投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人が生きた時代」8月(前期)

源信僧都は、その著『往生要集』において、以下のように述べておられます。

人は誰も人間として生まれことを当り前と思っている。

だが、六道輪廻の観点からすると

「無量生死の中に、人身を得る(人間に生まれること)こと」

は大変な僥倖(ぎょうこう=思いがけない幸せ)であり、しかも

「苦海を離れて浄土に往生すべき」

機会は、人間界に生まれた現在をおいてない。

六道輪廻の苦患を免れ、浄土往生を願うのであれば、いまこそ発心すべきときである。

では、発心するにしても、具体的にはどうしたらよいのでしょうか。

「末法万年には、余経はことごとく滅し、弥陀の一経のみ物(衆生)を利すること偏に増さん」

末法の世では、仏法自体が衰滅するのだから、いかに難行苦行に励んでも、仏の救いにあずかることは期しがたい。

それに対し、阿弥陀如来は、念仏するものは浄土に救いとると仰っておられ、その本願を推し量れば、浄土信仰こそ末法時における最適唯一の教えというべきである。

そのうえ、有り難いことに

「ただこれ、男女、貴賤、行住座臥(ぎょうじゅうざが)を簡(えら)ばず、時処期機縁を論ぜず」

と、男女の別、あるいは身分の上下、修行の場所・形態などを問題にしない教えなのですから、

「これを修行すること難からず」と。

つまり、信仰の実践として念仏を称えることは、誰もが、いつでも、どこでも、容易に出来るのです。

源信僧都の説かれる浄土信仰の勧めの要旨は、ほぼ以上に尽きます。

難しい哲学的思弁や、常人には成し難い修行を必須の条件とする聖道門より、念仏するだけで十分だとする浄土門の易行の方がまさっており、また阿弥陀仏の救いの手は、あらゆる階層の人々に平等にのばされているということを、源信僧都は初めて体系的に啓示されたのでした。

けれども、そのように啓示されたものの、源信僧都自身は依然として

「法華経」

八千巻はじめ大乗経典五万五千巻を読誦したり、種々の真言を唱えたりというふうに、浄土信仰一門にのみ帰依するのではなく、いわゆる難行と易行の間を揺れ動いているかのような面が見られました。

その限界を打ち破られたのが、浄土宗の祖で、親鸞聖人が

「真宗興隆の太祖」

と仰がれた法然聖人でした。

「私の人生」(上旬)私はあの戦争に負けたとは思っていない

======ご講師紹介======

小野田寛郎さん(小野田自然塾塾長)

☆演題「私の人生」

大正11年、和歌山県に生まれる。

旧日本陸軍少尉として従軍。

日本が無条件降伏をした後も、30年間、フィリピンのルバング島で終戦を知らされぬまま、最後の一人まで戦い続けた。

昭和49年に日本に帰還。

翌年、ブラジルに移住し、牧場経営を始める。

昭和59年から、全国各地で青少年育成野外活動を指導。

平成元年に小野田自然塾を設立。

その理事長に就任。

福島県塙(はなわ)町に、キャンプ場を設定・整備し、青少年及び一般人の野外活動指導を軸に、指導者及びボランティアの養成、青少年国際交流事業などの活動を行っておられます。

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私は17歳のとき、親に反発して家を飛び出し、中国で貿易会社に勤めました。

軍に入ったのは20歳のときです。

九州の久留米予備士官学校を経て、陸軍中野学校に行きました。

そして昭和19年、東京が毎日爆撃にさらされるなど、非常にせっぱ詰まった戰況下で、私はフィリピンに派遣されました。

そこで私が受けた命令というのが、マニラのすぐ目の前にあるルバング島に行き、敵に占領された後もその島を離れず生き続け、日本軍の活動を敵に見せ続けろというものでした。

当時、ボロボロだった海軍に比べ、中国に展開していた80万人の陸軍はまだ無傷でした。

もし、日本本土が敵の上陸を許し、占領されたとしても、その戦力でもって、日本の国外でゲリラ戦を展開し、アメリカの国民世論が厭戦に傾くまで泥沼の戦争を続ければ、最終的に条件付きの講和を引き出せるという戦略です。

