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8月6日に京都西本願寺で開催された、全国真宗仏教青年会のつどいに参加してきました

8月6日に京都西本願寺で開催された、全国真宗仏教青年会のつどいに参加してきました。

毎年、鹿児島の仏青は、全国津々浦まで、開催地へはバスで参加しているんですね。

今年もしかり・・・、京都へはバスで向かいました!

片道12時間の旅!!

以前は富山までバスで行った経験があったので(こちらも仏青大会で)少しは慣れて!?

バスの中も,ワイワイ♪ガヤガヤ♪<楽しみながら行きました。

京都に到着後、早速本山へ向かい、仏青全国大会へいざ出陣!!!

開会式終了後、的場亮氏による講演会がありました。

自分が笑顔になれば、周りも自然と笑顔になれる!

夢は逃げない!逃げるのは自分!!

諦めずに夢にむかって努力する!

などなど、元気な気持ちになれる講演内容でした。

その後グループワークがあり、手作りの腕輪念珠を作りました。

初めての念珠作りに悪戦苦闘しながらも、無事に作り終え、

自分の一番大切な人へメッセージを添えて、

透明のプラスチック容器に入れて終了!

「何故容器に入れるのだろう!?」

と疑問に思っていたら、

「参加者全員分の念珠入り容器で、で巨大な腕輪念珠を作るんですっ!」

と説明を受け、

納得するとともに感動!!!

みんなの思いが、ひとつの巨大腕輪念珠になりました。

その後は、各教区ブースを出店し、鹿児島教区は”かごしま弁クイズ”を書いた用紙を参加者に渡し、

「会場に散らばっている鹿児島教区のスタッフに答えを教えてもらって、正解の用紙を持ってきたら記念品を渡す!」

と、ちょっと手の込んだものでしたが、ブースには行列ができて大好評!!

記念品の西郷せんべいが、

「アッ」

という間になくなり、私たちのブースの周りには”なんちゃってかごしま弁”が飛び交ってました。

会場の雰囲気も、夏祭りを思わせるような熱気で、全国各教区のブースも大変盛り上がっていました♪♪♪

全国からたくさんの仏青会員が集まり、本当に実のある全国大会でした。

私も引率という立場ではありましたが、この全国大会を通してたくさんのありがたいご縁をいただきました。

『いのちはいただきもの』

私たちは、日頃特に気にすることもなく

「いのち」

という言葉を口にしていますが、改めて

「いのちとは何ですか」

と尋ねられたとしたら、その問いに即座に答えることが出来るでしょうか。

考えてみますと、今私はこうして生きていますが、自分が生まれてきた時のことを自覚的に語ることは出来ませんし、また必ず死んで行かなくてはならないのですが、死ぬとはいったいどのようなことなのか実感を持って語ることもできません。

