投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞聖人の往生浄土思想 (3月後期)

親鸞聖人のこの解釈によれば

「南無」

とは、弥陀の願意であって、阿弥陀仏が一切の衆生を救うために、発願廻向されている心を意味し、その阿弥陀仏の、一切の衆生を救い続けている本願力の

「はたらき」が、

「阿弥陀仏」

という

「すがた」

だと捉えられています。

したがって弥陀の名号といえば、一般的には

「阿弥陀仏」

の四字を指し、

「南無」

は衆生の側に属するのですが、親鸞聖人においては

「南無」

も含めて、六字の全体が弥陀の名号だと解釈されるのです。

だからこそ、衆生が

「南無阿弥陀仏」

と一声念仏を称える、そのときすでに、その衆生を攝取するという弥陀の願力に、この念仏者の全体が覆われ、この人の心は光明無量・寿命無量という功徳で満たされていることになります。

念仏者はこのように、どのような時、どのような場においても、このように無限の光明によって輝いているが故に、

「念仏者は無礙の一道なり」

といわれるのです。

ただし、この真理はどこまでも念仏法門の道理であって、自分自身がこの仏道の真実に、自らの全人格的な場で出遇わない限り、称えられている念仏は、自分にとって単なる音声でしかありません。

親鸞聖人が法然聖人に出遇われるまで称えておられた念仏は、まさしくこの単なる音声としての念仏であって、その称名は親鸞聖人に苦悩をもたらすものではあっても、悟りに導かなかったのはそのためだといえます。

けれども、一度阿弥陀仏の本願力廻向の念仏が信知されたとき、親鸞聖人の心には何かが明らかになったのです。

それは、何かというと

「光明無量・寿命無量という最高の仏が、いま南無阿弥陀仏となって自分の心に来たり、自分を攝取している」

という、念仏の真実を獲信されたのです。

そうだとすれば、その獲信の瞬間、親鸞聖人はすでに往生が決定している自身の姿をご覧になられたのだと言えます。

阿弥陀仏がこの世に来たり親鸞聖人を包みこんでいるという、弥陀の大悲心を信知されたからです。

この点を親鸞聖人は『一念多念文意』で本願成就文の

「即得往生」

を解釈され、

「即得往生」

といふは、即はすなわちといふ。

ときをへず日おもへだてぬなり。

また即はつくといふ。

そのくらゐにさだまりつくといふことばなり。

得はうべきことをえたりといふ。

真実信心を得れば、すなわち無礙光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまはざるなり。

摂はおさめたまふ、取はむかへとるとまふすなり。

おさめとりたまふとき、すなわち、とき日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを、往生をうとはのたまへるなり。

と述べておられます。

真実信心を獲得すれば、念仏者はすでに弥陀の摂取の光明の中に抱かれているのですから、その瞬間、この人は正定聚の位に住しています。

今はその姿を

「往生をう」

というのだとされます。

「本願海流」(下旬) お慈悲の光線に

 ところが、よく仏さまの教えを聞いてみましたら、その自分こそ、実は阿弥陀さまのご本願に抱き取られている自分だということが分からせてもらえるのです。

これが

「機の深信と法の深信」

と言われているものです。

「機の深信」

とは、助からん自分のことを言います。

私の正体を深い内省によって、仏さまに照らされることによって自覚することですから、

「地獄行きの私だ」

というのが機の深信なんです。

そのような存在が、お浄土なんて到底往けるはずがないんです。

 親鸞聖人の

「一念多念証文」

の中に

「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」

とあります。

 

