投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「他力本願」(中旬)地獄に堕ちる姿

太陽は容赦なく真東から昇ってきた。

西に傾いてきた頃に2人の男が

「残念だ、あの世で会おう」

と、やがて訪れる死を待って倒れた。

そして夕日がさす頃になると、また2、3人が倒れた。

夕日がキラキラ輝き出したときにさらしを持っていたのは2人だけ。

沖合を船が通るが、無理だとお互いさらしを振りもしない。

そのとき1人が声をかけた。

「見てみろ、日の丸を付けた船が通るぞ。

あの船は内地に帰るんだから、わしらを発見してくれたら、内地に帰れるのになあ」。

「もう言うな。

運がなかったんだから、しょうがないだろ」。

「では、あの内地に帰る日の丸の旗に託して、おやじおおふくろ、女房や子どもにさようならを言わないか」。

そして、沖へ行く船に向かって2人は

「父さんさようなら、母さんさようなら」

と今生の別れを告げた。

その船はフィリピンのマニラから神戸に帰る途中の貨物船だった。

貨物船の船員の一人がタバコを水ながらマニラの夕焼けを見ていた。

そしてタバコの吸殻を捨てて海を見ると、トビウオが羽を広げて飛んでいる。

サメがいたからだ。

それを見ていたら、何匹かのトビウオが逆に帰って来た。

「わざわざサメの食われに帰って来る不思議なトビウオがマニラにはおるもんだ」

と思って双眼鏡で見ていると、トビウオの向こうで、ゴムボートの2人が見えた。

それで船長室に飛んで行って

「船長さん、遭難だよ」と。

「どのへんだ」

「ほら船長、トビウオの向こうです」

「やせこけた男がさらしを振っておる。

ゴムボートの中にも何人か倒れている。

まだ信ではおるまい」。

死んだら臭くなるから、遺体を海の中に投げ込むんです。

だからゴムボートの中にいるということは、まだ生きているということです。

この

「見たまんま助けるぞ」

というのが本願です。

そして船長は、機関室に電話をかけた。

「ゴムボートに乗って何人か遭難している。

ただちに救助に向かう。

全速力で向かえ」。

これが本願力です。

本願というのは、阿弥陀さまが、私を助けるという約束です。

本願と本願力とは2つであって1つ、1つであって2つ、これを

「名体不二の呼び声」

と言います。

南無阿弥陀仏というお名号の中には、助かることも救われることも全部入っていますから、南無阿弥陀仏の名号が全てなんです。

機関長は言われた通りに船の向きを変えた。

ゴムボートの中で、もう気力も体力も尽きて横たわろうかと思っていた2人のうちの1人が言った。

「あの船、こちらに来ているように思わんか」

「おまえ助かりたいと思うから、そう見えるんじゃないか」

「でも周りがこんなに暗いのに、船がはっきり見えて来るということはどういうことだ」。

目をこすりながら

「そういえば船がこっちに来るような感じがする」。

そこに聞こえた救助信号、

「今なんじらの姿を発見せり。

ただちに救助に向かう、そのままで待て」。

これが親の呼び声です。

これを

「大悲召喚の勅命」

と言います。

仏さまが、私の地獄に堕ちる姿を見て、

「お前の姿を見た。

ただちに救うぞ」

とおっしゃっているのです。

「因幡の源左(いなばのげんざ)」

1842〜1930年。

本名は足利喜三郎。

鳥取県気高郡山根村(青谷町山根)に生まれる。

家業は紙漉(かみすき)。

昭和5年89歳で死去。

因幡の源左は、一灯園の灯主・西田天香や美術評論家の柳宗悦(やなぎむねよし)などが敬い慕った人物として知られます。

源左は、同行と本山(京都・西本願寺)に参詣したことがありました。

同行が土下座して拝むのを見て、源左は

「親さんの膝元だげなあ、なにもそげに頭を下げでもええだがのう」

また、源左は仏壇の前でよく居眠りをしていましたが、行儀が悪いと注意する人に対して

「親さんの前だげな、なんともない…」

と超然としていました。

源左が土砂降りの夕立にあって、びしょぬれになって寺にきたことがありました。

願正寺の和上が

「爺さん、よう濡れたのう」

と声をかけると、源左は

「有り難うござんす。御院家さん。

鼻が下を向いとるで有り難いぞなあ」

と答えました。

確かに鼻の孔は下についているので、雨水ははいりませんが、普通では考えつかないような言い回しです。

