投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・登岳篇5月(9)

ばたばたと、廊下を走ってきて、

「性善坊」

範宴が、部屋をのぞいた。

「はい」

「お師さまのおゆるしがでた。

明日は、早う立つぞ。

脚絆や、笠の支度をしてたも」

「どこへ、お立ちでございますな」

「そなた、知らぬのか。お師さまは叡山の座主におなりなされたのではないか」

「それは、存じてまいすが」

「だから、わしも、叡山へ登って、苦行と学問をするのだ」

「ははは」

「なにを笑う?」

「お得度を受けたことでも、お師の僧正さまは、天台の宗規を破ったとか、横暴だとか、世間からも中務省の役人からも、非難されているのですから、とても、叡山などへ、範宴さまを、お連れくださるわけはありません」

「だって、ゆるすと仰っしゃった。仏につかえる師の君が、嘘を仰っしゃるはずはない」

「でも、だめでございます。まだ、九歳のお弟子に、登岳をおゆるしになるはずがあるものですか」

性善坊は、ほんとにしないのである。

山の苦行にたえられるはずもなし、山の掟(おきて)というものは、町の寺院とはちがって、峻厳(しゅんげん)にして犯すべからざるものであるから、それを破っては、座主として、一山の示しもつかないというのである。

「そうかしら?」

範宴は、不安になった。

寝床へ入っても、範宴は、眼をぱちぱちさせていた。

夜半(よなか)ごろから、窓の小障子に、さらさらと雪のさわる音がしていた。

範宴は、起きだして、そっと庫裡(くり)の方へあるいて行った。

雨戸のない濡れ縁には、雪がまるく溜まっていた。

慈円僧正は、未明のうちに、脚絆をつけて身支度を済ましていた。

供について行く者と、後に残って見送る者とが、山門の両側に並んで、列を作っていた。

夜来の雪は、明け方にかけて、風を加えて降りしきっている。

僧正は、笠のふちに手をかけて、

「さらば――」

と、一同へ訣別(わかれ)を告げた。

三人の弟子は、かいがいしく身をかためて、師僧の供について歩きだした。

いると、山門を降りた所の木陰から、思いがけない範宴が、藁沓(わらぐつ)をはき、竹の杖を持って、ふいに横から出て、供の僧のいちばん後に尾(つ)いてあるきだした。

弟子僧たちは驚いて、

「おや、おまえは、どこへ行くつもりだね?」

「叡山へ、お供して参ります」

「冗談じゃない。

叡山というところは、お小僧なぞの行けるところではなし、また、掟として、年端(としは)もゆかぬ者や、入室して、半年や一年にしかにならぬ者の登岳はゆるされぬ」

「でも、参ります」

「叱られるぞよ」

「叱られても参ります」

「帰れ」

「こいつ、剛情なやつ」

と、弟子僧たちが、止めているのを、振りかえって、慈円僧正は、困り顔をしながらも、苦笑をうかべて、眺めていた。

範宴は、弟子僧たちの間を、くぐり抜けてきて、師の袂(たもと)をつかまえて、訴えるような眼をした。

親鸞・登岳篇5月(8) 雪千丈

粟田口の雑木の葉がすっかり落ちきって冬日の射す山肌に、塔の欄が赤く見える。

霜は、朝ごとに、白さを増した。

範宴少納言は、暗いうちに起きて、他の僧たちといっしょに、氷のような廻廊を、水で拭く、庭を掃く、水を汲む。

それから勤行の座にすわる。

やっと、南天の赤い実に、陽のあたるころとなって、厨(くりや)の一仕事をいいつけられる。

それが済むと、学寮に入って、師の坊の講義だの、僧たちの討論をきいて、やっと、自分のからだになって、机に坐るのが、もう午(ひる)であった。

「おいたわしい」

と、性善坊は、範宴のかわりに、水を汲んだり、拭き掃除をしようとしたが、他の僧に見つかると、