そこで、重要拠点になるマニラのアメリカ軍をルバング島から牽制するために私が派遣されたということです。

その効果が現れるのは日本に上陸され、持久戦に持ち込んだ時ですから、3年も5年も時間がかかります。

したがって、あくまでも生き続けることが重要な任務だった訳です。

ルバング島に渡ったのは、12月31日でした。

2月初めにマニラが占領され、次いで2月15日、私のいた島にアメリカ軍が上陸してきました。

私の所属していた部隊は純粋な戦闘部隊ではなく、装備も貧弱でした。

正面からでは太刀打ちできず、山にこもって戦い続けました。

そうして昭和20年8月15日を迎えたんです。

普通ならば、停戦命令とか武装解除の指令があるんですが、ルバング島は戦略的な重要性から、アメリカ軍は日本軍に任せなかったそうなんです。

それで、私たちの所に届いたのは、アメリカ軍が作った間違いだらけのビラでした。

私たちは、最初捕虜獲得のための偽の文書だとして相手にしなかったんですが、次第に投降者が相次ぐようになり、最終的には私を含めて4人だけになりました。

そこから、私のルバング島の30年が始まった訳です。

そして30年を経て、ようやく私のもとに任務解除・帰国命令が届き、それを受けて私は出頭しました。

そのとき、フィリピン政府からは

「小野田は捕虜扱いしてはならない」

という命令が出されており、マニラで大統領に謁見したときには

「軍人の模範だ」

と賞賛され、その間の全てを許すと言われました。

本来は戦犯として扱われてもおかしくない身でしたが、そういうのがあって、私は最後まで捕虜にもならず、自分の軍刀や銃などを全部持って、胸を張って日本に帰国しました。

だから私自身はあの戦争に負けたとは思っていません。

でも、それは戦争を放棄した日本にとっては問題だったようで、帰国したとたんに政府とケンカしてしまいました。

あちらの言い分では

「勝手なことをしてくれた。

救出・捜索にたくさん金がかかったんだから、有り難く思え」

ということらしいです。

でも、もし初めてから命令を出していてくれれば、私自身は戦犯として銃殺刑になったとしても、部下たちは死なずにすんだんです。

私の言い分はこうですから、話がかみ合う訳もありませんでした。

世間でも、一方では褒められ、もう一方では軍国主義の亡霊だと非難されるなど、いろいろ言われました。

『忘れてもいつも寄り添うほとけさま』

「地獄」

「餓鬼(ガキ)」

「畜生」

という言葉を聞いたことはありませんか。

この3つは三悪道(さんまくどう)といって、悪の道のワーストスリーです。

「地獄」

はあちこちに鬼が出現している世界を想像してください。

自分が鬼かもしれませんが。

やる方もやられる方も苦しいです。

「餓鬼」

は、ここらへんでいいです、ということができない世界です。

やめられない、止まらない、のどが渇く世界です。

欲を満たすことは不可能なのに、ということです。

「畜生」

はありがとうのいえないもの、と考えます。

自分のいのちが様々なおかげで成り立っているのに、自分の力だけで生きてきた、とうぬぼれている生き方でしょうか。

今日のいのちさえ他のいのちに頼らざる得ないのに。

この三悪道の他に、自分の正しさをぶつけ合って、修羅場をむかえる

「修羅」。

そして、ご存じ

「人間」

も年をとり病にもかかり死んでいく、なかなか思い通りにならないつらいものです。

最後に

「天」

は、すばらしいところなのですが、最後は薄汚れて死んでいく、地獄と比べてもつらく苦しいものだそうです。

「天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいしねぇちゃんはきれいだ♪」

と、浮かれているどころではありません。

なにより苦しみ悩むものに心を寄せづらい環境です。

いずれも苦しみの輪廻を表しています。

こんな話をお勤めの後にするのですが、先日、ある女性がお話しにこられました。

「先生、今日のお話はとても胸に響きました」

(えー、何回も同じ話をしているはずですけどねぇ、と私の心の声)

「考えてみると、うちの中のことがそのままですね、地獄であったり、畜生であったり・・・修羅場もありますし」

そうか、この方は、今日の話は自分のこととして聞かれたのだなぁと気づきました。

ここで違う世界が見えてきます。

苦しみ悩むものが私である、と気づかされたときに、この私を救わねばならないという仏さまのおこころに触れることができたのです。

常日頃は地獄の中にいても、それすら忘れている私が、仏さまの心に触れて、我が身の悲しさと同時に仏さまの尊さを感じることができたのです。

あの女性は他の人の話ではなくて自分のことですから、なによりうれしかったのではないでしょうか。

「忘れても」

というのは、仏さまを忘れているというより、自分の有り様を忘れていると読んでいくことも忘れてはいけないことです。

「親鸞聖人が生きた時代」7月(後期)

これに対して、親鸞聖人が何にもまして関心を向けられたのは

「時」

でした。

そのとき親鸞聖人の脳裏に重々しく意識された

「時」

が末法時であったことは言うまでもありません。

その末法時には、仏教の力のみならず衆生の能力も低下する一方だと説かれています。

このような、かつてない非常の時に際会した自分たち凡夫に最もふさわしい教えとは、いったいどのような教えか…。

親鸞聖人も延暦寺に学んでおられたので、当然のことながら

「法華経」

はご存知でしたし、またそれがすぐれた経典であるのもわきまえておられました。

けれども、それと同時に親鸞聖人から見ると

「法華経」

の教えは、能力の劣る凡夫にとって、いかにも難しすぎるとの感を拭えませんでした。

したがって、それよりもっと易しく、そのうえに確実な救いを期待し得る教えはないものか…、

そんな思念を凝らしていくうちに惹きつけられていったのは、浄土信仰でした。

浄土とは、仏教が地獄の対極に位置付けた理想の仏国土のことであり、浄土に往生すれば、人はみな現世のもろもろの苦悩から解き放たれ、想像の及ぶ限りの福楽を享受することが出来るとされます。

