投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

昨年の甲子園大会で活躍し、注目の高校生ルーキーとして今季より西武ライオンズに入団

昨年の甲子園大会で活躍し、注目の高校生ルーキーとして今季より西武ライオンズに入団した菊池雄星投手。

そして同じく18歳という若さでの史上最年少賞金王を獲得したゴルフの石川遼選手。

二人の同級生対談の様子をテレビで見る機会がありました。

卒業式を目前に控えたまだまだあどけなさの残る、見るからに初々しい制服姿の菊池投手。

一方、タキシードに身を包み、賞金王という堂々たる風格で登場した石川選手。

見るからに対照的な二人でしたが、しかしそれぞれの活躍は誰もが知るところです。

私が特に感心しきりだったのは、お互い18歳とは思えないほどの丁寧な受け答え。

そして何より、野球、ゴルフに取り組むそれぞれの姿勢でした。

私より一回り以上も年の離れた彼らではありますが、年齢を問わずその姿、考え方に大いに学ぶものがありました。

中でも印象深く心に響いたのが、雄星投手の

「試合」

ということへのとらえ方でした。

試合とは

「試し合い」。

相手がいてこそお互いの力と力を発揮しあえる。

自分の成長があるのも、相手がいてこそであり、決して独りよがりではなく、相手を讃え敬うことを忘れない彼の姿勢にとても感銘を受けました。

また石川選手も、ゴルフというスポーツは確かに個人競技ではあるけれど、ゴルフができる環境を整えてくださるスタッフの皆さんや、ギャラリーの方々の応援に支えられていることを常々心がけ、有難く感謝の気持ちを持ってプレーさせていただくというその姿に、更にまた心惹かれるところとなりました。

それぞれ、プロという厳しい世界で生き抜く話題の18歳。

人気と実力もさることながら、そこに至るたゆまぬ努力と、それを根底から支える心の持ちよう。

プレーと、そしてその人間性から、たくさんの気づきを私もいただいたことです。

職業や生きる現場は違っても、その人の生き方や姿勢に学ぶことは、私たちにも共通して大事な視点となるのではないかと感じます。

私の生き方はどうか、様々な角度で振り返ることのできる視点を忘れずにいたいです。

『本当の喜びはいつまでも消えない』

今年の11月に祖父の七回忌を迎えます。

祖父は、私の寺院の前住職で、外孫ではありましたが、初孫である私をとてもかわいがってくれたことを今でもはっきりと覚えています。

私の寺院では祖父の後に住職を継ぐ者が決まっておらず、後継者不在のまま祖父が住職の任についておりました。

私が小学校1年の時、祖父にこう聞いたことがあります。

『おじいちゃん、おじいちゃんはお寺のお坊さんでしょう?おじいちゃんがいなくなったら、誰がこのお寺のお坊さんになるの?』

すると、祖父はこう答えました。

『うーん…だれもいなくなるねぇ。

どうしたらいいかねぇ?誰もおらんがよ…。』

そう言った時の祖父のさみしそうな顔は、今でも忘れることができません。

祖父が大好きで、

「なんとか

祖父の力になりたい…」

そう考えた私は、こう言いました。

『おじいちゃん、じゃあ、おじいちゃんの次は僕がするよ!』

それを聞いた祖父は、はじめはびっくりした顔をしていましたが、次の瞬間その顔が笑顔に変わりました。

『おぉ…、本当かね?やってくれるかい?』

祖父の喜ぶ姿が見たかった私は、間髪を入れずに

『うん!』

と、うなずきました。

それを聞いた祖父は、満面の笑みと共に、溢れんばかりの涙を流して喜んでくれました。

当時の私には、嬉しいという言葉を口にしているのに、

「なんで泣いているんだろう?」

とその理由がよくわかりませんでした。

時がたち、今年が祖父の七回忌ということもあり、改めて祖父との様々な出来事が思い出されます。

本堂でお勤めをする時も、手を合わせながら

「祖父との縁があったからこそ、今の私がここにいるんだなぁ。

私のいのちがこうして今ここにあるのも祖父がいたからこそだなぁ。

その祖父も、阿弥陀さまのみ教え、寺院をささえてくださるご門徒の方々のお蔭さま、助けてくださる周りの人々の支えがあったからこそあった命だったんだなぁ…」

と、しばしば感じることです。

手を合わせ、阿弥陀さまのみ教えを味わい、そして今自身がみ教えに照らされていく中で、この手を合わせる契機となった祖父との尊く不思議な縁をとおして、命のまことの姿に気付かされることです。

そういった、命のまことの姿に気付かされることで、今こうして生きていること、尊いいのちをいただいていることに、心からの喜びを感じることです。

私のいのちは、決して独りであるのではない。

たくさんのいのちの支えのなかに、たくさんのいのちの喜びの中にある。

そう考えると、この私のいのちの事実を日々心から喜ばずにはいられません。

「親鸞聖人が生きた時代」5月(前期)