そうすると、分からないところから始まって、分からないところで終わるのが私のいのちであり、人生だということになります。

顧みれば、私の意識では何も分からないのに、私はこの世に生まれて、そして気がついてみたら、既にこの私であったのです。

しかも、生まれてからすぐに私は私だと自覚した訳ではありません。

赤ちゃんの頃の記憶など皆無ですし、その頃はいわば生きようとする本能のままに生きていたのだと言えます。

言い換えると、私は私自身を自覚しないままに生きていたということです。

けれども、私が今ここにこうして生きているということは、わからない間も有形、無形の働きが支えていてくれたという事実があったからに違いありません。

それは、私から頼んだ覚えがないにもかかわらず、私を生かすために、無数の願いが、

「生きてくれ」

と支えていてくれたということです。

そのような意味で、

「いのち」

とは、願いの結晶だと言うことができます。

詩人の榎本栄一さんは、私たちのいのちのありようを

「罪悪深重」

という詩で

私は今日まで

海の大地の

無数の生きものを

食べてきた

私の罪の深さは

底知れず

と明らかにしておられます。

「海の、大地の無数の生きものを食べてきた」

まさに、これが私のいのちの事実です。

けれども、

「そんなことを気にしていたら、生きて行けないではないか」

と言われるかも知れません。

確かにその通りですし、人間以外の生きものも同様に他のいのちを食して生きています。

ただし、人間だけが他の生きものと決定的に異なる点があります。

それは、人間だけが

「殺す」

という意識をもって、他のいのちを殺しているということです。

それゆえに、人間だけが、生きものであることの意味を問い、生きものであることの恐ろしさを実感することが出来るのです。

したがって、無数の生きものを食べて生きていく限りにおいて、私が生きていることが、そのまま

「罪の深さは底知れず」

と実感できてこそ、初めて人は人間として生きていると言い得ます。

この世に生を受けているどんな生きものも、死にたいと思って生きている生きものは一つもありません。

こうして生きていながら、死にたいと考えたり実際に自ら死んでしまうのは人間だけです。

経典には、

「全ての生きものは、自らのいのちを愛して生きている」

と説かれています。

その無数のいのちを私たちは食べて生きているのですが、おそらくただ黙って死んでいく生きものなどいないと思われます。

そうだとすると、無数の生きものの

「声なき声」

とでも言うべき、いのち願いに、私たちは耳を傾け応える必要があるのではないでしょうか。

もちろん、具体的な言葉として耳にするということは不可能ですが、おそらくそこに願われていることは、頂いたいのちを無駄にしない生き方をこの私がしていくことだと思われます。

ともすれば、私たちは

「自分のいのちは自分だけのもの」

という錯覚に陥りがちなものです。

けれども、私のいのちは、願うに先立って既に阿弥陀仏に願われているいのちであり、同時にこれまで頂いてきた海の大地の無数の生きものから願われている

「いのち」

だといえます。

私のこのいのちは、自らが作ったものではなく、賜ったいのちであり、そして多くのいちのをいただいて生きているいのちであることの意味を、改めて考えてみたいものです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(9月中期)