「ばか者、なんで寺へ入れた」

といわれる。

慈円僧正もまた、

「庇(かば)うことはならぬ」

と、叱った。

以来、見て見ぬふりをしているが、時折

「ああ手が腫れていらっしゃる……」

と、彼のあかぎれを見ても、胸が迫った。

こういう、世間なみの人情を、寺では、凡情とわらう。

もっと、ほんとうの愛をもてという。

「そうかなあ」

彼自身もまた、自身の勉強にせわしかった。

十二月に入ると初旬の三日には、慈円僧正が叡山にのぼるということを、範宴は、弟子僧から聞いた。

叡山の座主であり、慈円僧正の師でもある覚快法親王が、世を去られたために、その後にのぞんで、一山の大衆を導くことになったのである。

だが、慈円は、そんな身辺の変化が、明日にも迫っているとも知らないように、一室で、例の支那から渡来した茶の葉を、独りで、煮ている。

「お師さま」

範宴は、そっと手をついた。

「なにか」

「おねがいがあります」

「ほ……。菓子でもほしいか」

「いいえ、ちがいます。――お師様は、明日、叡山へおのぼりになると聞きました」

「うむ」

「私を、連れて行ってください」

慈円は、笑った。

「叡山を、知っているか」

「朝夕(ちょうせき)、ながめています」

「うららかな日は、慈母のように、やさしく見える。

だが、あのお山のふところには、どんな苦行があるか、それをおまえは知るまい」

「聞いています。修行は、苦しいものだと、皆さまが申します」

「でも、登る気か」

「一人では、ゆかれません。お師様のお供をしてなら、どんな、苦しいところへでも、従(つ)いてゆける気がします」

「もののふの戦よりも、もっと、辛いぞ」

「そういう、苦難とやらに、この身をためしてみたいのです」

「それほどに、決心してか」

「はい」

ぱちりと、範宴は、眼をみはっていった。

じっと、僧正を見つめていた。

うっかり、下ろした茶瓶のふたが、かたかたと、おどった。

そっと、火鉢から下ろして、

「よろしい」

慈円は、うなずいた。

それまで、恐いものの前に坐っているように硬くなっていた範宴は、

「ほんとですか」

よろこんで、小さい掌を、ぱちっと叩いた。

真宗講座末法時代の教と行 5月(後期)

周知のように

「末法」

とは、仏教の歴史観の一つであって、釈尊の説かれた教えが、釈尊の滅後、時代とともに、いかに変遷し衰退していくかを示す思想です。

これには、いくつかの場代区分・見方がありますが、その代表的なものの一つが『教行信証』に引用される『安楽集』の、

経の住滅を弁ぜば、謂く釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せむ。

如来、痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経を留めて止住せむこと百年ならむ。

です。

これによれば、釈尊滅後の仏教思想の推移を、時代的に四つに区分し、各々の時代の仏教の状態が次のように説かれてています。

第一は釈尊滅後の五百年間で、この時代は釈尊の教えや行道も、また証果に至る人も盛んであるが故に

「正法」

と呼ばれます。

第二は以後の一千年間で、この時代は教えは未だ盛んであるものの、行道には既に翳りが見られ、形のごとくしか行はなされません。

したがって、証を得る者は一人もいないために

「像法」

と呼ばれます。

なお

「像」

とは、似ているという意味です。

第三が

「末法」

で、以後の一万年を指し、この時代は仏の教法だけは残っているものの、もはや教えにしたがってその通りに道を行ずる者は一人もなく、ましてや証に至る者は誰一人いないとされています。