平安時代の末期、人間社会の未来の否定を内包した終末的予言が、恐怖的な暗黒底流として、時代精神に刃をつきつけていました。

いわゆる

「末法思想」

です。

事実、戦乱や天災が相次ぎ、この世は地獄のようなありさまでした。

そうした時代に、親鸞聖人はお生まれになりました。

平安中期から鎌倉時代にかけて著された諸種の

「往生伝」

をひもとくと、そこにはひたすら死に急ぐ僧侶がたびたび登場します。

たとえば…、

比叡山の行範(ぎょうはん)は、大坂天王寺の門前から西の海に漕ぎだし、袂に小石などを詰めて海底に沈んだ。

備中国吉備津宮の神人(じにん)藤井久任は、近くの丘に積み上げた薪に火を放ち、燃え盛る炎の中に我が身を投じた。

武蔵国慈光寺の延久(えんきゅう)上人は、本堂に籠もって食を絶ち、十日ほどして餓死しているのを発見された。

京都のとある上人は、衆人が見守る中、阿弥陀峰の麓において焼身自殺した。

近江三津浦の聖(ひじり)は、結縁(けちえん)の僧俗の乗る数十艘の小舟と共に琵琶湖中に進み、合掌・結跏趺坐(けっかふざ)の姿のまま水中に消えて行った…。

死の手段としては、以上に見た入水、焼身、断食のほかに、縊死、埋身(土中入定)、切腹などもありました。

それらの自殺は総称して異相(いそう)往生と呼ばれ、

「往生伝」

はそのいずれについても、讃嘆すべき行いという態度をもって言及しています。

それにしても、彼らはいったいなぜそんなにも死に急いだのでしょうか。

彼らを自殺へと誘ったのは、いったい何だったのでしょうか。

答えを先に言ってしまえば、その何かとは、

「末法思想」

でした。

末法思想とは、釈尊の教えが少しも守られない現実世界に危機意識を抱いた仏法者が、インドにおいて説き始めた思想で、日本には平安初期、中国を経由してもたらされました。

この思想の眼目は、釈尊の入滅後、年代が経つにつれて正しい教法が衰退するというところにあり、その段階は正法・像法・末法の三時に分かたれるとされていました。

そして、最後の末法時になると、人々がいくら仏教信仰に励んでも絶対に救われず、この世には戦乱や悪疫がはびこって、地獄のようなありさまになるというのです。

つまりは、現世の否定、人間社会の未来の否定を内包した終末的予言であったわけで、しかもそれが死後の世界の認識とも深く関わっていたため、いっそう深刻でした。

「心無限の力」(上旬)心はずっと君と

======ご講師紹介======

有村佳子さん(指宿ロイヤルホテル代表取締役)