それが、自然の発露のように、ふっと出る、つまり作為的ではないのです。

自然のまま、自然法爾、それが妙好人たる源左の特徴でした。

村役場の職員が源左に

「お前は有名な人じゃで、何が記憶していることがあればいうてくれ。

書き留めておくから」

と聞くと、源左は

「覚えているものがあるけ、書いときたけりゃあ『南無阿弥陀仏』と書いてごしなはれ」

と言ったと伝えられます。

「南無阿弥陀仏」、それは昭和5年2月、89歳で死去した源左のすべてでした。

源左は自身を称して、

「底下の泥凡夫」

といっていましたが、泥土から生えきったものこそ、ほかならぬ蓮華でした。

妙好人の妙好とは、白い清浄な蓮華のことです。

「底下の泥凡夫」

は妙好人となり、その遺薫は、今も馥郁として漂っています。

『二河白道』

中国の初唐時代の善導大師が。

「二河白道(にがびゃくどう)」

としてよく知られている次のような譬えを述べておられます。

ある旅人が百千里の道を西に向かって行こうとすると、突然、目の前に火の河と水の河が現れます。

火と水の河の間には、細くて白い道が通っていますが、その白道は常に波におおわれ炎に焼かれており、到底、渡れるような状態ではありません。

しかも果てしない荒野に、他に人影は見られません。

そこに多くの盗賊や猛獣が現れ、この旅人が独りでいるのを見て襲いかかろうとしています。

先に進んでも、留まっても、引き返しても、旅人には

「死」

以外にはありません。

そこで旅人は、一つの決断をします。

この白道は私を渡すための道であるから、安心してこの道を前に進もう。

そう決断した時に、東の岸から

「きみただ決定してこの道を尋ねて行け」

と勧める声が、また西の岸からは

「汝一心に正念にしてただちに来れ」

と喚ぶ声が聞こえます。

そこで旅人は意を決して白道を進み始めるのですが、そうすると群賊が、

「自分たちは、あなに害をなすものではない。

そこは危ないから引き返してきなさい。」

という甘い誘いの声が聞こえてきますが、旅人はその声に惑わされることなく進み続け、やがて西の岸に到り着きます。

釈尊の発遣(はっけん)の声弥陀の招喚(しょうかん)の

この

「二河白道」

の譬えは、私たちにいったい何を教えているのでしょうか。

端的には、日常生活における私たちの真の姿を明らかにしているのだと考えられます。

現代に生きる私たちは、科学の恩恵に浴し、豊かで明るく便利で快適な社会で家庭を築き、親しい友と語らって、生活を楽しんでいます。

また、私たちはほぼ例外なく自分自身を限りなく愛しています。

そのため、自分にとって好ましいものを取り入れ、自分にとって苦痛になるものを排除することに努めます。

表面的には、それが人間の幸福の姿だと考えられます。

ところが、そのような中でふと思うのです。

自分の生命、あるいは命の尊さとは何だろうかと。

それは、単に人間として存在する百歳の命ではなく、いかなる場合も無限に輝く命とは何かということです。

この求めが、

「二河白道」

では西に向かって行こうとする決断になる訳ですが、その瞬間、今まで自分を快適に包んでいた社会の全体が、まさに自分を惑わす場に転じることになります。

それが

「広々とした荒野」

と表現されます。

私たちは、常に多くの人々と親しく交わって生活しているのですが、それが娯楽・享楽を共にする仲間であればあるほど、その人を真実から遠ざける悪友であり、単なる死への道連れでしかないということを教えています。

さらに、自分の心に多くの惑いが生じ誘惑に負けそうになります。

この心に生じる迷い、具体的には貪欲(むさぼり)と瞋恚(いかり)が

「水の河・火の河」

に譬えられています。

私たちの現実は、真実を求めても、それに至る真実の行を成し得ません。

生を求めても幸福を願っても、不幸のどん底で死に陥らなければなりません。

私たちは、行くも・留まるも・引き返すも死というな

「三定死(さんじょうし)」

の状態に置かれた時に初めて

「今こそ真に生きたい」

と願うことになります。

そうすると、それまでの

「欲望の充足こそ幸福」

と錯覚していた生活の場では、全く無意味にしか聞こえなかった真実の声が、真実に生きようとする心には、まさしく自分を永遠に生かしてくれる声として、大きく響き渡ることになります。

