投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

先月は台風14号が発生し、川の氾濫・土砂崩れ等、九州各地に多くの爪跡を残しました

先月は台風14号が発生し、川の氾濫・土砂崩れ等、九州各地に多くの爪跡を残しました。

ニューオーリンズのハリケーンによる被害報道が既になされており、それと同等の威力をもつ台風として報道され、警戒されていたのですが、まさに「想定外」の風雨により各地で甚大な被害が発生しました。

今回の台風で、改めて自然の恐ろしさを思い知らされました。

海面の上昇など近年地球規模での環境変化は著しく、ハリケーンの数も毎年増加して、しかもその一つひとつが巨大になってきているということです。このままでいくと、この地球はどうなってしまうのだろうかと切実に思います。

先月のお彼岸前に、散歩をしていると道端で彼岸花を見つけました。

異常気象がいわれる昨今、毎年決まった時季に秋の到来を待ちわびていたように咲く道端の可憐な彼岸花を見て、何か心がホッと温かくなるのを感じました。

今年も季節は着実に移り変わっているようです。

秋の到来は、誰の目にもはっきりと見えるというものではありません。

朝夕の爽やかな風で感じたり、野に咲く花を見て感じたり…と、人によって感じ方はそれぞれ違います。昔の人は「秋が来たと目にはっきりと見ることは出来ないが、吹く風の音を通して“ああ、秋が来たな”と感じられることだ」と歌っています。

仏さまも目で見えるものではありません。お経を読んだり、お寺へお参りして法話を聞いたり、仏縁が重なる中で感じられるようになるものです。

これからの一つひとつの仏縁を大切にして、仏さまの願いをしっかりと心に感じながら、日々の歩みをすすめていきたいものです。

「頭をさげる」「頭がさがる」 同じようで大違い

 

 日頃、私たちはどのようなときに頭を下げているでしょうか? 挨拶をする場合を除くと、他人に何か物事を頼んだりするという場合が多いようです。

それは言い換えると、「自分に何か利益をもたらしてくれそうな相手に相対したとき」と言えるように思われます。

 つまり、その相手に対して心の底から頭を下げているのではなく、その相手が自分に何らかの利得をもたらしてくれるという期待感が頭を下げさせているのだと言えます。

そのために、相手に利用価値がなくなると、その途端に下っていた頭は持ち上がってしまうようです。

 一方、私たちは親切にしてもらったり、いわゆる「お陰さま」という思いを持ち得た時には、自然と頭が下がるものです。

それは、頭を下げたから何らかの利益を得ることが出来るからではなく「この私のために…」という感謝の心が自然と頭を下げさせるのだといえます。

 外から見ると「頭をさげる」ことと「頭がさがる」ことは、全く同じように見えます。

けれども、その内実には大きな違いがあります。

日頃の自分の生活を振り返ってみて…、いかがですか? 本当に心から「頭がさがる」ような事実と出会っておられますか?

仏教講座10月(前期)

 「かけがえのない私のいのちと人生を正しく見よ(正見)」というのが仏さまの教えです。

 仏教でいう「正しく」というのは科学的に正しいとか、法律的に正しいとか、道徳・倫理的に正しいということではありません。

「正見」とは「邪見」に対する言葉です。

邪見というのは、自己中心、自分の思いや計算、都合をものさしに見て、考えることです。

端的には、極めて自己中心的で欲望のままに生きようとする在り方のことです。

 したがってその反対の「正見」とは、自分の思いや都合、言い換えると本能・欲望・我執中心の生き方ではなく、それらを超えた「無我」といわれる、欲望・煩悩を超えた本当の無心の心でものを見、考えることです。

