投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『苦労が多いことと不幸だということは違う』

『苦労』

とは、辞書によれば

「精神的・肉体的に力を尽くし、苦しい思いをすること」

と説明されています。

一般に、好んで苦労をしたい、あるいは多くの苦労を味わいたいという方は、なかなかいらっしゃらないのではないでしょうか。

時に、

「苦労が多いことは不幸なことである」

というように考えている方が少なからずいらっしゃるようです。

たしかに、苦労ばかりしていると、

「なんで自分ばかりがこんなに大変なんだ」

とか、

「もっと楽な状態でいたい(なりたい)」

という気持ちになることがあります。

そして、そのような状態が続くと、あたかも

「自分の人生は苦労ばかりで、不幸な状態なのでは…」

と錯覚してしまうことがあります。

もしかすると、私たちはいつのまにか、

「自分の思い通りにならず苦労することは不幸なことであり、自分の思い通りになり苦労しないことが幸福なことである」

というように考えてしまっているのではないでしょうか。

仏教を説かれたお釈迦さまは、

「この世の中は自分の思い通りにならないことで満ち満ちている」

と教えて下さいました。

しかし、

『苦しいことは不幸なことだ』

とか、

『苦労が多いことは不幸なことだ』

とは、

どこにも説いてはおられません。

したがって、苦労が絶えなかったり、世の中のことが自分の思い通りにならなかったりすると、

「自分は不幸な人生を生きている」

と考えてしまうことは、私たちの思い違いだといわなくてはなりません。

そういえば

『若い時の苦労は、買ってでもせよ』

という言葉を耳にすることがあります。

これは

「若い時の苦労は、その体験が将来役に立つから、自分から買ってでも苦労をしなさい」

という意味です。

ですから、今あなたが大きな苦労に直面して、

「こんな大変なことなんかしたくない」

と思っても、そこで逃げ出さず踏みとどまって取り組めば、そのことが後になってみると、あなたの大切な財産として身を助けることがあったりするものです。

あるいは、その時には無駄なことだったと思ったとしても、本当にそうだったのかどうかは、人生の終わる時にしかわからないものです。

けれども、この言葉が私たちに語りかけているのは、きっと

「人生には無駄なことはひともない」

ということではないでしょうか。

例えば、風邪などの病気(苦労)を通して、改めて健康のありがたさに気付くことができます。

また、誰かとケンカをして自分が辛い目にあったりすることで、はじめて相手を思いやることの大切さを身をもって感じたりすることもあります。

そういった様々な苦労を通して、私たちは本当の自分の

『いのち』

の姿を感じていくことができるのではないでしょうか。

苦労を通して学び感じたことを大切にしながら、

『いのち』

という大きな花を咲かせていきたいものですね。

「教行信証」の構造11月(前期)

周知のように、親鸞聖人の主著は

『教行信証(正式には「顕浄土真実教行証文類」)』

です。

したがって、その教えに直接ふれるためには、この書物を読むことが一番の方法だと考えられます。

ところが、この書物は漢文で書かれている上に、親鸞聖人の深遠な思想が説かれているので、その全てを理解するためには、最初から丁寧に読み進めていく必要があります。

けれども、それでは膨大な量になってしまいますので、今月と来月は

『教行信証』

の構造という点に絞って考えてみることにしたいと思います。

さて、

『教行信証』は

「教巻」

「行巻」

「信巻」

「証巻」

「真仏土巻」

「化身土巻」

の六巻から成り立っていますが、最終巻の

「化身土巻」

の最後に

「後序」

と呼ばれている箇所があります。

そこに、

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」

という文章が出てきます。

「建仁辛酉(けんにんかのととり)の暦」

というのは、親鸞聖人が二十九歳の年です。

親鸞聖人は、それまで九歳の時から二十年間比叡山で学問に、修行に一心に励んでこられたのですが、学問に励めば励むほど、修行を積めば積むほど、迷いが消えるどころか、むしろ迷いの消えない自身のありように苦しみ悩んでおられました。