そして、第四が

「滅法」

で、末法の後は釈尊の教えはことごとく滅するものの、ただ阿弥陀仏の教法のみはそれ以後も輝くと説くのです。

ただし、今ここで問題にしているのは、末法における仏教です。

さて、既述の教示から、仏教には

「教」と「行」と「証」

の三つの柱のあることが知られます。

この中の

「教」

とは釈尊の教えのことで、悟れる仏が迷える衆生に対し悟りへの道を説く教法という意味です。

「行」

とは、迷える衆生が釈尊の教えにしたがって、一心に仏果への行道に励むことだと言えます。

そして、教えにしたがって完全に行を成し得た結果が

「証」

ということになります。

だとすれば

「証」

は結果ですから、ここで重要なことは

「教」と「行」

とが、どのように関係し合うかということになります。

正法の時代は、教と行とが完全に調和していたので、人は証果に至り得ることが出来ました。

ところが、像法の時代には仏の教えにしたがって一心に行道を修する者はいるものの、教の本意にしたがうことが出来ず、ただ真似ごとの行しか成し得ないために、証果に至り得る者は一人もいなくなってしまいます。

さらに末法の時代には、完全に仏道が廃れ、もはや真似ごととしての行道を修する者さえ誰もいなくなり、ただ教のみが残っているだけで、当然のことながら誰一人証果に至ることは出来ません。

そこで、親鸞聖人は釈尊の行道の完全に消滅してしまった時代に生きる仏道者の姿を、次のように悲嘆されます。

釈迦如来かくれましまして二千余年になりたまふ

正像の二時はおはりにき如来の遺弟悲泣せよ

ただし、親鸞聖人は単に悲嘆にくれることだけに終るのではなく、末法の時代における真の仏教とは何かということを真摯に求められます。

真に仏道を行じる者は誰一人として存在せず、ましてや証果を得ることなどありえない現実において、真の行道とは何であり、人はいかにして仏果に至り得るのかということを尋ねて行かれるのです。

ある意味か言えば、このような求道のあり方は極めて滑稽ともいうべきで、不可能の中に自身を佇ませる行為に他ならないと言えます。

しかしながら、このような求道があったからこそ、釈尊の仏教が行なき時代に至った末法における真実の行がまさに

「念仏」

であり、同時に証に至り得ない者を証果に導く教えこそ

「念仏」

であるという

「浄土真宗」

の教法が、親鸞聖人によって明らかにされることになったのです。

では、その浄土真宗の教法とは、いったいどのような教えなのでしょうか。

この法門では

「教と行」

とが、どのように関係し合うのでしょうか。

この求めに先立って、釈尊の仏教の教と行との関係をまず要約します。

「教」

・仏の教えであるために、教はどこまでも真実であり、仏から衆生へという方向を持ちます。

したがって、教の性は「仏」の側に属します。

「行」

・衆生が仏果を得るために、教にしたがって一心に修する行道で、そのために行は衆生から仏へという方向をとります。

したがって、行の性は「衆生」の側に属します。

「悲しみの感動よろこびの感動」(下旬)涙が溢れ出て…

元気がいいですからね、十二時半ぐらいまで起きています。

やっと母を寝かしつけて、それから原稿を書いたり、いろいろな仕事をします。

そして寝て二時間ぐらいしたら、また母が私を呼びます。

「私が死んだら、どぎゃんするかな」

って言います。

そんな時ですね、爆発するんですよ。

もう押さえていたものが。

「お母さん違うよ、しっかり長生きせないかんたい」

と言うて、自分の部屋に帰って、たまに机を叩くことがあります。

バーンと爆発するんでしょうね。

もちろん、私は母に荒い言葉を言うたり、手をあげたりすることは絶対にありませんけど、もうたまらんようになるんです。

机を叩いた後、涙が噴き出るように出る。

なんという自分だろうか。

たった一人の母親、金持ちの家から貧乏な寺に嫁いで、私を産み、私の父は二十六年間も声が出なかったんですから、そりゃ苦労した母ですよ。

全部分かっとる、理屈ではね。

分かっていながら

「ああ」

と言って机を叩いてしまう。

自分、もう涙が溢れ出ます。

その時に、お念仏が出るんです。

ナンマンダブ、ナンマンダブ…。

悲しい哉というそんな浅ましい私が、仏さまに許されている、抱かれている。

私は走ってご本堂に行きます。

そして、仏さまの前に座って、小さな声でお勤めをします。

こういうことを考えますとね、えらい自分のことばかり申しましたが、この人生の中でずいぶん世の中のも便利になり、豊かになり、贅沢になりましたが、

「悲しみの感動」、つまり私を見つめて、仏さまの光に照らされて、

「ああ、この愚かな浅ましい私」

と気付かせて頂く。

そうして、その浅ましい私が仏さまに抱かれている慶び。

「慶ばしい哉」

という喜びの感動。

これに出遇わせて頂くということが、非常に大事なことなのではないでしょうか。

『にげる私を追いかけてついてはなれぬ御仏(おや)がいる』(後期)