 仏教では、このような視点からいのちと人生を正しく見よといいます。

 ところで、仏教では「一切皆苦〜世の中はみな苦である」といわれます。

けれども、よく考えてみますと、確かに人生には苦しいことや悲しいこともありますが、その一方では嬉しいことや楽しいこともあります。

果たして、お釈迦さまは苦しみのみの一生を終えられたのでしょうか。

 実は仏教で「苦」というのは単に「楽」の反対、つまり楽しいことはひとつもないという、楽に対する苦という次元の言葉ではないのです。

『仏教語大辞典』には「思い通りならないこと、心身を悩まされて不安定に状態」と説明してあります。

 つまり、仏教でいう「苦」とは欲望通り、自分の思い、計算通りにはならないということです。

人生においての思い通りにならないこと、その代表的なことが老いと病と死であると仏教では教えているのです。

 老いとはどういう意味で苦であるかといえば、人は誰でもいつまでも若くありたいという願いを持っています。

けれども、その願いの通りにはならなくて、人はやがて必ず老いを迎えます。

同じように、人はいつまでも健康でありたいのですが、全く反対の病気が予期しない形で心身共に蝕んでいきます。

そして誰もがいつまでも生きていたいと思うのですが、例外なく死が訪れます。

これらは、人間の思い、願い、欲望と相いれない私の身の事実です。

私たちは、いつまでも若く健康で生きていたと願うのですが、やがて老い病に蝕まれ死んでいきます。

このように願いと反する矛盾を抱えながら生きているが故に、この事実に悩み不安を覚えるのです。

 一般に、人はこの苦がもたらす不安とその結果に惑わされてしまいがちですが、それは苦・不安の原因を自らの内、すなわち無明・無智・煩悩ということをしっかり見つめることから逃げているからに他なりません。

 けれども、苦・不安の原因を外にのみ求めていたのでは、いつまでたっても苦・不安からの解放、解脱はありえないというのが仏教の説く大切な点です。

「今病みゆく子どもたち… 私たちにできること、しなければならないこと」 全然待ってない(上旬)

======ご講師紹介======

元高校教師 水谷 修さん

今月のご講師は、元高校教師の水谷修さんです。

横浜市生まれの水谷さんは、幼少時代を山形で過ごされ、昭和五十年に上智大学文学部哲学科に入学、昭和五十八年からは高校教師として、横浜市内の高校を歴任されます。

昨年九月に退職、その後も夜回りという深夜の繁華街パトロールでのご経験をもとに、専門誌や新聞、雑誌への執筆、テレビ・ラジオなどへの出演、日本各地での講演を通して、薬物汚染の実態を広く社会に訴え続けておられます。

著書に「夜回り先生」「さらば、哀しみのドラッグ」等を出版されています。

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 今、ものを考えられない子どもたちが非常に増えています。

我々普通の大人というものは、何か行為をするときに、法に背くか背かないか、人に迷惑をかけるかかけないか、そして社会のためになるか誰かのためになるか、そういったことを総合的に判断して行動します。

 つまり、規範式というものを我々は持っています。

今の二十代ぐらいの若い子たちはそれを失っています。

ものを考えられないから周りを見渡し、常に周りと同じことをしようとします。

 でもこれは当たり前のような気がします。

我々はものを考えるような子育てをしていません。

子どものころは、常に「ああしなさいこうしなさい。

何をやってんのダメでしょ」と指示型でしょ。

思った通り動かして、ある年齢になったら「はい、自分で考えなさい」、それは無理だ。

 例えば、産まれた赤ちゃんを二十代までだっこして育てたらどうなりますか。

歩けない二十歳の子どもを作ってしまう。

だから、八、十カ月の立ち始めのころ、転んで頭を打って、泣いて「ママっ!」て来ても、「自分で立つのよ」と、心を鬼にしてわざと背中を向けて、一生懸命立ったら「よくやったね」と抱きしめて、これを繰り返して立って歩くことを学ぶ。

