薩から曇鸞大師へと、名号の真実が誤りなく親鸞聖人に伝わっていったということを

「行巻」

は示しているのです。

そうしますと、

「行巻」

の行は、諸仏とすでに信を獲た人が阿弥陀仏を讃嘆するという

「行為」

が説かれていることになります。

そして、その行為を通して、選択本願の行としての名号のはたらきが明かされているのです。

したがって、

「行巻」

の一つの中心は阿弥陀仏の法の伝達にあり、いま一つの中心は、その阿弥陀仏によって選択された名号とは何かを示しているのだといえます。

「行巻」

の標題の註には

「浄土真実の行」

「選択本願の行」

と書かれていますが、

「浄土真実の行」

とは、衆生を往生せしめる名号の説法になり、

「選択本願の行」

とは、説法によって明かされた名号を指しているのだと言えます。

このように見ますと、七祖引文の前半は、名号の讃嘆が中心になり、善導引文でこれが二つに分かれます。

善導大師の引文では、名号とは何かが問われ、その名号についての親鸞聖人の解釈が示されることになるからです。

そして、それに続くご自釈、両重因縁釈から行一念釈、他力釈、一乗海釈で名号の功徳が説かれるのです。

一応

「行巻」

の構造は、このようにとらえることができます。

「相撲界に入ってから今まで」(下旬)この世界に入ってよかったと思うこと

僕は、中学の時に柔道をやっていましたが、柔道と相撲とでは緊張感が全然違うんですね。

技ありを取られても一本を取れば勝ちになる柔道とは違って、相撲の場合はちょっとでも土俵に手をついたり、足がかえったりしたら、もうその時点で負けになります。

だから、一生懸命稽古して本場所を迎えても、立ち会いで変わられてすぐ負ける相撲もあります。

これは、負けた本人としてもう最悪で、相手に対して

「この野郎、お前こんな相撲はないだろう」

という気持ちでいっぱいなんですよ。

勝ちたいという気持ちが強いからこそ、ぶつかり合いをよけるような相撲を取るんですけども、負け方としてはあんな悔しい負け方はないですね。

でも、そういう楽をして勝つ相撲は長く続くものじゃないです。

僕の場合は、前に出る相撲しか教わってないですから、立ち会いから変化する相撲は、相撲を取った20年間で1回もありません。

これだけは自信を持って言えることです。

むしろそういう器用なことは出来ません。

前に押して出るか、はたくかですよ。

はたくといっても、実は技術がいります。

中途半端にしたら自滅してしまいます。

簡単に見えるけど、簡単じゃありません。

単純なスポーツほど奥が深いといいますが、その通りです。

取れば取るほど、覚えれば覚えるほど、

「ああ、難しいな」

というのが分かるんです。

相撲は、サボろうとすればサボれるから、個人の気持ち次第、とにかく自分で気持ちを込めてやるしかありません。

この世界に入って良かったと思うことがあります。

先ず、ちゃんとした挨拶が出来るようになったこと。

それから、根性がついたこと。

度胸がついたこと。

あとは、辛抱強くなりました。

15歳から今まで、本当に鍛えられてきました。

たとえ強くなれなかったとしても、これを教えて頂けただけでも意味があると思います。

途中で辞めていった人も

「相撲の土俵の緊張と比べたら、ぶつかり稽古の苦しさに比べたら、他の仕事なんてたいしたことない」

と、みんな同じように言います。

そういう気持ちで、第二の人生を頑張っています。

入門者の中には、挨拶も返事もまともに出来なかったり、人とまともに目を合わせてしゃべれない子もいます。

でも、この部屋に1年間入れば全部できるようになるんですよ。

挨拶も会話も、日に日によくなります。

これは、その子にとっても非常に良いことだと言えるでしょう。

親御さんも同じことをおっしゃっておられました。

だから、何でも厳しく教えるのは大事なことだと思います。

女性に宝塚があるように、男性に相撲界がある。

そんなふうに、他の社会と違う世界があってもいいじゃないですか。

だから、これからもいい相撲を取るために、もっと相撲界を引き締めててかないといけないなと思います。

以上が、僕が相撲界に入って経験したことです。

「SNS」

「SNS」

