投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「今をいかに生きるか」(2)5月(中期)

 では、幸福な人生に関してはどうでしょうか。

もし人の終焉が全て惨めだとすれば、だれもが最後には死を迎えるのですから、人間はどのような満ち足りた人生を過ごしたとしても最終的には不幸になる以外はないといわなくてはなりません。

けれども、たとえどのような不幸が訪れたとしても、浄土真宗の教えの特色は、その心に無限の喜びが見いだされているということに尽きます。

 ここで、現代人の臨終の姿を考えてみることにします。

現代は日進月歩といった感じで医学が発達していますから、かつては「死の病」と恐れられたような病気であっても治癒出来るようになったり、延命することも出来るようになってきました。

けれども、どれほど命が延びたとしても、やはりそれには限度がありますし、必ず「臨終」はきます。

ではその時、人はどのような心になるのでしょうか。

科学の発達によって、私たちは人類の歴史において、今までにない生の楽しみを味わっています。

また、生きるための楽しみを人はどのようにして得ることが出来るか、これに対する答えはそれこそ山のようにあると思われます。

老いても楽しく、病んでも楽しく、さらに死も心配せず楽しく迎えられるように…、そのようなことを説く教えは世間には山積みされているといった感があります。

けれども実際問題として、老・病・死は若くて健康で長生きしたいと願う人にとって、やはり苦しいことだといわねばなりません。

 そのような意味で、現代人の一つの悲劇が臨終に見られることになります。

もちろん、これまでも、その人にとっての最大の悲劇は臨終にあったのですが、現代ではそれがさらに倍加されているといえます。

なぜなら、現代人の生活から大半の苦痛は取り除かれていますので、結果的には楽しみの頂点でこの悲劇に出会うことになるからです。

今の世の中には楽しみが満ちあふれ、死はいつでも他人事であるが故に、心にはこの悲劇を受け入れる用意が出来ていません。

それ故に、死を自らのこととして意識せざるを得なくなった時に、苦悩と恐怖に同時に激しく襲われることになります。

そこで、現代の医療の場では、患者が臨終を迎えた時に、動転するその心をいかに和らげるかが大きな課題となり、ホスピスとかビハーラ等、終末医療といわれる活動が行われるようになってきたのです。

そこではいま多くの人々が、懸命になって亡くなっていく人の心を支える、そのような治療法への取り組みが真摯になされています。

「子供を叱れない大人たちへ」(中旬) 不満をぶつけた

法務省少年篤志面接委員 桂 才賀 さん

 これから紹介させていただくのは、普通の家庭の普通に学校へ通っている子どもたちが、親や兄弟、先生、あるいは社会の人に不満をぶつけた川柳です。

 これはもともと、栃木県足利の生活安全課長さんが捕まえてきた暴走族に書かせたのが元なんです。

普通所轄の刑事さん、課長さんだったら、大きな声で恫喝して「しばらく泊まってってもらうか」なんてことを言って脅かすんですけど、この栃木の生活安全課長さんは大きな声を出すこともなく、なんとこんなことをさせたんです。

