投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『「動」人を育てる』(下旬)角度を変えて見れば、どんな子どもにも長所がある

最後に、私が好きな言葉

「動」

についてお話します。

この言葉は、18年前に出された

『動〜小嶺忠敏の熱い風』

という本のタイトルです。

この本を書いたのは、私の高校教師時代からの古い仲間で、大貫哲義という作家でした。

この方が本を書くとき、私の本を書くならタイトルは

「動」

だと決めていると言ったんです。

それはなぜかと聞くと、彼は自分のお師匠さんの教えを聞かせてくれました。

『彫刻などの物は、それ自体が動くことはないし。

しかし、見る側が動くことによって物は変化する。

例えば旅行だ。

鹿児島にいれば、鹿児島の錦江湾や桜島のよさがわかる。

しかしよそに行ったら、もっと美しい所があるかもしれないし、逆に自分の故郷の素晴らしさを再確認することもあるだろう。

だから、そういう自分の故郷のよさと課題を見つけるのが旅行なんだ。

人生も一緒だ。

だから、人生というのは常に動くことなんだ。

「動」

によって物は変化するんだ』

ということです。

サッカーも子どももそうです。

万能はいませんよ。

どんな子どもでも短所はあります。

でも、角度を変えて見れば、すばらしい長所があるんですよ。

指導の秘訣はここです。

サッカーの選手で言えば、走れて、高さもあって、ドリブルも上手くて、リーダーシップもあるような万能選手が理想なんでしょうが、私が40年見てきた中で、そんなのは1人もいませんでした。

でも、足が特別に速い、ドリブルが人一倍器用だ、高さがあるというように、何か1つあるんですよ。

それは本人の努力によるものじゃありません。

ご先祖から来る遺伝子が、そういう体をくれたんじゃないですか。

だから私は、教育の第一として、親や先祖に感謝する気持ちを持て、故郷に帰ったらまずお仏壇やお墓にお参りしろと言っています。

今ある姿というのは、足が速いだけ、背が高いだけで決して万能じゃないけれど、それは有り難い長所なんです。

それを自分がどうやって生かしていくか、そこからが本人の努力です。

ちょっといいところがあれば、それを伸ばしてやる。

悪いところがあったら叱ってあげる。

教育の原点は、言葉は悪いけれどもアメとムチです。

今は、アメばかりが多すぎる。

厳しさと優しさ。

これできちっと指導してあげることが、これからの日本の子育てには必要なんです。

「仏さまにお参りする時、合掌・礼拝するだけではいけませんか」

浄土真宗のお参りの作法として示されているのは、合掌して“南無阿弥陀仏”とお念仏を称え、礼拝するという在り方です。

この場合、お念仏を称えずに黙って礼拝する黙念という作法はありません。

合掌する時は、必ず声に出して

「ナモアミダブツ」

と、お念仏申しましょう。

声に出すことは、称えている私が阿弥陀仏の願い、はたらきを聞かせて頂いているのです。

「歎異抄」

という書物の中に、念仏は称えるものにとって、自力のはからいによって行う“行”ではなく、自力のはからいによって努める“善”でもないと記されてあります。

阿弥陀仏の“我にまかせよ、必ず救う”という願いが具体的なはたらきとなって私に届いているのが、南無阿弥陀仏のお念仏です。

私の口から出るお念仏ですが、実は阿弥陀仏のはたらきが私に届き、称えさせていただいているのです。

また、一般に私たちは自分で勝手にはからって、たくさん称えたり、心をこめて称える必要があるかのように思ってしまいますが、念仏とは阿弥陀仏からのはたらきそのものですから、称える回数などは関係ありません。