(=ソーシャルネットワーキング・サービス)というのは、人と人との現実の関係をインターネットを使って補助するコミュニケーションサービスで、代表的なものとしては日本最大の会員数を持つmixi(ミクシィ)、海外では世界最大の会員数を持つFacebook(フェイスブック)などがあり、会員しか読み書きできないブログや掲示板のサービスだと考えてもよいかもしれません。

これまでのコミュニティ・サービスがどちらかといえば参加者の匿名性を重視してきたのに対し、ソーシャルネットワークでは参加者個人を明確にしたうえで、コミュニケーションが行われます。

厳密な定義は存在しませんが、参加するためには会員からの紹介が必要です。

また、実名で参加、質を保つために会員ルールがやや厳しい、などの特徴をもつサービスが多いようです。

その中で、近年特に会員を増大させているのがフェイスブックです。

このフェイスブックが、今年新規株式の公開を行ったのですが、その後ある会社を買収しました。

それは、フェイス・ドットコム(以下フェイス)です。

これはどのような会社かというと、2007年に創業された『顔面認識技術』を持つイスラエルの新興企業です。

実は、この会社はすでに数年にわたってフェイスブック用にアプリを提供してきていたのですが、株式の公開を契機として買収したのです。

フェイスが現在提供しているサービスは、次の3つです。

1つめは、KLIK(クリック)。

これは、写真を撮る際にフェイスブックの友達の顔を認識して、名前を出してくれるものです。

写真をアップロードすれば、そのままタグになります。

2つめは、PhotoTagger(フォト・タガー)。

写真アルバムの中から友達を見つけ出してタグ付けするものです。

3つめは、PhotoFinder(フォト・ファインダー)。

タグが付いていない写真をフェイスブックの中から探し出して、自分や友達を見つけてくれるものです。

フェイスブックの中の写真にタグがたくさんつけば、フェイスブックのユーザーだけでなく、フェイスブックにとってもいいことばかりです。

これにより、人々がますます縦横につながり合うので、フェイスブックの利用度が高まり、また何らかのブランドが広告を出せばその口コミ度も大きく広がっていきます。

この顔面認識技術は、グーグルやアップルも導入していますが、今回フェイスブックは、その技術を自ら手にしました。

フェイスブックは今や

「人間データベース」

化しているかの感がありますから、それが顔面認識技術と合体すればいったいどういうことがおこるのでしょうか。

もっとも簡単に予想されるのは、スマートフォンを使って街角で見知らぬ人の写真を撮れば、またたく間にその人物の名前や素性、友達が明らかになってしまうということです。

しかも

「撮られている本人は、そんなことをまったく知らないままに!」

です。

これは、何とも恐ろしいような気がします。

折しも、フェイスブックは今、ユーザーに実名を使用するように強く働きかけているといわれます。

そうすると、写真だけで実名もフェイスブックのページも呼び出されてしまうということになります。

これまで私たちは、公衆の中では

「アノニマス(匿名)」

の存在でいられると思っていたのに、この技術によってそんな権利もなくなってしまうという訳です。

いまのところ、フェイスのアプリは

「自分や友達の写真に使えるだけで、知らない人の写真には使えない」

としています。

とはいっても、この場合の

「使える」と

「使えない」

の差は紙一重でしかないように思われます。

市販されている映画等のディスク映像はコピーガードによって

「守られている」

はずなのですが、海賊版が横行していることは周知の事実だからです。

そうすると、今後電車やレストランの中で、あるいは街角や雑踏の中で、気付かない内に誰かがこっそりとあなたのことを知り始めている…ということが起こるかもしれません。

もちろん、これにはプライバシー擁護派からの大きな反対が出ることが予想されます。

しかし、なし崩し的にこうした使い方がされる可能性は、残念ながら小さくないように思われます。

フェイスブックによるフェイスの買収は、こういった問題を引き起こす可能性を懸念させます。

一面では、犯罪阻止や犯人の早期特定に大きな効果を発揮することも期待できますが、犯罪とは無縁の多くの人々にとっては、むしろ何かに悪用されるのではないかと…と、漠然とした気味の悪い動きとも感じられることです。