「お前らの父ちゃん、母ちゃん、先生の気に入らねぇとこ、書いてみな」って。

 「変なことを言うおまわりだな」なんてね。

言われて書く連中、みんな暴走族ですよ。

警察の取り調べ室で「なんだい、父ちゃんの? 母ちゃんの? 先公の悪口書きゃいいのか? そんなのいくらでも書いてやるよ」と言って書いた。

これをそのままじゃ長ったらしくてシャキッとしませんから、この刑事さんが川柳の作り方を教えたんですよ。

 言葉が短くて端的ですから、一番インパクトがある。

川柳のようにまとめなさい、と。

「お前ら言葉詰めんの名人じゃねぇか」「おお、そうかそうか。

その要領で短くすりゃいいのか」ってね。

若いのはなんでも言葉詰めるからね。

それで川柳ということも自然に教えたわけです。

川柳を詠う暴走族、笑っちゃうでしょ。

 その出来上がった、親や教師に対する不満がテーマの川柳。

それをこの課長さん、これ見よがしに自分のデスクに放り投げといた。

ある人の目につくように。

ある人ってのは誰だと思いますか。

時折少年課に来る教育委員会の方なんです。

この教育委員会の方の目にふれさせようと思って、これ見よがしに置いといた訳です。

自分の方から教育委員会に持っていけば話は早いんですけどね。

それよりも向こうから食いついてくるのを待った訳です。

 「なんだ課長、これ面白いな。

暴走族が。

あれま。

これいい。

これはいいぞ。

よし、ほんじゃな、うちらの普通の学校に通っている普通の子にも書いてもらうべ。

作ってもらうべ」となったんです。

普通の学校へ、普通の家庭から通ってくるごく当たり前の子ですよ。

お父さん、お母さん、学校の先生の悪口がテーマです。

当然、先生の悪口を書くから、名前を書いたら本音で書けない。

だから「名前は書かなくていいよ。

学校名も何も書かなくていい。

そうすりゃ本音でかけるだろ。

誰の作品かわからないからね」と言うんです。

 ところが、同じ年代ですと同じような作品が山のように出てきますから、それゃ俺のだよ、いや俺のだよってことになると困りますんで、配る紙には番号がふられた。

ただこれは学校当局も教育委員会も控えは取らないルールです。

 だから何番から何番までがこの学校、何番から何番までがこの中学校って、そんなふうにしちゃたら嘘だから、もうめちゃくちゃにして配りました。

当人しかこの番号はわかりません。

本になったらその番号だけ憶えておけば、自分の作品番号がすぐわかる、そういうふうにしたんです。

 そして出来上がって、一冊の本になりました。

これを各学校の教室一クラスに一冊ずつ、黒板の所へぶらさげて、子どもたちがいつでも読めるようにした。

「気に入った作品、選んでください。

いくつ選んでもいいです。

自分の作品選んでも、もちろんいいです。

番号だけ書いてください。

気に入った作品の番号書いて、校長室前のダンポールの箱へ放り投げといてください。

いついつ何時限目までです」

 期限を切って回収して、教育委員会が作った最高トップ。

栃木足利の子どもたち全部が、この作品に一票投じたんじゃないかっていうのがあるんです。

あとでご紹介しますが、その前に一冊出来上がった子どもたちの川柳の中から、私が気に入ったものをご紹介します。

3月の半ばに1週間ほどカンボジアという国を旅してきました。

3月の半ばに1週間ほどカンボジアという国を旅してきました。

カンボジアと聞けば、誰もが世界遺産のアンコールワットを思い起こされるのではないでしょうか。

その優美で壮麗な姿は国旗にも描かれているほどですが、140年前まではその存在を知る人はなく、密林の奥深くに眠っていたそうです。