これが、こちらの岸から

「行け」

という声が聞こえ、向こうの岸から

「来たれ」

という声が聞こえたということです。

このような状態に置かれて、人は初めて釈尊の教えを本当に聞くことが出来るのであり、阿弥陀仏の本願をそのごとくに信じることが出来るのです。

自分の心の中に釈尊や阿弥陀仏の声が聞こえたということは、白道が私のためにつけられていたということの証です。

白道は、阿弥陀仏の清浄なる願心によって、この私を仏果に至らしめるために開かれた道です。

したがって、阿弥陀仏の大悲に自分の全てを委ねて、その白道を安心して渡ればよいのです。

第3子のお産のため、実家に2人のこどもを連れて里帰りしていた妻が、先月無事出産を

第3子のお産のため、実家に2人のこどもを連れて里帰りしていた妻が、先月無事出産を終えて帰ってきました。

里帰りするまでの我が家の日常はというと、二人の子どもが走り回ったり、けんかをしたり、おしゃべりをしたりとワイワイガヤガヤと賑やかな毎日でありました。

里帰りした後は、家の中は母と私の二人きりで、家中シーンと静まり返っていました。

特に食事のときは、

「こんなに静かな中で、ゆっくりと食事をするのは久しぶりだね」

と、束の間の親子の団欒の時間を味わっていました。

しかしながら2週間、3週間と時が過ぎていくと、今度はあまりにも静か過ぎて、子どもたちがいて賑やかだった頃のことを思いだし寂しくなり、子どもたちに早く会いたいという気持に変わっていきました。

ところが、今度は帰ってきたら帰ってきたで嬉しいのですが、たまについうるさいなあと思ってしまう自分がいるのです。

「静かでいいなあ」

と思ってみたり、

「うるさいなあ」

と思ってみたりと、自分の都合によってしか物事を見ることの出来ない自分自身の姿を改めて気づかされたことです。

第3子誕生に際して、友人が私に教えてくれた言葉があります。

「生まれてきてくれてありがとう」

という親のもとには

「生んでくれてありがとう」

という子が育つ。

一方で、あってはならないことではあるがと前置きした上で、

「あなたなんか生まれてこなければよかったのに」

という親のもとには

「生んでくれと頼んだ憶えはない」

という子が育つと、教えてくれました。

出来るならば

「生まれてくれてありがとう」

いやいや

「生んでくれてありがとう」

と、お互いがお互いを合掌しあえる・敬えるような関係を築いていければと思うことです。

最近、研修会で講師の先生がこういう詩を紹介してくださいました。

田中大輔君という3歳の男の子が、お母さんにつぶやいた言葉をお母さんが書き留めたもので、

「ママ」

というタイトルです。

あのねママボクどうしてうまれてきたのかしってる?

