投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇 壁文 12月(6)

真空のような静寂(しじま)と、骨のしんまで霜になりそうな寒さである。

夜も更けると、さらに生物の棲まない世界のような沍(ご)寒(かん)の気が、耳も鼻も唇もほとんど無知覚にさせてしまう。

どこかで、先一昨日から、法華経をよむ声がもれていた。

それは今夜で、四晩になるが、夜があけても、日が暮れてきても、水のように絶え間がなく、ある時は低く、ある時にはまた高く、やむ時のない誦(ず)経(きょう)であった。

「誰だろう」

と、磯長(しなが)の叡福寺の者は、炉のそばでうわさをしていた。

「また、ものずきな雲水だろう」

と、笑う者もあるし、

「廟のうちで、まさか、火など焚いていまいな」

と火の用心を案じる者もあった。

「いや、火の気はないようだ」

と一人がいう。

「そうか、それならよいが……。だが、どんな男か」

「まだ、二十歳ぐらいな若い僧さ。三尊の拝殿から入って、いちばん奥の廟窟(びょうくつ)の床に、ひとりで坐りこんだまま、ものも食わずに、参籠(さんろう)しているのだ」

――そんな話を、だまって、眼をふさいで奇異射ている四十近い僧があった。

その僧は、この寺の脚とみえて、他の者から、法師、法師と敬称されて、時々、寺僧のかたまる炉ばたにみえて冗談をいったり、飄然(ひょうぜん)として見えなくなったり、また、裏山から木の根瘤(ねこぶ)などを見つけてきて、小刀でなにか彫っていたり、仙味のあるように、俗人のような一向つかえまどころこのない人間のように見える男だったが、太子廟の奥に、この四日ばかり、法華経の声がもれるようになってからは、いつも、じっと、さし俯向いて、聞き入っているのであったが、今、寺僧のうわさを聞くと、なにを思いだしたか、ふいと、その部屋を出て、どこかへ、立ち去ってしまった。

今夜も、まっ白に、月が冴えていた。

法師は、庫裡から草履をはいて、ぴたぴたと、静かな跫音(あしおと)を、そこから離れている太子廟へ運んで行った。

法華経の声は、近づいてくる。

石垣をあがると、廟の廻廊に、金剛獅子の定明燈が、あたりを淡く照らしていて、その大屋根を圧している敏(び)達(だつ)帝(てい)の御陵のある冬山のあたりを、千鳥の影がかすめて行った。

廻廊の下をめぐって、法師は、御墳(みつか)のある廟窟の方へまわった。

もうそこへゆくと、身のしまるような寒烈な気と、神秘な闇がただよっていて、寺僧でも、それは何となく不気味だと常にいっている所である。

風雨に古びたまま、幾百年も手入れもしていない建物に、月の白い光が、扉の朽ちた四方の破れから刃のように中へさしこんでいた。

法師が、そっと覗いてみると、なるほど、瑯かんみたいに白く凍えきった若者が、孤寂として、中の床にひとりで端座しているのである。

そして、彼の跫音も耳へ入らないらしく朗々と、法華経を誦してつづけていた。

「あ……。やはり範宴少納言であった……」

法師はつぶやいて、そっと、跫音をしのばせながら、そのまま、寺の方へ帰って行った。

※沍寒(ごかん):きびしい寒さ。凍りふさがって寒気の激しいこと。

※瑯かん(ろうかん):緑色,半透明の宝石

親鸞・去来篇 12月(5)

すると、旅人の群れのうちから、

「おお、おお」

一人の老婆が、同情の声をあげて、そこらに立っている往来の者たちに、

「おまえ方は、なんで手をつかねて、見物していなさるのじゃ。人の災難がおもしろいのか」

と、叱りつけた。

そして、すぐ自分は、範宴のそばへ寄って、

「この辺は、野伏(のぶせ)りが多いから、悪いやつに遭いなされたのじゃろう。オオ、オオ、体も氷のように冷とうなって、さだめし、お辛いことでござったろうに」

老婆の行動に刺戟されて、それまで憚(はばか)っていた往来の者が、われもわれもと、寄りたかって、性善房の縄を解いたり、朝麿をいたわったりして、ある者はまた、

「わしの家は、この丘のすぐ下じゃ。火でも焚いて、粥でも進ぜるほどに、一(いっ)伴(しょ)にござれ」

と、いいだした。

馬を曳いている馬子はまた、

「駄賃はいらぬほどに、そこまで乗って行かっしゃれ」

と、朝麿へすすめて歩きだした。

「路銀を奪(と)られなすったろう。これはすくないが」

と、金をつつんで喜捨する人々もある。

天城四郎のことばを聞けば、この社会(よのなか)ほど恐ろしい仮面につつまれているものはないと思えるし、こうして、うるわしい人情の人々にあえば、この世ほど温かい人情の浄土はないと思われもする。