そのように神秘的で華麗なアンコールワットの国というイメージを抱いて旅立ったのですが、そこに待っていた光景は、残念ながら私の期待とはかけ離れたものでした。

まず私を出迎えたのは、悲惨な内戦の傷跡が色濃く残る町並みの様子でした。

すさまじかった戦禍の負の遺産とでもいうべきその光景は、私の観光気分を一転させるには十分過ぎるほどでした。

 1975年以降ポルポト政権下のカンボジアでは、人口800万人の国で100万人以上の(200万人という説も)自国民の大量虐殺が行われたそうです。

その3年8カ月の間に受けた苦痛は、カンボジアの国民の「精神的外傷」として、現在でも人々の記憶に深く刻み込まれているとのことです。

また、中でも私が言葉を失ったのは、カンボジアに暮らす同年代(20歳代後半)の人達は、そのほとんどが両親を殺されてしまっているということを聞かされた時です。

本当にショクでした。

「これがカンボジアという国の現実なのか…」と。

親と過ごした記憶もなければ、親という存在さえも意識化できないまま生きてきた人もいるといいます。

悪夢としかいいようない、私たちの想像を絶するような闇黒の時代が終わっても、いつまでも消し去ることの出来ない「負の遺産」を誰もが否応なしに背負わされているのです。

当時の拷問所の跡を博物館として、そのままの形で現代に残すトゥールスレンや処刑場のキリングフィールド。

それらは遠い過去の遺跡ではなく、わずか30年前にこの国で実際にあった生々しい事実を今に伝える証人です。

その現実に接するところから、私のカンボジアの旅は始まりました。

アジアの国々には、まだ自分が知らないだけで、これ以外にも決して目を背けてはいけない事実がたくさんあるように思われます。

同じように、私の周囲にある事柄についても「まだ知らなかったり、気付いていないことが多くあるのでは?」ということを考えさせられた旅でした。

『この世でいらない人は 一人もいない』

 私たちは毎日、様々な人とふれあって生きています。

その一人ひとりは、それぞれに自分の考え方を持っていて、それぞれ自分なりの生き方をしています。

そのために、時には自分にとって「合わない」と思う人や、「理解できない」と思う人もいたりします。

 そうなると、つい私たちは「この人は良い人だ」とか「この人は悪い人だ」と決めつけて接するようになり、やがて相手によって親しんだり敬遠したりするようになることがあります。

多かれ少なかれ、誰もがこれまでにそのような経験をしたことがあるのではないでしょうか?

 しかし、それは自分を中心にした考えなのではないでしょうか? 私たちは、つい自分を中心にして他人や物事を見てしまいがちです。

良い人だとか悪い人だと決めつけてしまうのも、それは自分にとって都合が良いとか悪いとか言っているだけのことに過ぎず、本当にその人のことを正しく理解している訳ではないのです。

 人は生まれた環境や生活習慣も同じではないように、性格や価値観もそれぞれに異なります。

けれども、誰一人として「いらない人」などいないのです。

それぞれ、一人ひとりがかけがえのない尊い存在なのです。

「今をいかに生きるか」(2)5月(前期)

「正しい生活」ということを考える場合、親鸞聖人の中心思想の一つである「悪人正機」の問題と重ねて考えることが出来ます。

これは、端的には「凡夫である自分自身の本質を見極めるならば、悪でしかない」という教えです。

 ここで興味深い話があります。

大正から昭和初期の頃だと推察されるのですが、日本で犯罪の少ない地方はどこかという調査が行われた時に、それは浄土真宗の教えの盛んな地方であるという結果報告がなされたそうなのです。