そこで、比叡山を下りて、当時吉水で念仏の法門を開いておられた法然聖人のもとに教えを請いに行かれました。

そして、それまで学んで来られた教えの全てを投げ棄てて、法然聖人の教えである第十八願の教えに帰依されたのですが、その時の経緯がこのように述べられているのです。

「雑行を棄てる」

というのは、言い換えると、法然聖人に出遇われて、これまで親鸞聖人の心にあった悩みの原因が何であったかが、この時はっきりと分かったということです。

つまり、疑問に思っていたことが、全てはっきりと分かった、そういう体験をここでされたのです。

この自分の心の中で明らかになった一点を、論理的あるいは体系的に示されたのが、その主著といわれる

『教行信証』

だといえます。

それでは、その明らかになった点とは何かというと、末法の時代に生きている自分、すなわち末法の凡夫が悟りを得る、その構造であったといえます。

それは、いかにして末法の凡愚が証を得ることが出来るか、その構造を明らかにされたのが

『教行信証』

なのです。

ここで私たちは、仏教を学ぶ時に、常に自分は仏教に何を求めようとしているのかを、はっきりと確かめておく必要があります。

簡単に言うと、仏教とは

「釈尊が人々に対して仏になる道を教えているもの」

です。

そうしますと、私たちが仏教を学ぶということは、自分自身が仏になる道を学ぶということになります。

したがって

『教行信証』

は、その一点をとことん突き詰めた著述だといえます。

このことから親鸞聖人とは、仏教の本当の姿をどこまでも真摯に突き詰められた方だということが窺い知られます、

さて、今この

『教行信証』

の中で問題になっていることは、私たちの一番の関心事である世俗の生き方ではありません。

その世俗の問題を否定すること、むしろそういうことが迷いの原因になるのだということの上に成り立っているのですから、親鸞聖人の教えに対して世俗の問題を問いかけたとしても、当然のことながらそこには私たちが期待しているような答えは出てきません。

『教行信証』

を読むにあっては、先ずここのところをはっきり理解することが大切です。

たとえば、世界の繁栄ということを考えて

「いったいどうすれば世界が栄えるのか」

ということを親鸞聖人の教えに求めても、そこから答えは何も出てきません。

あるいは、今日の日本の国家が抱えている政治や経済、国際関係などの諸問題を尋ねても、直接的な答えを得るということは困難です。

さらに、もっと身近に、私自身が生きていく上においての、いわゆる幸福論、つまりいかによく生きるかということについての理想的な生き方を尋ねても、やはり同じことだと思われます。

しかし、それなら

「親鸞聖人は世俗の幸福ということを全く無視されたのか」

という疑問が生じるかもしれませんが、そういうことを『教行信証』の中では語っておられないということを述べている訳で、決して無視しておられるということではありません。

「老いに向き合いともに生きる」(上旬)車イスに座らせて奪ってしまった能力

======ご講師紹介======

中迎聡子さん(宅老所いろ葉代表)