三名は、麓の農家で、充分に体をあたため、飢えをしのぎ、あつく礼をのべて、やがて昨日とかわらぬ冬の日の温かい街道へ立ち出でた。

河内ざかいの竜田街道の岐(わか)りまで来ると、範宴は、足をとめて、

「性善房、わしは、少し思う仔細があって、これから磯長(しなが)の里へまわりたいと思うが……」

「ほ、石川郷の叡福寺のある?……」

「そうじゃ、聖徳太子と、そのおん母君、お妃、三尊の御墳(みつか)がある太子廟へ詣でて、七日ほど、参籠(さんろう)いたしたい」

「さようでございますか。よい思い立ちとぞんじますが、朝麿様もおつれ遊ばしますか」

「いやいや、ちと、思念いたしたいこともあるゆえ、この身ひとりがこのましい。そちは、朝麿を伴(ともの)うて、京都のお養父上にお目にかかり、かたがた青蓮院の師の君にもおとりなしを願うて、ひとまず弟の身を、家に帰してくれい」

「かしこまりました」

「朝麿」

と、向き直って――

「おもとにも、異存はあるまいの」

「はい……」

しかし、朝麿の心には、どうしても、梢のことが、不安で、悲しく、このまま自分ばかり京都へもどることは心がすまない様子であった。

「たのみますぞ」

範宴は、性善房にそういうと、やがてただ一人で河内路の方へ曲がって行った。

「汚職征討の戦い」

新聞に「汚職」とか「背任」という文字を目にすることがあります。

「汚職」というのは、公職にある者がその地位や職権を利用して収賄や個人の利益を図る不正行為を行なうことで、公職以外にある者が同様のことなした場合は「背任」といいます。

また、汚職のうち、政治にからむ大規模な贈収賄事件や、犯罪の事実を特定しにくく司法判断の難しい事件は「疑獄」と言われます。

汚職の語源は「職をけがす」という意味の「とく職」(涜職〜とくしょく)で、「とく」が当用漢字に入れられていなかったため、言い換えられて「汚職」になりました。

この他、会社の取締役など会社経営に重要な役割を果たしている者がなした場合は、特別背任罪に問われたりします。

経済発展の著しい中国では、近年この「汚職」が深刻な問題となっているようですが、政治家や官吏、教育者たちの汚職が大きな問題となるのは、それが単に物質的損害を与えるばかりでなく、社会から品位を失わせてしまうことにあります。

なぜなら、公職者の汚職は、国民の社会に対する敬意や道徳的緊張を失わせてしまうことら繋がるからです。

それは、具体的には

「自分だけが得をすれば良い」

という、自己中心的な考えを優先する風潮が横行する社会になるということにほかなりません。

では、「汚職」のない国家が世界のどこかにあるのでしょうか。

実は、明治時代の日本は、ほとんど汚職のない国家でした。

もちろん、そのような社会を獲得するためには、数万の兵士の死と、莫大な戦費、戦火による人びとの被災という、凄まじいばかりの代償を払うということがありました。

その「代償」とは何かというと、明治10年に起こった西南戦争(西南の役)です。

一般に、この戦争は征韓論や失業士族の憤懣に起因するものとみなされていますが、戦役勃発の決定的な理由は、福沢諭吉が『丁丑公論』で

「其(戦争の)原因は政府の方に在り」

と断定しているように、明治政府の、具体的には官員たちの「品行」の悪さにありました。

明治維新によって政府の官員になった者の中には、幕政期には下層階級の武士であった者もあり、思わぬ身分を得て心の平衡を失い、品行の悪い者が少なからずいました。

一方、西南戦争の首謀者とされる西郷隆盛は、東京に在るときは古屋敷に下僕と住み、男所帯でひっそりと暮らし、出入りは徒歩だったため、近所の人たちは彼が誰であるとも知らず、ましてや参議・陸軍大将であると気付くこともなかったと言われます。

西郷は、明治6年11月に突然、職を辞して単身故郷の鹿児島に帰ってしまうのですが、そのとき

「脱出す、人間虎狼ノ群」

という句を残しています。

また、当時西郷は

「ちかごろこんなありさまでは、倒幕のいくさは無益の労だった。かえって私どもが倒した徳川家に対して申し訳がない」

とも口にしていたそうです。

当時の官員のあり方への失望感の大きさが窺えます。

その頃の日本は、まだ憲法を持たず(大日本定刻憲法は1889年/明治22年2月11日に公布、1890年/明治23年11月29日に施行)行政府だけで立法府(議会)がなく、司法府も独立していませんでした。