「無明煩悩われらが身にみちみちて」

真っ暗闇の心が自分の心の奥底にある。

そして

「欲もおほく」

「この頃、とんと欲がなくなりました」

とか言う方がいらっしゃいますが、あれは元気がなくなっただけなんです。

だって最後は

「死にとうない」

という欲があるんですから。

これが凡夫の正体なんです。

これが、仏さまに見抜かれた私の姿なんですね。

 凡夫とは、ただ有限な存在だとか、力が足りない存在だとか、そんな単純なことじゃないんです。

絶望的な存在のことを凡夫というんです。

それは自分の力では見えません。

仏さまのお慈悲の光線に照らされて、初めて真っ暗闇の自分が分かるんです。

 このことが分かった時、願力に乗じて往生できる、

「往生間違いなし」

と知ることができます。

それを

「法の深信」

というんです。

「絶対に助からない私が絶対に助かるんだ」

という論理が、阿弥陀さまのお慈悲というものなんです。

助けることの出来ないものを助けようというところに、人間と違う仏と呼ばれる広大無辺なお慈悲があるんですね。

これが、私たちが生きているこの世界の一番深いところにはたらいておったということを最初に発見されたのが、お釈迦さまなんですね。

つまり、阿弥陀さまのご本願を発見なさったんです。

 そして、阿弥陀さまとは、大きないのちのことです。

阿弥陀さまという特別な方がどこかにいらっしゃるのではなくて、あるゆる生きものを生きものたらしめている、目には見えないけれども感じることのできる大きないのちを

「阿弥陀」

というんですよ。

 そして、この阿弥陀さまから発せられる光線は、物質的なエネルギーと違うから慈悲というんです。

冷たい法則ではないから、慈悲です。

お釈迦さまの口を通して、その大きないのち自身が語り出て下さったのを、阿弥陀さまのご本願

「南無阿弥陀仏」

と言うんです。

今月の11日で、東日本大震災から1年が経ちました。

今月の11日で、東日本大震災から1年が経ちました。

震災の直後から、テレビでは一般企業が自社製品のCMを自粛し、変わってACジャパンが制作した公共広告が放映されていたことはご記憶のことと思います。

 その中で、かわいい動物が次々と出てくる

「あいさつの魔法」

という歌が耳に残りました。

 ♪ こんにちは(こんにちワン)

   ありがとう(ありがとうさぎ)

   まほうの言葉で

   楽しいなかまが ポポポポーン ♪

 去年の流行語にもマミネートされたほどですから、多くの人の印象に残っているのではないかと思います。

 あの時、大地震や大津波、原発による放射線被害などが連日のように報道される中にあって、唯一あのCMが流れる間は、心が癒される気がしました。

「次は、どんな仲間(動物)が登場するのかな?」

と、期待感さえ持って見ていたほどです。

その後、復興に向けて社会全体が動き出す中で、6月末日を持ってこのCMの放送は終わりました。

 それから夏が来て、秋が終わり、いつの間にか一年が暮れようとしている頃、

「今年を振り返る映像」

が流される中で、約半年ぶりにこのCMを見ました。

その瞬間、私の中に突然

「被災地は大丈夫かな?」

という、大震災発生直後によぎった様々な思いが甦ってきました。

 その時、いつの間にか私は、このCMの中に大震災直後に感じた様々な思いを無意識の内に刻み込んでいたことに気がつきました。

思い出に残る歌を聞くと、その頃の様々な事柄が一緒に思い出されることがあったりしますが、それと同じような体験をこのCMに持ったのです。

 おそらく、被災者の方々は、この一年間、色んな場面で、震災直後の事を思い出し、大変な気持ちを抱えながら毎日を過ごしてこられたことと思います。

 東日本大震災の発生時、鹿児島にいた私は、地震も津波も体感した訳ではなく、ましてやそれ以降の被災者の方の苦しみやご苦労、将来に対する不安を理解することなど、とうてい出来るものではありません。