  苦悩、絶望の中だからおかげさまと出会えるどんなに小さくても

  どんなにかくれられてもチラッと足元が見えるだけで

  あなたと出会えます

(鈴木章子『癌告知のあとで』探究社刊)

これは、鈴木章子さんという、北海道の西念寺の坊守さん(お寺の奥さん)が、乳がんの告知を受け、47歳で亡くなるまでの3年間、病床において書かれた手記の中にある

「おかげさま」

という詩です。

私たちは、楽しいことや得した時、自分の都合のいい目に遭うと

「おかげさま」

と喜ぶけれど、苦悩や絶望の淵にあって、本当に

「おかげさま」

なんて言えるのでしょうか、私はそれは強がりではないのかと最初は素直に受け取ることが出来ませんでした。

しかし本を読み進めて行くうちに、章子さんが阿弥陀さまとの出会いのなかで、苦悩、絶望の私が、そのまんま受け取られ、不安のまま安心となる世界があるのかなと思えるようになりました。

親鸞聖人の和讃の中に

     『十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし

     摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる』

とあります。

私のあらゆる苦悩、絶望を見通して(真実の私)、それに気付かぬ私を追いかけ、けっして離れることなく私を救うと、働き続ける親がいるそれは阿弥陀さまという御仏(おや)であると訳せるでしょうか。

今までの自分は、本当の自分の姿に気付かないまま、あれが得,あれが損と目先の出来事に囚われ、全てが当り前と思っていた。

でもある日突然病気という苦悩・絶望の中に突き落とされ、悩み苦しむ中で、阿弥陀さまの

「必ず救う」

という願いに出会われた。

その中で、真実の命(諸行無常:自分の思うようにはならない)の姿に気付かされ、

「そんな苦悩を抱えるお前だからこそ離れないぞ、必ず仏となる

「いのち」

と生まれさせる」

と働き続けていてくれた御仏(おや)がいたと頂かれたのではないでしょうか。

どんな時でも、願われながら輝く命を今生きている。

それが真実の私であり

「おかげさま」

と喜んでおられるのでしょう。

そして気付かぬ私にその事を教えてくれたのが、苦悩、絶望という縁であったと頂かれたと思うのです。

合掌

かなり私事ですが…最近、引っ越しました。

かなり私事ですが…最近、引っ越しました。

引っ越し業者には頼まず家族だけで行ったのですが、荷造り〜搬送〜荷解き〜の連続で本当に大変でした・・・(>_<) 荷物の多さにビックリ!!! 「こんなにあったんだっ!!」 と感心しつつ!?(笑)、新しい居宅に移りました。 引っ越しもひと段落して主人の荷物を整理していると、『育児日記』と書いてある厚い本を発見!! 「なに?なに?…」 と思い開けてみると、主人のお母さんが書いていた育児日記でした。 母乳をどれくらい飲んで、何時に寝て、夜泣きを何回した・・・などなど... 毎日の赤ちゃんの様子や生活がこと細かく記録されていました。 日々の生活以外にも、お母さんになった喜びや不安、自分の両親(主人の祖父・祖母)への感謝の気持ちも書かれており、読み進めるうちにそこにお母さんがいるような気がして温かい気持ちになり、自然と涙が出てきました。 私も7月に出産を控えており、 「母親としてこんな良い教材は他にはないなっ」 と感じました。 愛情たっぷりなお母さんの育児日記を見ながら、初めての出産、育児を楽しんで頑張ります!!