そのため、司法卿の江藤新平も世間を騒然とさせた同僚(井上馨・山県有朋)の汚職を糾しきれず、自らの主張を貫くためには帰郷して佐賀の乱を起こすしかありませんでした。

もし、当時独立した立法府があり、江藤や西郷がそこに身を置いていればまた違う形で主張を貫く方法があったかもしれませんが、共に地元に戻るや周囲の不平士族にかつがれて乱を起こすということになってしまいました。

皮肉なことに、西南戦争勃発時の政府軍の総司令官は山県有朋、またその莫大な軍費を調達したのは井上馨、つまり二大汚職事件の首魁であった人たちでした。

江藤、西郷は自らの正義を貫こうとして、そのために滅び、賊名さえ着せられました。

けれども、この乱による衝撃が政府の官員たちを粛然とさせたようで、以後明治が終わるまで、殆ど汚職はありませんでした。

「歴史」は英語で「history」=「彼の物語」です。

一般に「征韓論」を起因として語られる西南戦争ですが、その中心的人物である

「西郷隆盛の物語」

という視点から見ると、

「汚職征討の戦い」

であったと見ることもできて、これまでとはまた違うとらえ方ができるようにも思われます。

「心の病からみた現代社会」(中旬)認知症には自覚症状がない

また、うつの他に昨今増えている病気である

「認知症」

の患者さんは、現在65歳以上の高齢者で8〜10%くらいの方がいると言われています。

認知症は、まず物忘れから始まります。

そして、日時や場所、人が分からなくなり

「今日は何年の何月何日ですか」

と聞いても、すぐに答えられないことなどが挙げられます。

年をとれば自然と物忘れしますが、老化による物忘れと認知症による物忘れには違いがあります。

老化による物忘れは自覚症状があるので、

「自分は認知症じゃないか」

と心配する人は、老化による物忘れです。

逆に、認知症の方は自覚症状がなく、

「自分は認知症じゃない」

と言うので、家族が病院に連れていくのが大変なんです。

また、誤認といって、夫を父と間違えたり、子どもが家にいた頃を思い出して、子どもの分の食事を準備するといったことなどがあります。

他にも、寝ているときに大声でどなったり、隣で寝ている奥さんを叩いたりすることもありますね。

昔、ピック病と呼んでいた

「前頭側頭葉変性症」

は、同じコースの道を何度も散歩したり、同じものばかり食べるなどして、同じことを家の中でも繰り返し行います。

さらには、万引きをして警察に捕まってしまうこともあるんですね。

これらの症状は、名前や言葉が出てこなかったり、やる気が出なかったりすることに始まりますが、この程度であれば家族も認知症とは思いません。

しかし第2段階として、つい最近のことを忘れたり、人の言うことを理解できなくなってくると、家族もだんだん分かってくるんですね。

これがどんどん進むと、先ほど言ったような症状が出てきます。

日常生活に支障が出てきたら、家族が面倒をみるか、グループホームにお願いするようになります。

症状がさらに進行すると、徘徊したり、やせて栄養失調になったりして衰弱していきます。

この流れを少しでも遅らせるために、適切な治療が必要になるんですね。

さらに症状が進むと、病院で栄養管理しますが、ここで最近の医療の問題が出てきます。

口からご飯を食べられなくなった方には

「胃瘻(いろう)」

という治療を行います。

認知症の方がご飯を口から食べると、間違って肺に入ってしまうことがあり、それが原因でいのちを落とすこともあります。

そのリスクを減らすために、お腹に穴を開けて胃の中に入れたチューブを通して栄養分を送る方法が

「胃瘻」

なんです。

確かに効果がある方もいらっしゃいますが、終末期の患者さんに、こういう人工的な延命措置を積極的に施していいのかと、医学会でもいろんな意見の人がいます。

真宗講座 親鸞聖人に見る「往相と還相」(12月中期)