痛い思いやけがをしないで立って歩けた人間はいません。

 心だってそうなんです。

大人の目から見て、親の目、おじいちゃんおばあちゃんの目から見て、

「そんなことしたら失敗しちゃうよ。

そんなことしたら怒られる、まずいよ」

とわかっていても、自分で決めた以上やらせて、その責任をとらせ、償いをさせる。

それを繰り返していかないと、ものを考えて自ら決断し、自ら動く能力が身についていかないんです。

 それが今家庭でも学校でもできていない。

待てないですもの。

教育も子育ても全然待っていない。

時の流れが速すぎます。

 今からちょうど三年前です。

最後に僕が持った夜間高校のクラス、二年生のときでした。

イタリア製の二万六千円相当の財布が盗まれました。

中には二万円のアルバイトの給料が入ってた。

四万六千円相当です。

大変な騒ぎになった。

そのときに一人の教え子が「水谷先生、○○さんがとったの見たよ」と僕のところに言ってきました。

 とったとされた子は、実はお母さんと二人暮らし。

当時お母さんが入院していて、生活保護を受けていた。

貧しかったです。

「学校やめて働いてお母さん助ける」

と言う彼女を、

「いいから卒業しよう。

授業料とか先生が出してやるから」

と引っ張ってる子でした。

しくじったと思いました。

でもその子に

「ともかく、もしかしたらただ触ってみただけかもしれないから、お前誰にも言わないでくれ。

先生、解決するから」

と、教室にクラス全員を集めました。

今、生かされている実感を ■我がこととして

次は「私しかない」です。

親鸞聖人のお言葉にある「聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれぱ、ひとへに親鸞一人がためなりけり」。

如来さまのご苦労、我々を救わんとなさるそのお心を問い尋ねたら、親鸞一人のためやとおっしゃる。

これは何も親鸞聖人だけ助けて、後の者がそうじゃないというんじゃないんですよ。

親鸞聖人が我がこととして真っ直ぐ受け止めてらっしゃる。

ということは、お法に遇い、如来の本願に遇うということは聞いた人、その人その人が主体的に自分のこととして受け止める。

ここに仏法聴聞の一番大事な基本姿勢があるんです。

人ごととして聞くんじゃない。

私が直接参加、直接私のこととして受け止めていく。

私を救わんがためにと受け止めるのが一番大事なことなのです。

 今日はかけがえのない存在に遇うことによって、このちっぽけなつまらん私もかけがえのない存在に足らしめるということをお話ししました。

他に代わりはないんですよ。

小さくとも、弱かろうとも、そのかけがえのなさは何ものにも代わることができない。

そのかけがえのないことに気づくことが私は仏法聴聞の要だと思います。

そしたら全て周りのものも大事にせずにはおれない生活が始まるのではないでしょうか。

『老いてみて わかることのある喜び』

「無量寿」という言葉を聞きますと、私達は寿命が何千年、何万年と続いていくかのようにイメージします。

けれども長生不死ということがそのまま喜びになるかというと、そこに喜びが伴わなければ、むしろ終わりのないことが苦痛になってしまうと思われます。

ですから、長生不死とか不老長寿ということは、そのまま人間としての満足にはならないのです。

やはりそこに生きていることの喜びを伴うことが大切になるのです。

そしてその喜びは決して孤独なところにあるのではなく、必ず「共に」というところにあります。

自分の周りの人が信じられ、本当に語り合える人がいるときに、人間はどんな苦しみにも耐えられるし、本当に心から喜ぶことが出来ます。

一方、どんなに嬉しいことがあっても、それを共に喜んでくれる人がいなければ、その嬉しさも半減してしまうものです。

老いるということで、身体面ではそれまで当たり前であったことが当たり前ではなくなることも多々ありますが、その一方、多くの体験を通してそれまでに気付き得なかった世界に目が開かれることも多々あるものです。

年齢を重ね「老い」ることを「朽ち果てて行く悲しみ」として嘆くか、「毎日新しい自分に生まれる喜び」として味わって行くか、あなたはどちらを選びますか?