『お盆いのちの絆を思う』

お釈迦さまのご生涯を窺いますと、大切な出来事はいつも

「樹」

によって彩られているような感じがします。

伝記によれば、誕生されたのはカピラ城郊外のルンビニー園の無憂樹の下です。

そして、悟りを開かれたのはガヤー村の菩提樹の下。

亡くなられたのは、クシナガラ郊外の林の中の沙羅双樹のもとです。

このように、生涯の要とも言えるところは、全て

「樹」

で語られています。

考えてみますと、樹は

「いのち」

を最もよく象徴しているものだと言えます。

なぜなら、樹は育って行く過程において自らが育つだけでなく、そのあらゆる部分において、具体的には根においても幹においても枝葉においても、いろいろないのちを養い、あるいはいのちを住まわせています。

まさに、一本の樹という世界、その場所に多くの

「いのち」

が集い、共に生きることが出来ています。

そうすると、たとえ一本の樹であっても、それはその世界の全体をいのちとして生きているということを象っているのが、

「樹」

なのだと言えます。

「倒木更新」

という言葉を本で読んだことがあります。

北海道の蝦夷松は、毎年たくさんの実を地面にまきます。

そして、春になると大地から多くの芽が顔を出してきます。

けれども、北海道の自然はことのほか厳しいので、大きく育っていくことが出来るのはその内のほんの少しで、大半は途中で枯れていってしまうのだそうです。

ところが、寿命が尽きて倒れてしまい、それから年月が経って、やがて腐食してその表皮に苔が生えているような樹の上に落ちた種は、その倒れた樹に守られて根を下ろし、樹の腐った内部のところから栄養をもらいながら育っていくのだそうです。

そのようにして成長した樹は、その一本の倒れた樹の長さにわたって、同じ高さで若い樹が整然と一列に並んで育っているので、誰が見てもそれだと分かるとのことです。

寿命が尽きて倒れて、そして大地に還っていく樹のぬくもり、樹のいろいろな力を受け取って、新しい芽が育っていく。

そして、育った樹が次第に大きく育っていくと、今度はその倒木を大きく育った樹の根がしっかりと、言うならば抱き抱えるようにして伸びてゆくのだそうです。

ですから、どれだけ成長していっても、元に倒れていたその樹は、ずっとそこに抱えられて、共に生き続けて行くという姿をしていると言われます。

もしかすると、私達が生きているということも、やはり

「倒木更新」

と同じなのではないでしょうか。

私たちは、決して自分一人の力で大きくなれた訳ではありませんし、生きて行ける訳でもありません。

実にたくさんの亡くなっていかれた方々の存在やいのちに守られて、私達は今日ここまで何とか生きてきたのです。

にもかかわらず、私達はともすれば、まるで自分だけの力で成長を遂げたかのように錯覚していることがあったりします。

そのような私達に、いのちの厳粛さと、いのちの限りない営みの長さ深さというものを、

「樹」

は教えくれているように思われます。

言うならば、いのちの世界を丸ごと生きる、いのちを自分の思いで切り取って、自分の思いのところで生きるのではなくて、いのちをいのちの世界のあらゆるつながり、あらゆる広がりのままにこの身いっぱいに頂いて生きて行く。