ここで次の『正像末和讃』に注意してみます。

「南無阿弥陀仏の廻向の恩徳広大不思議にて往相廻向の利益には還相廻向に廻入せり」

「往相廻向の大慈より還相廻向の大悲をう如来の廻向なかりせば浄土の菩提はいかがせん」

この和讃は、

『二種廻向の功徳の一切が、一名号「南無阿弥陀仏」に成就されていて、その名号が私たちに廻向される。

したがって、衆生がこの阿弥陀仏の信楽を獲信する時、この衆生は必然的に往相廻向の利益を得、それ故に、自然に還相廻向に廻入せしめられるのである』

と語っています。

そしてこのことは、すでに示した

「弥陀の廻向成就して往相還相ふたつなり…」

の和讃の内容とも一致します。

こうして、如来の二種の廻向は、名号を通して衆生に来るのであり、衆生は真の意味でその名号に手遇う時、この衆生は如来の二種の廻向を完全に得ることになります。

阿弥陀仏は往相の

「教・行・信・証」

と還相の

「証」

を、同時に私たちに廻向されています。

したがって、この阿弥陀仏の信楽(大悲心)を私が獲信する時、私の心に

「教・行・信・証」

の一切が同時に開発されることは、極めて当然のことです。

けれども、それは獲信において初めて言えることだということに、私たちは特に注意する必要があります。

では、未信の衆生に対しては、この如来の二種の廻向はどのようなはたらきをするのでしょうか。

阿弥陀仏は、衆生を無上涅槃に至らしめるために、衆生を浄土に往生せしめ、再び穢土に還来せしめます。

そのために阿弥陀仏は、往相と還相という二種の廻向を、名号に成就して衆生に廻施されるのです。

ところが、それにもかかわらず、往相の廻向に

「教・行・信・証」

があると説かれ、しかもその上で、還相の廻向が示されます、なぜ、このような教示が必要なのでしょうか。

また、その意味するところは何なのでしょうか。

「往相廻向ととくことは弥陀の方便ときいたり悲願り信行えしむれば生死すなはちねはんなり」

「還相廻向ととくことは利他教化の果をえしめすなはち諸有に廻入して普賢の徳を修するなり」

の和讃に明らかなように、往相の廻向が説かれるのは、まさに未信の衆生に、悲願の信行を得さしめるためにほかなりません。

そのためには、どうしても教と行と信と証の教法が別々に示され、その各々のはたらきを通して、衆生を獲信に導く

「弥陀の方便」

がどうしても必要になったからです。

そうすると、未信の衆生にとっては、その弥陀廻向の教と行と信と証にどうかかわるかが、非常に重要な問題になります。

そのためには、すでに獲信したものの導きが、ここでどうしても必要になるのです。

還相の廻向が説かれているのは、教化地の果を得た菩薩の行道の何たるかを明かすためです。

なお、ここで注意すべきことは、往相の行者は

「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証」

して、即時に還相の菩薩になるのですから、この世における往相の正定聚の機と還相の菩薩が同一人であるということは、決してありえないということです。

未だ往生していないものが、還相の菩薩であるはずはありません。

したがって、ここで必要なことは、還相の菩薩がこの世で、どのような普賢の徳を修するかが明らかになることなのです。

そこで

「証巻」

の後半においては、この還相廻向の行道が説かれることになるのです。

さて、ここで次の問題が残りました。

1親鸞聖人は著述の上で、阿弥陀仏の二種の廻向と衆生のかかわりをどのように説いておられるか。

2阿弥陀仏の二種の廻向と衆生の獲信の問題と、そこに開かれる衆生の証果について。

3正定聚の機の行道とは(往相廻向の相が問われることになります)

4還相の菩薩の行道とは(この世における還相廻向の相が問われることになります)

これらが、以下の問題になります。

『ずいぶん回り道をしてきたそれもまたいい』(中期)

『仏説阿弥陀経』という経典に

「舎利弗(しゃりほつ/サーリプッタ)」

という言葉が何度も何度も出てきます。

これは、お釈迦さまのお弟子の中で

「智慧第一」

と称された方の名前です。

この舎利弗は、お盆にまつわる物語で有名な

「神通第一」

と讃えられた目蓮(もくれん/モッガラーナ)と、幼年から晩年にいたるまで変わることのない友情に結ばれ、終生、互いに補いあい支えあいながら、同じ道を歩み続けたと伝えられています。

この二人が道を求めるようになったきっかけは、次のようであったと伝えられています。

青年期に王舎城近くの山あいで催された祭りの見物に出かけたとき、周囲の人びとが歓楽の限りを尽くし、誰もが我を忘れて浮かれている姿を眺めているうちに、いつしか虚しい気分に沈み込んでいくのをどうすることもできなくなり、その雰囲気の中に溶け込んでいけないものを感じました。