ただし、実は浄土は一つだけではありません。

如来や菩薩はそれぞれ独自の浄土を賦与されており、阿弥陀如来の極楽、弥勒菩薩の兜率天下(とそつてん)、観音菩薩の補陀落山(ふだらくせん)などの浄土が、早い時期から人気がありました。

しかし、末法思想が広まるにつれて、これら各種の浄土に対する信仰は次第に極楽浄土に集中するようになり、平安時代も後期を迎えると、浄土信仰すなわち極楽信仰というほどの高まりを示すことになりました。

では、極楽浄土だけがどうして圧倒的な支持を集めたのかというと、それはこの浄土の教主阿弥陀如来の救いの性格に関わります。

つまり、阿弥陀如来はその本願(仏、菩薩が必ず成し遂げようと自らに課した誓願)の中で、いかなる末世濁世であっても、男女、貴賤を問わず、浄土に生まれたいと願い念仏を称えれば、自ら救いにやって来る(来迎)ということを誓われ、末法下の人々にとってまことに頼もしい存在であったからです。

この阿弥陀如来の本願をいち早く評価し、これこそ末法時に最もふさわしい仏の教えだと位置付け、浄土信仰流行のきっかけを作られたのは、天台宗の学僧恵心僧都(えしんそうず)でした。

「泣いて生まれて笑って逝こう」(下旬)末期ガンを克服した人はいくらでもいる

実際に、末期ガンから治った人はたくさんいます。

平成15年に末期ガンから治った人100名と、闘病中のガン患者1,000名が一堂に会して、2日間にわたって学ぶ

「千百人集会」

というのをやりました。

ある男性は、重度の前立腺ガンを患っており、あなたの余命は6カ月だと言われていました。

それで、どうせ長くないのであればということで、会社を人に譲って、食い改めて、好きなことをいっぱいやったんです。

そして、7年が経った現在、先日お会いしてきましたが、とてもお元気でした。

その男性がしたことが、もう1つあります。

それは口癖です。

「よくなる」

と、ずっと言っていました。

口に出すと言葉は力を持ちます。

梅干しのことを思い浮かべるだけで、ツバが出るように、自律神経というのは思った通りになります。

「ありがとう」

とたくさん言っている人は、感謝の人生になります。

病気を治すのも一緒です。

するかしないかだけなんです。

いくつからであっても、気持ちが変われば、体も変わるということです。

その

「千百人集会」

の第2回目が、去年の6月に横浜でありました。

ここでもたくさんの方が治っていきました。

自然退縮(しぜんたいしゅく)と言って、ガンの原因である頑張りすぎをやめて、食い改めて、そして楽しいことをいっぱいやったら、見事に変わりました。

そうやって、末期ガンからガンを克服した人はいくらでもいます。

福岡にいるスーパー103歳の昇地三郎(しょうちさぶろう)先生。

この方の元気で長生きのための健康方法を紹介しましょう。

まず、冷水摩擦です。

これと乾布摩擦は風邪の予防には一番です。

そして、せんべいでもピーナツでも、焼肉でも、食事でも、食事の際は口に入れたら30回噛みます。

そこが重要です。

また、自分で考えた体操をしており、今でも片足をあげて靴下がはけます。

そして、毎朝NHKの語学講座を聴いていて、今では7カ国語を話します。

95歳で中国語を始めて、3年後に中国の長春大学に行って、中国語で講演した、すごい人です。

特別な健康法じゃありません。

ちょっとしたことを60年70年ずっと続けているんです。

食事で一口30回噛むことを100年間続けているんですよ。

その昇地先生、去年の9月の敬老の日に初めてテレビに出まして、その中で長生きには笑顔が大切だと言われています。

誰だって、いつかはいのちは終わります。

だから、死を考えるということは、同時に残された時間を

「ああ、面白かった」

と言えるように、後悔しないためにどう生きるかなんです。

墓石の正面にはどのように記載すればよいのですか?

お墓の正面には、よく

「○○家之墓」

と刻まれてあるのを目にします。

遺骨を納め、亡き方を偲ぶ場所に違いはありません。

しかし、私たちが大切に心がけたいことは、礼拝の対象はあくまでも遺骨ではなく、如来様、もしくは南無阿弥陀仏の六字のお名号であることを忘れてはなりません。

お墓も、お寺の本堂やご自宅のお仏壇と同じように礼拝の場所である以上、お墓の正面にもやはり

「南無阿弥陀仏」

とお名号を刻まれるのが本来と言えます。

そうでない場合は、簡易型の持ち運びできる小さな阿弥陀様の

「絵像」

や、南無阿弥陀仏の

「名号本尊」

がありますので、そちらを墓前にご安置をされ礼拝されることをおすすめいたします。