『唯信鈔文意』の次の文に注意してみたいと思います。

涅槃界といふは、無明のまどひをひるがへして無上覚をさとるなり。

界はさかひといふ。

さとりをひらくさかひなりとしるべし。

涅槃とまうすにその名無量なり。

くはしくまうすにあたはず。

おろおろその名をあらはすべし。

涅槃をば滅度といふ。

無為といふ。

安楽といふ。

実相といふ。

法身といふ。

法性といふ。

真如といふ。

一如といふ。

仏性といふ。

仏性すなはち如来なり。

界とはさかい、境界の意です。

「無明の惑いを翻して、無上覚をさとる」

と述べられていますから、覚りと迷いを分けている境目が、いま

「界」

と呼ばれています。

そして、無明の惑いの境界を越えて、覚りに至った場が、無上覚であり涅槃となります。

では、その

「涅槃」

とは、いかなる場なのでしょうか。

涅槃の義は深遠であって、その義を詳細に述べることはできません。

不十分ではありますが、涅槃の同義語をいくつか拾ってみると、

「滅度・無為・安楽・実相・法身・法性・真如・一如・仏性・如来」

といった語を涅槃に重ねることができるといわれます。

この中

「無為・安楽・常楽」

の語意については、すでに検討を終えています。

いずれも、世俗の執着の場における感覚的・快楽的な楽を意味するのではなく、この語の内実がそのまま

「無苦無楽」

なのですから、仏の正覚としての大楽を意味したのです。

だからこそ、これらの語がそのまま

「実相・法性・真如・仏性」

等の同義語とみなされるのです。

そうしますと、涅槃界としての阿弥陀仏の浄土は、固定的な場所ではありえなくなります。

そこで

「涅槃界」

はさらに、

この如来微塵世界にみちみちてまします。

すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり。

草木国土ことごとくみな成仏すととけり。

と解釈されます。

法身であり一如である如来は、無限の国土の微塵の世界に満ち満ちています。

そうしますと、一切の群生海、生きとし生ける衆生は、心のすべてが常に何時いかなる場においても如来で満たされているといわなくてはなりません。

「他力本願」(中旬)地獄に堕ちる姿

太陽は容赦なく真東から昇ってきた。

西に傾いてきた頃に2人の男が

「残念だ、あの世で会おう」

と、やがて訪れる死を待って倒れた。

そして夕日がさす頃になると、また2、3人が倒れた。

夕日がキラキラ輝き出したときにさらしを持っていたのは2人だけ。

沖合を船が通るが、無理だとお互いさらしを振りもしない。

そのとき1人が声をかけた。

「見てみろ、日の丸を付けた船が通るぞ。

あの船は内地に帰るんだから、わしらを発見してくれたら、内地に帰れるのになあ」。

「もう言うな。

運がなかったんだから、しょうがないだろ」。

「では、あの内地に帰る日の丸の旗に託して、おやじおおふくろ、女房や子どもにさようならを言わないか」。

そして、沖へ行く船に向かって2人は

「父さんさようなら、母さんさようなら」

と今生の別れを告げた。

その船はフィリピンのマニラから神戸に帰る途中の貨物船だった。

貨物船の船員の一人がタバコを水ながらマニラの夕焼けを見ていた。

そしてタバコの吸殻を捨てて海を見ると、トビウオが羽を広げて飛んでいる。

サメがいたからだ。

それを見ていたら、何匹かのトビウオが逆に帰って来た。

「わざわざサメの食われに帰って来る不思議なトビウオがマニラにはおるもんだ」

と思って双眼鏡で見ていると、トビウオの向こうで、ゴムボートの2人が見えた。

それで船長室に飛んで行って

「船長さん、遭難だよ」と。

「どのへんだ」

「ほら船長、トビウオの向こうです」

「やせこけた男がさらしを振っておる。

ゴムボートの中にも何人か倒れている。

まだ信ではおるまい」。

死んだら臭くなるから、遺体を海の中に投げ込むんです。

だからゴムボートの中にいるということは、まだ生きているということです。

この

「見たまんま助けるぞ」

というのが本願です。

そして船長は、機関室に電話をかけた。

「ゴムボートに乗って何人か遭難している。

ただちに救助に向かう。

全速力で向かえ」。

これが本願力です。

本願というのは、阿弥陀さまが、私を助けるという約束です。

本願と本願力とは2つであって1つ、1つであって2つ、これを

「名体不二の呼び声」

と言います。

南無阿弥陀仏というお名号の中には、助かることも救われることも全部入っていますから、南無阿弥陀仏の名号が全てなんです。

機関長は言われた通りに船の向きを変えた。

ゴムボートの中で、もう気力も体力も尽きて横たわろうかと思っていた2人のうちの1人が言った。

「あの船、こちらに来ているように思わんか」

「おまえ助かりたいと思うから、そう見えるんじゃないか」

「でも周りがこんなに暗いのに、船がはっきり見えて来るということはどういうことだ」。

目をこすりながら

「そういえば船がこっちに来るような感じがする」。

そこに聞こえた救助信号、

「今なんじらの姿を発見せり。

ただちに救助に向かう、そのままで待て」。

これが親の呼び声です。

これを

「大悲召喚の勅命」

と言います。

仏さまが、私の地獄に堕ちる姿を見て、

「お前の姿を見た。

ただちに救うぞ」

とおっしゃっているのです。

「因幡の源左(いなばのげんざ)」

1842〜1930年。

本名は足利喜三郎。

鳥取県気高郡山根村(青谷町山根)に生まれる。

家業は紙漉(かみすき)。

昭和5年89歳で死去。

因幡の源左は、一灯園の灯主・西田天香や美術評論家の柳宗悦(やなぎむねよし)などが敬い慕った人物として知られます。