☆演題 「心無限の力」

ハ−トフル大学は、1年に10回開催されます。

そのため、5月と6月は過去のバックナンバ−から掲載いたします。

5月は、指宿ロイヤルホテル代表取締役の有村佳子さんのご講話です。

有村さんは、さいたま市生まれ。

昭和三十四年三井信託銀行に入社。

昭和四十年に有村芳郎氏と結婚、指宿で旅館経営を始められます。

昭和四十八年に指宿ロイヤルホテルを創業、副社長に就任。

昭和五十七年より同代表取締役に就任。

県観光連盟委員、いぶすき町づくり協議会会長。

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夫の有村芳郎が死に近付いていく中で、

「君と最後の話をしよう」

と言ってくれた時がありました。

もし、あの最後の話をしていなければ、私は立ち直れなかったかもしれません。

苦しい息の中から、彼は今まで自分がどういう思いで生きてきたのかを一生懸命話してくれました。

肺結核で死んでも仕方がなかったのに、社会復帰が出来てしたいと思っていた事業も思う存分することが出来た。

本当に幸せな人生だったと言ってくれました。

また、僕は君と結婚して普通の人の三倍は楽しかったと言ってくれました。

そこで私も

「あなたと結婚する時に、私の父と一緒に実業家になる三つの夢の話をあなたから聞きました。

ごめんなさい。

あの時、あなたになんか出来っこないと思いました。

言うのはタダだと思って聞いていました。

あなたは出来ない条件ばかりの中、三つの夢全てをかなえられました。

ホテルも出来ている。

焼き物も出来ている。

観光と農業が一体となった実験農園が今出来ようとしている。

どうかそれを見てください」

と、言いました。

すると有村は

「もう僕にはその時間はない」

と言いました。

そして

「医者から死の宣告を受けた時、事業をやりたいとわがままを言った。

でもそれは、まだこの命が続くと思ったから言った。

今、この命が終わる時がきたんだ」

と続けました。

「君もいつかこの世を終わる日が来るだろう。

その時、生きて良かったと思えるような人生を歩んでおくれ。

僕は死んで姿が見えなくなる。

でも心はずっと君と一緒に生きてあげる」

と言ってくれました。

そして息を引き取ったのです。

お葬式がすんで、ホテルに戻りました。

泣いてなんかいられません。

社長、副社長がいない間に資金繰りがどん底状態で社員に給料が払えない状態になっていました。

四十一歳で社長として放り出されたのです。

怖かったのは社員の目です。

社長が死んで奥さんが社長になったけど、この会社はどうなるのだろうと思われているのが分かりました。

私は、一人ではやっていけないと思いました。

そして、会社を処分してしまおうとも思いました。

しかし、このことがとんでもないことを引き起こすのです。

『咲いた花にもいのちあり散った花にもいのちあり』

地球温暖化の影響でしょうか。

かつては入学式や入園の時期の花だった桜も、4月の声を聞く頃にはもうほとんど散ってしまうようになりました。

さて、アメリカの著名な哲学者レオ・バスカリーアが生涯にただ一冊書いたと言われる

『葉っぱのフレディ』

は、私たちに生とは何か、死とは何かを静かに問いかけています。

仲間の葉っぱたちが次々と枝を離れる姿に不安と恐怖を覚えたフレディは、たった一枚一緒に枝に残っているダニエルに語りかけます。

「ぼく、死ぬのがこわいよ」と。

すると、ダニエルは答えます。

「そのとおりだね。

まだ経験したことがないことは、こわいと思うものだ。

でも考えてごらん。

世界は変化し続けているんだ。

変化しないものはひとつもないんだよ。

春が来て、夏になり秋になる。

葉っぱは緑から紅葉して散る。

変化するって自然なことなんだ。

君は春が夏になるときこわかったかい?

緑から紅葉するときこわくなかっただろう?ぼくたちも変化し続けているんだ。

死ぬというのも、代わることのひとつなのだよ。」

変化するって自然なことだと聞いて、フレディは少し安心しました。

枝には、もうダニエルしか残っていません。

「この木も死ぬの?」

再び問うフレディに

「いつかは死ぬさ。

でも、いのちは永遠に生きているのだよ」

と、ダニエルは答えます。

やがて時が来て、枝から離れ地面に降りたフレディは、

「いのちというのは永遠に生きているのだ」

というダニエルの言葉を満足感とともに思い起こすのでした。

そして、フレディは土に帰り、新しいいのちを育む力となっていくのです。

私たちは生きている人々とだけ生きているのではありません。

私たちに先立っていった方々とも生きている。

先立っていった人のいのちが、私の中に生きていて下さる、支えていて下さるということを感じることはないでしょうか。

人間は、決して死んで終わりではないのです。

お浄土に帰って仏になり、生きている私たちをいつも照らし導いていて下さる。

それは、あたらいのちの誕生だといえるでしょう。

「念仏の教えと現代」4月(後期)

さてここで今一度、私たちの人生における三つの柱の問題について考えてみたいと思います。

それは、安らぎを得ること、善い行いをすること、理性的な生き方をすることの三つですが、私自身がそのような生き方をすることと、阿弥陀仏との出遇いの関係についてです。

端的にいうと、一方で三つの条件を満たす人生を求め、そして他方で阿弥陀仏をつかもうとしても、絶対に阿弥陀仏と出遇うことは出来ないといわねばなりません。

なぜなら、前者の破綻が後者の可能性を導くことになるからです。

ここでまず私たちは、自分自身がどうしようもない愚かさの中にあることが知らされます。

けれども、そのどうしようもない愚かな自分が、自分の姿の愚悪性を知ったが故に、阿弥陀仏に出遇うという縁に恵まれることになったのです。

では、この人間と

「善行」

との関係はどうなるのでしょうか。

人間である以上、善を行うのは当たり前のことです。

けれども、真に愚かさを知った人間にとっては、その行為において、自分はこんなによいことをしているという力みは消えることになるのではないかと思われます。

ここでは、愚を知るが故に、お互いがお互いを許し合うという非常に柔軟な心が生まれます。

ここに、親鸞聖人が明らかにされた信心の特徴が見られます。

しかもこの人は、臨終ということを全く問題にしません。

この信心の人々を、まさしく仏果が定まった人々という意味で

「正定聚の機」

と呼んでいるのですが、この人々の心は、今まさに如来に救われている、すでに如来の大悲の中で生かされているという強さに満ちていることになります。

だからこそ、この人々にはもはや迷信など問題ではなくなっています。

しかもここに、生き生きとした、念仏を喜び、その念仏の素晴らしさを他に伝えるという、念仏者の実践が始まることになるのです。

これが、親鸞聖人の教えのあり方の基本ということになるといえます。