でも、被災された方々に寄り添おうとする気持ちを持ち続け、これからも少しでも出来ることがあれば、何らかの形で支援させてもらいたいと思っています。

『あなたがいてくれたから がんばれたよ』

 親鸞聖人は、念仏者として生きていることのしるしというものを

「ねんごろのこころ」

を持つということの上にご覧になっておられます。

「ねんごろ」

というのは、

「あの人はねんごろな人だ」

という言い方をしたりしますし、身近なところでは

「懇親会」

「懇」

という言葉だと言えば、お分かり頂けることかと思います。

 辞書で調べてみますと、

「根も絡みつくほどに」

ということから、相手の人と根を一つにするという心を表しているのではないかと説明してあります。

また、

「心づかいのこまやかなさま」

「まごころでするさま」

「互いに親しみ合うさま」

というようなことが述べられています。

これらのことから、

「ねんごろ」

という言葉は、相手の気持ち、さらに言えば相手の存在を思いやる心だということが窺い知られます。

 そうしますと、親鸞聖人が言われる念仏者とは、相手の存在そのものを常に心にかけ、思いやる人のことだと言うことができるようです。

 このことを理解して行く上で、ひとつ注意しておかなくてはならないことがあります。

それは、

「相手を思いやる」

というのは、自分の思いで相手を思いやるのではないということです。

どれほど自分では

「ねんごろ」

なつもりであっても、自分の思いで相手を思いやると、時として相手の人にとっては煩わしいだけということが少ながらずあるからです。

 このことから

「ねんごろ」

ということには、ただ単に相手を思いやるということではなくて、そこに相手を思いやる心を持って、相手に聞くということ。

そして、相手の心に尋ねるということがその根底にはあるように思われます。

 日頃、私たちは自分なりに何か相手のことを考えて、

「こうすると、とても喜んでもらえるだろう」

と、何かそういう形で自らの善意を押しつけてしまうことがあります。

けれども、

「ねんごろ」

という時には、精一杯のことをしながら、しかもなおそこに相手の気持ちを思い計るということが大切になってくるのではないでしょうか。

 ところで、親鸞聖人はなぜ念仏者として生きていくことのしるしを、この

「ねんごろ」

ということ以て示されたのでしょうか。

それは、おそらく私たちがねんごろな心を失い、

「悪(あ)しかりし心」

をもって

「ひとえにわがおもうさま」

なことばかり言い合って生きているからだと思われます。

「悪しかりし心」

というのは、ただいけないという事柄ではなく、人間としてのあるべき心を失っているということです。

仏教における

「悪」

とは

「嫌悪」

というときの

「悪」

という意味で使われます。

したがって、仏教でいう場有為の

「悪」

とは、人間として

「嫌悪」

すべきあり方に陥っているということで、法律的に罰せられるとかいうことではないものの、人間としてのあり方を失い、損ないながら生きているということを意味しています。

 そして、そういう

「あしかりしこころ」

を持つ人は、自分の思いのままにものを言い、自分の思いのままに行動し、しかも自らを正当化しながら生きています。

それは、どこまでも自己に固執する生き方であり、他に対していつも自分を閉ざした心にほかなりません。

したがって、そのような生き方においては、人間としての出会いというものが開かれてくるということは決してありません。

 今出会っているその人を、固定観念や先入観で決めつけることなく、一人ひとり真向かいになり、その一人ひとりを深く見つめ、一人ひとりの心に静かに耳を傾けていく。

そこに、今出会っている人と敬い合い、支え合いながら生きる、まさに根が絡み合うほどに共に生きて行くような関わり方が生まれて行くのだと言えます。

 私たちの人生は、なかなか自分の都合のいいように展開することもなければ、我が身のことさえも思い通りにはならないものです。

だからこそ、お念仏のみ教えを聞くことを通して、ねんごろの心を持つとき、そこに

「あなたがいてくれたから、がんばれたよ」

とお互いに語り合えるような、あたたかな人間関係が生まれてくるのではないかと思われます。

親鸞聖人の往生浄土思想 (3月中期)