仏さまにお参りする際には、お念珠を手にして、合掌し、心静かにお念仏申させていただきましょう。

その声の中に阿弥陀仏のはたらきを感じ、感謝の気持ちで礼拝する姿が大切です。

本願寺八代宗主、蓮如上人がおっしゃったお言葉を書きとめた『御一代記聞書』の中に

本願寺八代宗主、蓮如上人がおっしゃったお言葉を書きとめた『御一代記聞書』の中に

「たとい正義(しょうぎ)たりとも、しげからんことをば、停止(ちょうじ)すべき由候」

という言葉があります。

この

「正義(しょうぎ)」

というのは、信心についての正しい理解という意味なのですが、いまここでは、もっと広く世間一般で理解されている

「正義(せいぎ)」

という意味で理解したいと思います。

「しげからん」

というのは、

「主張し、そのことに固執する」

ということです。

そうすると、

「正義なりとしげからん」

というのは、自分は正義の徒なのだ、自分こそが正義の味方なのだと、どこまでも自分が正義であることに固執して、それを主張し続けるということです。

そこで、そういうことは

「停止すべき由候」

つまり

「やめなさい」

と注意しておられる訳です。

これは、社会生活を営む上で、それぞれが自分の正義をどこまでも主張し続けるということが、もっとも人を悩ませ、ひいては大きな争いを引き起こすということを指摘しておられるのです。