ボクねママにあいたくてうまれてきたんだよ

という詩です。

こんな風に子どもに言われたら、親としては

「どんなことがあってもこの子を絶対に守っていこう」

と思うのではないでしょうか。

現代は、親が子を殺したり、子が親を殺したりするような殺伐とした世の中です。

この詩を、多くの人に是非とも聞いてほしいなあと思うことです。

この詩を聞いた後、二人の子どもに

「お父さんとお母さんは、二人がお父さんとお母さんのもとに生まれてきてくれて本当に嬉しかったんだよ。

ありがとうね」

と素直に伝えたら、長男が

「ボクもお父さんとお母さんの子どもでよかった」

と言ってくれました。

この言葉を聞いて思わず涙が出そうになるくらい嬉しかったです。

「生まれてくれてありがとう」

「生んでくれてありがとう」

お互いがこの気持ちを忘れることなく日々を過ごすことができるならば、きっと素敵な親子関係が築かれていくことでしょう。

『いのちはいただきもの』

暑い暑い夏から少しずつ秋の気配が感じられる9月。

「季節の足音」

という風情ある言葉に表されるように、四季折々の表情がめぐるこの日本。

肌をなぞるヒンヤリとした風、秋の夜長を賑やかに奏でる虫たち。

様々な場面を通じて季節の訪れを味わうことです。

秋は

「実りの秋」

とよく形容されます。

お米や農作物も収穫の時季を迎え、季節の食べ物がスーパーや食卓に並びます。

手間暇をかけ、思いをかけ育ててきた作物の収穫は喜びもひとしおです。

仏法のご縁をよろこぶ方の中には

「法(みのり)の秋」

と表現をされる方もいます。

自分のいのちに目を向けてみたとき、収穫という

「実り」

の一つひとつが、私たちのいのちに繋がっています。

多くのいのちと、そこに携るすべての方々への感謝の心が

「法(みのり)」

に出遇う慶びとなります。

浄土真宗について、よくこのように聞かせていただくことがあります。

「今まで当たり前と思っていたことが有り難いと思えてくる世界。

今まで思いもしなかったようなことが、あぁそうだったなぁと頷きに変わる世界。」

本来、何もない

「無」

であるはずの私が、たくさんのお陰により

「有る」

姿へと存在させていただいているという事実を知らされるとき、有ることが難しい私でありましたと、そこには深い頷きがあります。

我が身を知れば知るほど、自分のみの力によるものではなく、目には見えなくともそこには他の多くの支えをいただく中で、私のいのちの成り立つ姿が明らかとなります。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

実れば実るほど、まるで有難うとお辞儀をするかのように稲穂が垂れ下がる様子を詠んだ句です。

私たちはどうでしょうか。

毎日は当り前のように巡ってくるという感覚だと、なかなか気付くことの難しい視点かもしれません。

法(みのり)に出遇い、法に照らされた我が身を振り返るということは、有り難い、もったいないことでしたという視点を恵まれることです。

まさに有ることが難しい私が、多くのいのちをいただき、多くの支えの中に生かされて今、ここに私のいのちの存在があるのではないでしょうか。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(9月前期)

では

「よろづのたのしみ」

とはどのような意味でしょうか。

『涅槃経』では続いて

「大楽有るが故に大涅槃と名づく」

と語られていますが、この大涅槃としての

「大楽」

が、この

「よろづのたのしみつね」

の意になるのではないかと思われます。

では、大楽とは何でしょうか。

涅槃は無楽なり。

四楽をもっての故に、大涅槃と名づく。

何等かを四と為す。

一は、諸楽を断ずるが故に。

楽を断ぜざるは、則ち名づけて苦と為す。

もし苦有らば、大楽と名づけず。

楽を断ずるをもっての故に、則ち苦有ること無けむ。

無苦無楽いまし大楽と名づく。

涅槃の性は無苦無楽なり。

この故に涅槃を名づけて大楽と為す。

まず、諸楽を断ずることを大楽とされます。

なぜでしょうか。

それは、この世の世俗的な場における楽しみの一切は、やがて必ず破れてしまいます。

楽の破綻は苦でしかありません。

その楽しみが、大きければ大きいほど、破れた時に味わう苦は大きいといわなくてはなりません。

したがって、破れるべき楽を断じない限り、その楽は苦でしかないのです。

では、苦は楽なのでしょうか。

苦が楽であるはずはありません。

では、苦しみでもなく楽しみでもない状態が

「楽」

なのでしょうか。

もちろんそのような状態が楽だともいえません。

人生において、これほど退屈で活気のない姿はないからです。

そこに真実、楽しみなどあるはずはありません。

では、

「楽を断ずるをもっての故に、則ち苦有ることなけむ。

無苦無楽いまし大楽と名づく。

とは、どのような意味なのでしょうか。

その答えは

「涅槃の性は無苦無楽なり」

です。

世俗的な場での

「楽」

の求めを、完全に断つということは、生の執着によって生じる、苦楽の心を超越することにほかなりません。

この心がいま

「無苦無楽いまし大楽と名づく」

と結ばれています。

だからこそ、涅槃が大楽なのであり、

「よろづのたのしみつね」

といわれるのです。

こうして

「極楽無為」

は、楽の究極としての

「無楽」

の意となります。

ではその無楽の涅槃界とは、どのような浄土なのでしょうか。