☆演題 「老いに向き合いともに生きる」

昭和50年、南九州市川辺町生まれ。

平成11年に介護の仕事に出会い、特別養護老人ホームに勤務。

その仕事を続ける中、お年寄りの食事、入浴、果ては排泄まで管理されるといった、本人の気持ちを無視したような介護のあり方に疑問を抱き、平成14年9月に施設を退職。

その後、自分のやりたい介護を実現するため、宅老所を作ることを決心。

平成15年、ごく普通の民家を介護の場とする「宅老所いろ葉」を設立。

平成17年にいろ葉の「さくら」、翌年いろ葉の「ふじ」を続けて開設し、現在も重度の認知症の方とともに過ごす日々を送っておられます。

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現在、鹿児島市にある宅老所

「いろ葉」

には15名のお年寄りがおられます。

また、川辺にある

「いろ葉のふじ」

には20名の登録者がいらっしゃいます。

スタッフ葉、そこにいるお年寄りの方がどんな方であっても、認知症という言葉は使いません。

ご飯を食べたことをすぐ忘れる某さん、夜になれると眠れない某さんというように、その人の特徴と向き合っています。

いろ葉の建物は、普通のお家を使っています。

それで、1日にだいたい7人くらいの人が、通ったり泊まったりしながら、お年寄りそれぞれの生活リズム、家族のニーズに合わせて利用してもらっています。

いろんな人のご要望に応えていくうちに少し変わった外観になりましたが、中身は至って普通のお家です。

お金もない状態で始めたので、イスなどももらい物が多く、大きさもバラバラです。

でも、それがちょうどいいんですね。

お年寄りにも身体の大きい人や小さい人、足の長い人や短い人がいますから、それを使い分けていくうちに、その人のイスができてくるんです。

居間にはなるべく、いろんな所をソファーを置くようにしています。

車イスは基本的に移動のための物で、そこにずっと座る物ではないと私たちは考えているからです。

なので、歩けなくもはって移動出来る人は、畳をはって移動してもらったり、車イスの人ならソファーに移します。

ソファーなら、しんどくなってきたそのまま横になれますから、私たちも楽なんです。

私が以前務めていた施設には、畳の部屋はありませんでした。

もし、私が50人くらいの人が入るような老健施設を作るとしたら、床は全部畳にしたいと思っています。

そのくらい畳はいい物なんです。

スタッフもみんな同じ目線になれますし、みんなでゴロゴロと転がって遊ぶことも出来ます。

そうすると、意外な力持ちなお年寄りに気づかれることもあります。

そういうところから、

「これだけ力があったら、はって移動できるかもしれない。

自分の力で行きたい所に移動できるのっていいよね」

ということで、這う練習をしていくんですね。

それではって移動できるようになったら、今度はソファーに手をついて自分で座れるように練習していきます。

それを365日絶え間なく、特定の人だけでなく、どのスタッフが相手であっても同じように練習できるように、すごく緻密な記録を取りながら続けていくんです。

そして、自分でイスに座れるようになったら、次は何かの支えで立って歩けるように練習していきます。

練習では、スタッフの太ももに全身を預けてもらう形にして、お年寄りが自分で立っている雰囲気を作るんです。

そうしていくうちに、私たちスタッフの方も、支えているお年寄りに何となく力が入っているのが感じられてきます。

例えば、おばあちゃんが10%の力を出せていたら、私たちは90%の補助をします。

おばあちゃんが20%の力を出せていたら、私たちは80%の補助をするというように、二人合わせて100%の力になって、立つのにちょうどいい状況を作るようにしています。

そうすると、一年後には、一人でつたって歩けるようになるんです。

それは奇跡では何でもなくて、安易に車イスに座らせることで奪ってしまった能力だったのだと思います。

『頑張れの声よりも共に泣ける心』

今年も運動会の季節になりました。

晴れ渡る秋空の下、校庭いっぱいに

「頑張れ、頑張れ」

の声援が響き渡ることでしょう。

「頑張れ」

とは、困難に耐えて努力してやり通すことで、スポーツや勉強,またお仕事など、私たちの日常いたるところ、あらゆる場面で人を励ます意味で使われますが、場合によっては、また使い方によっては逆に相手を大きく傷つけてしまいかねない言葉でもあります。

『私を見舞うために、毎日たくさんの方が病室に来てくださり、みんな

「頑張れ、頑張れ、しっかりしなきゃ」

と口々に励ましてくださいます。

しかし長時間の手術を受けて、その上、長期の入院生活で身も心も萎えてしまいそうな辛い毎日。

これ以上、私に何を頑張れというのですか』。

重い病気で入院されている患者さんの独り言です。

「頑張る」

とは、自分の考えを押し通す意味の

「我を張る」

が転じたという説もあり、場合によっては、相手の状況や気持ちをよく考えることのない極めて一方的な励ましや、他人事で言っているようにしか感じられない言葉になる危険をはらんでいます。

私たちが日頃聞かせていただく仏さまのお心は、

「慈悲の心」

と言われます。

それは、悲しみや苦しみに打ちひしがれる人びとの心にそっと寄り添い、その人がやがて立ち上がるときが来るまで共に悲しみ、共に苦しむ心です。

私たちは日常、いろんな人と出会い、様々な場面に遭遇しますが、この仏さまの慈悲の心に学びながら生活をしたいものです。

喜びは多くの人と分かち合えば二倍にも三倍にもなります。

逆に悲しみや苦しみは、親身になって相手の気持ちを受け止めることができたなら、そこに安らぎとぬくもりが生まれるかもしれません。

そのように多くの人と接することができるよう心がけたいものですね。

「親鸞聖人が生きた時代」10月(後期)

ところが、親鸞聖人はそのような端倪すべからざる高次の宗教的世界を構築しながら、どこまでも謙虚でした。

そして、それがまた多くの人々を惹きつけた理由でもありました。

親鸞聖人が八十歳を過ぎて、最晩年を迎えられたある日の出来ごとです。

『歎異抄』の編述者である唯円房が親鸞聖人のもとにやって来て、意を決した表情で質問をされました。

「往生の道は念仏しかないと信じ、念仏を申しているのですが、どうも踊躍歓喜の思いがわいてきません。

また、急いで浄土へ参りたいという気持ちにもなれません。

いったい、どうしたことでありましょうか」

これは、一般的な師の立場から見ると、いかにも穏当を欠いた質問です。

通常、そこで予測される常識的な答えとしては

「あなたの信が不徹底だからだ」

ということになると思われます。

ところが、親鸞聖人はそのような咎め立ての言葉は一切口にはされず、逆に若い唯円房の疑問に共感の意を示されます。

「自分もそのことをおかしいと思っていたが、唯円房よ、あなたも同じ思いであったか」

まことに意外な展開と言うべきですが、親鸞聖人はただ素直に自分の心情を吐露されたに過ぎません。

ついで親鸞聖人は、以下のようなことを語って聞かされます。

「けれども唯円房よ、よくよく案じてみると、天に踊り地に踊るほどに喜ぶべきことを、どうにも喜べないというのは、これでいよいよ往生は間違いないと思ってよいのであろう。