舎利弗と目蓮の二人は、家柄・才能においても恵まれており、しかも人生の歓楽を求めようとするなら、ほとんど思い通りになるという境遇であったにもかかわらず、歓楽に満たされない自分を感じたのです。

このことがあってから、やがて二人は出家したといいます。

人は、どちらかといえば、苦しみにおいてよりも、楽しみにおいてより深く迷うものです。

なぜなら、苦しみはいやでも自身の人生のあり方を問い返させてくれるからです。

なぜこのような苦しみを受けなければならないのかとか、このような苦しい生活にいったい何の意味があるのかと。

そして、そのようにもがく中で、人はより深い人生を求めることになるものです。

一方、楽しみの中では、その境遇の心地良さに溺れ、いつの間にか我を忘れ、自ら人生を問い返そうとすることなどめったにありません。

このことからも、舎利弗と目蓮の二人が、いかに宗教的素養を備えていたかということが窺い知られます。

二人は、まず当時名声の高かったサンジャヤの弟子となりましたが、聡明であったためすぐに師の説くところをすべて理解してしまいました。

しかし、サンジャヤの教えによっては、心は一向に安らかになることがありませんでした。

そのような中、ある日、舎利弗が街で一人の修行僧に出遇い、托鉢してまわる姿の威儀に感動し、師の名前とその教えの内容を尋ね、その縁によって釈尊のもとを訪ねることになりました。

このとき舎利弗は目蓮を誘い、サンジャヤの弟子二百五十人ともども釈尊の弟子になったのですが、その際に大変興味深いことが伝えられています。

釈尊のもとで、初めてその説法を聞いたときのことです。

舎利弗と目蓮の二人に伴われて、二人についてきた二百五十人の弟子達は、釈尊の説法を聞くと、ただちに聖者の最高の境地である阿羅漢(あらかん)の位にまで到達しました。

聖者の境地、悟りには四つの段階が説かれているのですが、第一は預流果(よるか)、初めて悟りに向かう流れに乗り、聖者の仲間に加わった位。

第二は一来果(いちらいか)、一生迷いの生涯を送れば聖者になれる位。

第三は不環果(ふげんか)、もう二度と迷いの生死に環ることなく悟れる位。

第四は阿羅漢果、苦悩からの完全な解脱を成就した聖者の位です。

ところが、舎利弗と目蓮の二人は、二百五十人の弟子達がただちに最高位の阿羅漢果を得たのに対し、最低の預流果の境地にとどまり、すぐに阿羅漢果に至ることはできませんでした。

また、目蓮はその後七日目に阿羅漢果に至ることができたのですが、舎利弗が阿羅漢果に達することができたのは、十四日目のことであったと伝えられています。

舎利弗と目蓮の二人は、釈尊によって二大士として重んじられ、特に舎利弗は後に

「智慧第一」

と尊ばれたほどの人であるにもかかわらず、なぜ阿羅漢の位に到達するのが一番遅かったのでしょうか。

それは、おそらく舎利弗が、釈尊の説法を聞く中で、いろいろな疑問を持ったからです。

二百五十人の弟子達が少しも疑問に感じないようなことでも、舎利弗はひとつひとつのことを問い、それを明らかにして次に進んで行ったのです。

聞いて、すぐに納得する素直さも尊いことですが、その場合、仏法は聞いてすぐに理解できる人だけにしか伝わらなくなってしまいます。

ところが、すぐには納得せず、どこまでも問い続け、ひたすら考えを巡らし、その結果初めて頷くことの出来た人は、どんな人にも教えを伝えることのできる言葉を身につけることができます。

つまり、舎利弗は他の人たちがすぐに納得してしまったことであっても、それを自らの身にひきあてて問い、どのように些細なことであってもその疑問をいい加減にせず、徹底して問い続けていったのです。

だからこそ、阿羅漢の境地に到るのが最後になってしまったのです。

そして、そのように多くのことを問い続けていったからこそ、ずいぶん回り道をしたようでも、ついには多くの弟子達の中にあって

「智慧第一」

と讃えられることになったのです。

私たちは、すぐに上手くいったことはあまりよく覚えていなかったりするものですが、失敗を重ねたりする中で獲得したことはよく覚えていますし、なかなか忘れないものです。

ずいぶん回り道をしたようでも、その間にいろいろなことに思いを巡らし、ようやくたどり着いた境地は、深さと広がりを持っているように感じられます。

さて、この一年、きっといろんなことがあったことと思われますが、ここにたどり着くまでの道のりはいかがだったでしょうか。

決して、平坦な道のりばかりではなかったことと思われます。

でも

「それもまたいい」

と言えるような終わり方だったら、良いですね。