源左は、同行と本山(京都・西本願寺)に参詣したことがありました。

同行が土下座して拝むのを見て、源左は

「親さんの膝元だげなあ、なにもそげに頭を下げでもええだがのう」

また、源左は仏壇の前でよく居眠りをしていましたが、行儀が悪いと注意する人に対して

「親さんの前だげな、なんともない…」

と超然としていました。

源左が土砂降りの夕立にあって、びしょぬれになって寺にきたことがありました。

願正寺の和上が

「爺さん、よう濡れたのう」

と声をかけると、源左は

「有り難うござんす。御院家さん。

鼻が下を向いとるで有り難いぞなあ」

と答えました。

確かに鼻の孔は下についているので、雨水ははいりませんが、普通では考えつかないような言い回しです。

それが、自然の発露のように、ふっと出る、つまり作為的ではないのです。

自然のまま、自然法爾、それが妙好人たる源左の特徴でした。

村役場の職員が源左に

「お前は有名な人じゃで、何が記憶していることがあればいうてくれ。

書き留めておくから」

と聞くと、源左は

「覚えているものがあるけ、書いときたけりゃあ『南無阿弥陀仏』と書いてごしなはれ」

と言ったと伝えられます。

「南無阿弥陀仏」、それは昭和5年2月、89歳で死去した源左のすべてでした。

源左は自身を称して、

「底下の泥凡夫」

といっていましたが、泥土から生えきったものこそ、ほかならぬ蓮華でした。

妙好人の妙好とは、白い清浄な蓮華のことです。

「底下の泥凡夫」

は妙好人となり、その遺薫は、今も馥郁として漂っています。

『二河白道』

中国の初唐時代の善導大師が。

「二河白道(にがびゃくどう)」

としてよく知られている次のような譬えを述べておられます。

ある旅人が百千里の道を西に向かって行こうとすると、突然、目の前に火の河と水の河が現れます。

火と水の河の間には、細くて白い道が通っていますが、その白道は常に波におおわれ炎に焼かれており、到底、渡れるような状態ではありません。

しかも果てしない荒野に、他に人影は見られません。

そこに多くの盗賊や猛獣が現れ、この旅人が独りでいるのを見て襲いかかろうとしています。

先に進んでも、留まっても、引き返しても、旅人には

「死」

以外にはありません。

そこで旅人は、一つの決断をします。

この白道は私を渡すための道であるから、安心してこの道を前に進もう。

そう決断した時に、東の岸から

「きみただ決定してこの道を尋ねて行け」

と勧める声が、また西の岸からは

「汝一心に正念にしてただちに来れ」

と喚ぶ声が聞こえます。

そこで旅人は意を決して白道を進み始めるのですが、そうすると群賊が、

「自分たちは、あなに害をなすものではない。

そこは危ないから引き返してきなさい。」

という甘い誘いの声が聞こえてきますが、旅人はその声に惑わされることなく進み続け、やがて西の岸に到り着きます。

釈尊の発遣(はっけん)の声弥陀の招喚(しょうかん)の

この

「二河白道」

の譬えは、私たちにいったい何を教えているのでしょうか。

端的には、日常生活における私たちの真の姿を明らかにしているのだと考えられます。

現代に生きる私たちは、科学の恩恵に浴し、豊かで明るく便利で快適な社会で家庭を築き、親しい友と語らって、生活を楽しんでいます。

また、私たちはほぼ例外なく自分自身を限りなく愛しています。

そのため、自分にとって好ましいものを取り入れ、自分にとって苦痛になるものを排除することに努めます。

表面的には、それが人間の幸福の姿だと考えられます。

ところが、そのような中でふと思うのです。

自分の生命、あるいは命の尊さとは何だろうかと。

それは、単に人間として存在する百歳の命ではなく、いかなる場合も無限に輝く命とは何かということです。

この求めが、

「二河白道」

では西に向かって行こうとする決断になる訳ですが、その瞬間、今まで自分を快適に包んでいた社会の全体が、まさに自分を惑わす場に転じることになります。

それが

「広々とした荒野」

と表現されます。

私たちは、常に多くの人々と親しく交わって生活しているのですが、それが娯楽・享楽を共にする仲間であればあるほど、その人を真実から遠ざける悪友であり、単なる死への道連れでしかないということを教えています。

さらに、自分の心に多くの惑いが生じ誘惑に負けそうになります。

この心に生じる迷い、具体的には貪欲(むさぼり)と瞋恚(いかり)が

「水の河・火の河」

に譬えられています。

私たちの現実は、真実を求めても、それに至る真実の行を成し得ません。

生を求めても幸福を願っても、不幸のどん底で死に陥らなければなりません。

私たちは、行くも・留まるも・引き返すも死というな

「三定死(さんじょうし)」

の状態に置かれた時に初めて

「今こそ真に生きたい」

と願うことになります。

そうすると、それまでの

「欲望の充足こそ幸福」

と錯覚していた生活の場では、全く無意味にしか聞こえなかった真実の声が、真実に生きようとする心には、まさしく自分を永遠に生かしてくれる声として、大きく響き渡ることになります。

これが、こちらの岸から

「行け」

という声が聞こえ、向こうの岸から

「来たれ」

という声が聞こえたということです。

このような状態に置かれて、人は初めて釈尊の教えを本当に聞くことが出来るのであり、阿弥陀仏の本願をそのごとくに信じることが出来るのです。

自分の心の中に釈尊や阿弥陀仏の声が聞こえたということは、白道が私のためにつけられていたということの証です。

白道は、阿弥陀仏の清浄なる願心によって、この私を仏果に至らしめるために開かれた道です。

したがって、阿弥陀仏の大悲に自分の全てを委ねて、その白道を安心して渡ればよいのです。