喜ぶべきはずの心を抑えつけ、喜ばせないのは、煩悩があるからだ。

しかるに、仏はあらかじめそのことを知っておられ、煩悩具足の凡夫と言っておられるのだから、仏の慈悲に満ちた救済の願いは、このような自分たちのためのものだったと改めて納得がゆき、いよいよ心強く思われる。

また、急いで浄土へ参りたい心になれないのも煩悩のせいであり、そう思うにつけ、私にはますます往生は決定していると思われてならない」

親鸞聖人のこの言葉は、すこぶる含蓄に富んでいます。

そこには、末法の凡夫の自覚、本願他力への確信、現世の生のあるがままの肯定…、今まで見てきた親鸞思想のエッセンスが集約されています。

そして、それ以上に注目すべきは、親鸞聖人が最晩年に至るまで人間的な内省を怠ることがなかったという、根本的な生き方の姿勢が巧まずして、このエピソードに表徴されていることです。

その生活態度、精神構造において、親鸞聖人は近代人の在り方と限りなく近かったように窺えます。

「どうして人を殺してはいけないのですかと問われれば」(下旬)ダメなものはダメだと答えるべき

この関係を理解して、卒業してくれた学生が短大にもいました。

それもやはり友だちの死を見せつけられて初めて、仏さまの世界に気付いてくれました。

仲のいい3人の学生が休日にドライブに出かけたんです。

朝、実家のある三重県を目指して京都を出発し、お昼ご飯を向こうで食べて、京都に帰ろうとしたその途中でした。

おそらく前に遅い車がいたんでしょうね。

追い越そうと対向車線に出たところ、前から来たトラックと正面衝突してしまったんです。

向こうは大型、こちらは小型ですから、3人は即死。

本当に痛ましい事故でした。

短大というのは、入学した翌々年が卒業です。

なので2年間で仏教のことを分かって卒業してくれるか本当に心配でしたが、その事故があってから教室の雰囲気が大きく変わりました。

翌日講義で教室に行くと、亡くなった学生がいつも座っていた席をみんな異様な目で見ていました。

みんな新聞を見て知っているはずなのに、

「先生、どうして彼はいないの」

と言うんです。

これは、頭では納得できても、腹で納得できない、そういう言葉だったんだと思います。

短大の卒業論集に、わずか2ページでは有りましたが、15人ほどの学生が亡くなった彼のことを書いてくれました。

私は20歳の学生が書いた

「改めてこの世の無常さを認識し、生かされているいのちに感謝します」

という文章を見てびっくりしました。

諸行無常ですよ。

友だちが急に亡くなって無常ということに気付いたんですね。

2日前までは同じように勉強していたその彼が、今いない。

そうすると、自分が今生きているのが不思議でたまらなくなった。

今までは

「自分が生きている」

と思っていたけど、実は生かされていたんだ、というのがその言葉ではないでしょうか。

他にもたくさんの学生が

「生かされて生きる」

と書いてくれました。

今まで

「阿弥陀さんなんて本当にいるの」

と言っていた学生たちがですよ。

そしてある学生は最後に

「散る桜身を持って示す仏かな」

と、書いていました。

事故で亡くなったその友だちを散る桜に、散る桜を仏さまにたとえているんです。

この世は諸行無常だから、必ず死んでいかなければならないんだよ、と教えてくれた仏さまの化身だったんだというんです。

自分一人で生きているんじゃない。

このような思いになったら、自らのいのちを絶つなんて、とんでもないことです。

それ以上に、他人のいのちを絶つなんて、とんでもないことです。

与えられたいのち、生かされたすのちなんです。

ですから、

「どうして人を殺してはいけないんですか」

と問われれば、

「ダメなものはダメ」

とこう答えるべきではないでしょうか。

仏さまの世界がわかったとき、生かされて生きるということがわかったとき初めて、納得できるものなんです。

西洋教育は最初から

「なぜ、どうして」

と言います。

それに対して仏教は

「そのうちに必ず納得できるよ」

という追体験の世界。

ですから、仏教的に言えば、

「ダメなものはダメよ」

と言うような教育の仕方も必要ではないかと私は考えています。