浄土真宗では、自分の姿を悪人だと教えています。

ところが、その悪人の集まる社会において犯罪がないのです。

 では、自分が悪人だと教えられて、人はなぜ悪を犯さないのでしょうか。

私たちは社会の中で生活するためには、いろいろなことを我慢しなければなりません。

ところが、この愚かな私がいまここで生活することが出来ているのは、他の人々が私のことを我慢してくれているからなのです。

つまり、私が我慢している自分を見るのではなく、我慢されている自分を見ることになるのです。

自分の姿の至らなさが分かることによって、お互いに他を讃えるようになるのです。

私のために、あの人が働いてくれている、相手にそのような思いを持つことが出来れば、そのような社会においては悪事の犯しようがなくなってしまうのです。

 阿弥陀仏はいかなる衆生でもお救いになります。

どのような悪人も阿弥陀仏によって救われるのです。

したがって、私たちは阿弥陀仏の前では何もかまえる必要はないのです。

別に善人であるかのように務めなくても、そのままの姿で全てを阿弥陀仏の前にさらけだしてしまえばよいのです。

そのような意味で、私たちは何をしても、全て阿弥陀仏の手の中にある、常に阿弥陀仏の大悲心の中で生かされていると言えます。

ということは、私はどこにいても、いついかなる場合でも、その一切が阿弥陀仏に見られている中で生活していることになります。

例えば、浄土真宗では本堂で寝そべっていても、別にかまいません。

なぜなら、私たちは阿弥陀仏に本当に甘えることが出来るからで、本堂は自分にとって、本当に心の安らぐ場となっているからです。

けれどもその一方、本堂では絶対に悪事は行えません。

阿弥陀仏がご覧になっているからです。

一般に、人が見ている前で悪事は行えないものです。

誰も見ていないと思っているからこそ誤魔化したりも出来るのです。

 浄土真宗では、正しい生活を行えという厳しい規定は特にありません。

むしろ、善をなしえないと教えられながら、しかも阿弥陀仏の大悲に生かされている自分を知ることによって、浄土真宗の教えの盛んに地域では、お互い悪を犯さない社会を作ってきたのです。

「子供を叱れない大人たちへ」(上旬) 作文を書かせる

======ご講師紹介======

桂 才賀さん(法務省少年院篤志面接委員)

☆ 演題 「子どもを叱れない大人たちへ」

昭和二十五年東京生まれ。昭和四十七年に九代目桂文治師に入門。

昭和六十年に真打ち昇格、七代目桂才賀を襲名されました。

昭和五十五年から日本テレビ「笑点」レギュラーとして八年間ご出演、その後も多くの分野でご活躍しておられます。

平成十五年には、二十年間にわたる少年院慰問活動を『子どもを叱れない大人たちへ』にまとめられました。また、一昨年より関東管区警察学校教養課常任講師もお務めです。
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法務省少年篤志面接委員 桂 才賀 さん

 まず、家庭裁判所の審判で連れてこられました。

「あなたは少年院という所へ行くんですよ」ということになりました。

男の子でも女の子でも、始めは気持ちが動揺していますから、長い生活に慣れるために気持ちを落ち着けてもらって、何で自分が今こんな所にいるのかということをゆっくり反省してもらう。

そのために少年院単独室という部屋に入ります。

その子によって違いますが、だいたい十日ぐらいですね。

それから集団の部屋に移るんでございます。

 最初の十日間は、このお部屋から出るのは二日にいっぺんの入浴、お風呂ですね。

あと二日にいっぺんの日光浴です。

人間の虫干しです。

これはもう決まりなんです。

監獄法、少年院法で絶対しなきゃいけないと決まっているんです。

いやだ、出たくないって言っても出される。

三十分は日光に当たんなさい、お天道様に身体向けて身体を良くしなくちゃ。

それと入浴も、清潔にしなくちゃいけません。

 食事はどうするのか。

なんと、この単独室にいる間はルームサービスです。

ルームサービスは誰が持ってくるのか。

ボーイさんなんかいませんよ。

法務教官の先生が持ってくるんです。

それで、ただじっとしている訳じゃないんです。

心理テストはもちろん行います。

適正試験も行います。

 いろんなことをやりますが、その中でテーマを与えて作文を書かせます。

少年院ぐらい書かせる所はありません。

だからみんな字がきれいになります。

辞書を引くから字も覚えますし、十六、七歳なのに字がきれいです。

今の大学生の字の下手なこと、下手なこと。

今の大学生はパソコンがあるから字を書かないし、書く必要もないんですよ。

 「さて、今日はね、あなたが傷つけてしまった方のことを書いてごらん。

つまり被害者のことを考えてください」「今日の午前中はね、お母さんのことを書いてもらおうかな。

君のお母さん、どういうお母さんだったのか。

小学校時代はどうだったのか、中学校時代はどうだったのか、そして今この事件を起こして、お母さんはどういうお母さんだったのか。

それを書いてくれ」「今日はね、中学時代の先生のこと書いて」と、それぞれ毎日テーマを与えるんです。

「今日はおじいちゃんのことを書いて」「今日はおばあちゃんのことを書いて」なんて言うんだよね。

もう膨大な数を書くんです。