ここで、この法の流れを整理してみますと、

(1)阿弥陀仏は本願に念仏を選択し、その念仏によって一切の衆生を攝取するという本願を成就して、その念仏を十方に響流する。

(2)釈迦仏は、弥陀三昧の中で、この念仏の法を領受し、釈迦仏の国土の衆生を救うために、その法門を説法する。

(3)釈尊が説くその念仏の法門が、純正浄土教に伝承される。

(4)その念仏の真理が、善導大師によって説かれ、わが国では法然聖人によって明らかにされた。

(5)法然聖人の説法という浄土真実の行によって、親鸞聖人は弥陀の本願を獲信した。

ということになります。

では、この

「信」

によって、親鸞聖人にどのような真理が明らかになったのでしょうか。

阿弥陀仏は本願に

「至心信楽欲生我国、乃至十念」

と誓っておられます。

一般的にこの三心と十念は、衆生が発起する信心と念仏であると解釈されています。

けれども親鸞聖人は

「至心信楽欲生」

の三心は、弥陀が本願に一切衆生を浄土に往生せしめるために成就された大悲心であり、

「乃至十念」

は弥陀から一切の衆生に呼びかけられている本願招喚の声だと見られます。

それゆえに

「南無阿弥陀仏」

という称名念仏は、称えている念仏者の行ではなくて、その衆生を攝取するための、阿弥陀仏の大行・大信であると捉えられることになります。

では

「南無阿弥陀仏」

という六字には、どのような義があるのでしょうか。

この南無阿弥陀仏を善導大師は『観経疏』

「玄義分」

で、

南無というは則ちこれ帰命なり、またこれ発願廻向の義なり。

阿弥陀仏というは、則ちこれその行なり。

この義をもっての故に必ず往生を得。

と解釈されます。

私たちが称える称名念仏について、

「南無とは阿弥陀仏に対して一心に帰命し、その浄土に往生したいとの願いを発起する義である。

阿弥陀仏とは、まさしく称名行であるがゆえに、願と行を具足して、必ず往生を得る」

と述べられるのです。

 ところが親鸞聖人は、この称名念仏を、私たちが称える以前に、阿弥陀仏から衆生の心に来る弥陀の大悲心のはたらきであると捉えられ、この六字を次のように見られます。

『「南無」

とは帰命であり、その帰命とは、阿弥陀仏の本願招喚の勅命である。

「発願廻向」

とは、阿弥陀仏が発願して、衆生が往生するための行を、弥陀自身において成就し、その行を衆生に廻施されている。

阿弥陀仏の大悲心である。

「即是其行」

とは、その念仏が阿弥陀仏の選択本願の行だということである。

「必得往生」

とは、それゆえに、衆生がこの願力廻向の真実を聞き信じた瞬間に、往生することを示しているのである。

「本願海流」(中旬) 仏に遇えない私

私たちの今生きている世界を

「娑婆」

といいます。

でも、生まれて死ぬだけでは、娑婆は終わりません。

死んでも、また生まれるんです。

その新たに生まれたところもまた娑婆なんです。

そして、その娑婆のいのちもまた死ぬんです。

それがどこまでも続いていくから生死と言うのです。

 この生死の世界というのは、一回生まれて一回死ぬだけの世界ではありません。

「死ぬのはいやだ」

と思っている。

その心を無限に終わりなく繰り返していかなければならない。

これを生死流転と言います。

私たちは、人間に生まれて初めて

「死ぬのはいやだなあ」

と思ったんじゃないんですよ。

人間に生まれる前も何かの生を受けていて、そこでもきっと

「死ぬのはいやだなあ」

と思っていたに違いありません。

 よく

「死んだらおしまいだ」

という人がいますが、その人はきっと、そのように思いたいのでしょうね。

ただ、もし死ぬことがすべての終わりだったら、あるいはすべてがそこで解決するのであれば、死ぬことを恐れることは何もないじゃないですか。

ところが、

「死んだらしまいだ」

と言うている人が、実は一番死にたくないんです。

そこに、人間の大きく厄介な問題があるんです。

 確かに私たち人間は、せいぜい百年かそこらしか生きることの出来ない有限な存在です。

けれども、その有限な私が抱えている問題は、有限じゃなく無限です。

それを生死流転というんです。

ところが、私たちは、それをそうは思わないで、この世のいのちが終われば、すべてが終わりだと思ってしまうのです。

 具体的に言うと、物質的な姿が非常に肥大化して、物質の現象がすべてだという考え方が出てきました。

けれども、死ぬということだって、誰も見たことはありません。

死体というのはものですからね。

体というのは、死ねば硬直して腐っていきます。

あれは物質の変化なんです。

ですから、死体というのは死んだ人じゃないんですよ。

ましてや、お念仏の人はお浄土に往っているんですから、棺桶には入っていないんです。

棺桶の中に入っているのは体ですよ。

体はその人じゃない。

いわば、この世に脱ぎ捨てた着物です。

仏教が問題にするのは、着物じゃありません。

その自分というものを問題にするんです。

これはなんとも、名付けようがありません。

 そこを善導大師は

「自身」

と言われた。

「自身は現に此れ罪悪生死の凡夫」

と。

この自分というものは何者か。

それは、体じゃない、罪悪生死の凡夫だ。

「曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」

の身だと。

つまり、無始無終の世界を流転輪廻している、なんとも名付けようがない存在であるということを罪悪生死の凡夫と言われたんです。

これが、自分というものの正体なんです。

このことは、善導大師の深い内省がとらえた真理の言葉です。

ですから、

「私は人間です」

という言葉は

「私」

という真理をとらえていない言葉なんです。

この

「私」

とは何であるかということは、仏さまの教えを聞かないことには分からないのです。

善導大師は結局、

「この私は永遠に助かっていかない存在だ」

と言っておられます。

どこまで行っても、仏には遇えない私だ。

仏に遇えないということは、自分が死んだらどこへ行くかということが分かっていない人です。

どこから来たかも分からないし、自分が何ものかも分からない存在だということなんです。