そこに、自分を生きていくことが、一歩一歩において、私を生かしてくださっている世界や歴史に出会い直していくという歩み、すなわち

「知恩」

のいとなみがあるということが、窺い知られます。

お盆には、多くの方が、直接存じ上げている方ばかりでなく、先祖の方々にも心を寄せていかれます。

そのため、殊にお盆には、仏前に座り手を合わせて

「南無阿弥陀仏」

と念仏を称えると、そこに亡き方も先祖の方々も、こうして同じく

「南無阿弥陀仏」

と念仏申されていたことが偲ばれるのではないでしょうか。

私は、倒れた木が自らの全てを捧げて新しい樹のいのちを育み、一方新しい樹は成長するにしたがって倒木を包み込むようにして共に生きていく、

「倒木更新」

といわれる光景が、今こうして有縁の方々とお念仏のみ教えによって結ばれていることと重なるような気が致します。

私を育み、尊いお念仏のみ教えに私を結びつけてくださった有縁の方々とのいのちの絆を喜び、そのご恩に少しでも報いることが出来るような私になれたらと思うことです。

「教行信証」の行と信(8月中期)

ところでもし、この説法と聞法の内容が違っているとすると、矛盾をきたしてしまうことになりますので、この説法と聞法の内容は全く同じだととらえる必要があります。

諸仏は阿弥陀仏の第十八願の真実を説法し、衆生はその第十八願の真実を聞法するのです。

また、釈尊と私の関係は、釈尊が私に第十八願の真実を説法され、私は第十八願の真実を聞法しているのです。

このように、説法と聞法の内容は同じなのですが、一方は説法し、他方は聴聞するのですから、その立場は逆になります。

『教行信証』においては、説法の内容を語っているのが

「行巻」

であり、聞法の内実を説いているのが

「信巻」です。

ただし

「行巻」も

「信巻」も

共に阿弥陀仏の救いの法を論じていますので、どちらも第十八願と重なるのですが、

「行巻」

においては釈尊が弥陀の名号を説くということで、親鸞聖人はこの行こそが

「浄土真実の行、選択本願の行」

であると、とらえられるのです。

末法の世において、もし真実の仏道があるとすれば、それは

「南無阿弥陀仏を称えて、この浄土の真実を語る」

という、この行為のみが、私たち凡夫の唯一の真実の行ということになります。

そこで、この

「浄土真実の行」

を、釈尊は出世本懐の教法として私たちに教えられたのです。

その教えの中心が南無阿弥陀仏の名号です。

南無阿弥陀仏が、一切の衆生を救う行として阿弥陀仏によって選択され、その名号の法が釈尊によって伝えられているのですが、南無阿弥陀仏という名号の立場からすれば、これが

「選択本願の行」

ということになります。

これに対して、

「信巻」

では正定聚の機が問題になります。

正定聚の機とは、正しく往生が定まった衆生ということです。

往生が定まった衆生とは、未信の衆生が弥陀の教えを聴聞して獲信することを意味します。

したがって、阿弥陀仏の大悲と、それを獲得する衆生の心の関係が

「信巻」

では明かされることになります。

では

「行巻」と

「信巻」では、

どういうことが起こっているのでしょうか。

「行巻」と

「信巻」は、

どちらも阿弥陀仏が衆生を救うというはたらきを示していますから、その内容は全く同じです。

ただし、

「行巻」

で語られている機と

「信巻」

で問題になっている機は全く別です。

「行巻」

では諸仏の行いが中心に述べられています。

それに対して

「信巻」

では、未信の衆生がいかにして獲信するかということが中心課題です。

したがって、

「信巻」と

「行巻」とでは

違う人間の姿が示されていると言えます。

ここでは、この点を特に注意してみたいと思います。

なぜなら、今までの宗学はこの点が全く曖昧で、行信不離の立場から、

「行巻」と

「信巻」の

行信を同一人の立場で捉えています。

そのため、既に信を獲ている念仏者と未だ信を獲ていない衆生の問題が未分化のままなのです。

このことが、西本願寺の宗学において、行信論を煩瑣にしている決定的要因となっているのだといえます。