特に知っておかなければならいのは、私たちの人生の争いは、善と悪との争いではなく、常に善と善との争いだということです。

お互いに自分は間違いない、自分が正しいのだと、お互いに自分の善を主張する。

そして、お互いに自分の善に固執するところから、争いはとどまることなく続いていくのです。

また、蓮如上人は

「まいらせ心がわろき」

ともおっしゃっておられます。

「まいらせ心」とは、

「自分は良いことをしたぞという思いで、それを人におしつける心」

のことです。

端的には、自分の正義を他人にどこまでも主張し続けていく在り方のことです。

有名な歴史作家であった司馬遼太郎さんが、ベトナムの戦地をまわってこられた紀行文の中で

「人間は、正義の名を自分に掲げたときには、どんな残酷なことでもする」

と述べておられます。

人間は

「自分は正義の徒である」

というように、自分に正義の名を付けたときには、その正義の名においてどんな残酷なことでもしてしまう存在だといわれるのです。

そのために、それが

「平和のために」

となされる行為であっても、人は自身の正義をふりかざすことでかえって争いを大きくしてしまうことがあるのです。

それは世界のいたるところで見られる悲しい現実です。

さて、常識で考えて、人は悪いことをしている時、実は内心ではそのことに対して痛みを持っているものです。

そのため、機会があれば改心することも多いのですが、一方自分が正義だという思いに凝り固まっている人は、どうにも手がつけようがないということがあります。

そのため、むしろ悪よりも正義の方が人をより深く惑わせるということがあります。

しかも、そのような人は、自分の行為に疑いを持つことがないため、どこまで突っ走るかわかりません。

だからこそ、私たちはそのような在り方を見つめさせる仏法に耳を傾けることを忘れないようにしたいものです。

『咲いた花にもいのちあり散った花にもいのちあり』

私たちは日常、特に気にすることもなく

「いのち」

という言葉を口にしたりしていますが、果たして

「いのち」

とはいったい何なのでしょうか。

私は気がつけばこうして生まれていたのですが、自分が生まれたときのことは、自分では何ひとつ分かってはいません。

また、やがてはいつか死んで行くことになるのですが、死ぬということはいったいどのようなことなのか、実のところそのこともよく分かってはいません。

つまり、私のいのちは分からないところから始まって、分からないところへ行くということだけが確かに分かっていることなのです。

そうすると、いのちとは分からないところから始まって、分からないところで終わるもの。

言い換えると、いのちとは何となく分かっているようで、実は自分にはよく分からないものなのだといえます。

けれども、事実はそうであるにもかかわらず、私たちは今こうして生きている間は、誰もがいのちとは何かということを分かったつもりで生きているように見受けられます。

ときに、この世に生を受けて生きているのは人間だけではありません。

この地球上には多くの生き物が生きており、しかも経典には

「生きとし生けるものは、すべて自らのいのちを愛して生きている」

と説かれています。

ところが、現実の世界においては、すべての生き物は自らが生きるために、いのちを持って生存している他の生きものを食べなければ生きては行けません。

それは、このいのちは他の生き物のいのちを奪うということの上に成り立っているということです。

もちろん、このことは何も人間だけに限ったことではありません。

この世に生を受けているどんな生き物も、死にたいと思って生きている生き物は一つもないと思われるからです。

例えば、大変な日照り続きで水をやらないと枯れるというような時でも、水がなくて苦しいから枯れたいと思っている草木はないと思います。

しかし、残念ながら水がなければ結局枯れていってしまいます。

そういう意味では、人間というのは極めてわがままな生き物だといえます。

何故なら、人間は辛いことや苦しいことがあると、自ら死にたいと考えてみたり、あるいは実際に死んでしまうことがあったりするからです。

どのような生き物も、平等にいのちの根底には

「生き尽くそう」

ということがあります。

その生を尽くそうとしている生き物のいのちを、人間は生きるために殺して食べて生きています。

もし、全ての生き物が同じ言葉を話すことが可能であるとしたら、ただ黙って死んで行く生き物は一つもないのではないでしょうか。

私のいのちを生かすために死んでいった無数のいのちの言葉。

それは

「いのちの願い」

とでも言い換えることが出来ますが、それはいったいどのような願いなのでしょうか。

ひとことで言うと、

「私のいのちを無駄にするような生き方だけはするな!」

ということだと思います。

もし、多くの生き物のいのちを奪って、単にそのまま死んで行くだけなら、無数のいのちを踏みにじって殺したというだけの人生だと言わざるを得ません。

まさに

「罪悪深重」

です。

私が生きて行くということは、同時に多くのいのちの願いを生きるということです。

そして、その無数のいのちの願いを成就するということは、仏の教えを聞いて自らが仏となるということです。

このような意味で、仏の教えを聞くということは、人間がいのちを奪い続けるだけの存在から、無数のいのちの願いを成就していくはたらきを担う存在となって行くための唯一無二の機縁だといえます。

それはまさに、一歩一歩願成就の行者として生きて行く私となっていくということです。

現代は

「いのちが見失われた時代」

だと言われますが、このようないのちの願いに応えるという視点を賜るとき、季節を彩る花の中に、いのちを感じる心が美しく花開くように思われます。

「念仏の教えと現代」4月(中期)

そうしますと、私たちの人生は、ここで根底からひっくり返ってしまうことになるのではないでしょうか。

なぜなら、私たちの一切は今まさに南無阿弥陀仏という仏さまの大いなる慈悲の中で生かされていることになるからです。

それは、大いなる仏の心の中に自分の姿があるということに他なりません。

そうだとすれば、たとえこの自分にどのようなことが起ころうと、それはそれでよいということになってしまうのではないでしょうか。

一般に、私たちは科学的にあるいは道理的に判断できるようなことや、筋の通っていることには理性的に対処することが出来るのですが、全ての人間は例外なく常に不条理の中に佇んでいます。

そのため、突然の不幸に見舞われると、心が動転して、自分がいったいどのように進んで行けばよいのか全く分からなくなってしまいます。

そのために、迷信や俗信といった訳のわからないものにしがみつくより他に仕方がなくなってしまったりします。

けれども、愚かな人間の心からしますと、老いと病と死との中では、やはり必然的に苦しまなければなりません。

寂しさの中では寂しさに落ち込んでいかなくてはなりませんし、激痛があればその痛みの中でのたうちまわる自分の姿が現れてきます。

しかも、凡夫である私には、残念ながらこれを拭い去ることは出来ません。

世間には、仏教を名のり、経典を読誦したり、仏力を信じることによって病気が治ったりすることを説く教えもありますが、因果の道理から言えば、既に

「生」

という因がある以上、私たちはその結果として必ず

「死」

に至るのです。

したがって、その縁は無量であって、その縁の一つである病気を除くことに宗教が関わるはずはないのです。

まさに、老いと病と死との中で苦しむことこそが現実の凡夫の姿であって、自分ではどうにもしようがないのですが、一方でその自身は無限の仏の光の中に生かされているのです。

まさに、さまざまなことに迷い、多くのことに惑う中で、私たちは自分の心が無限の仏の中で輝いている、そういう自分を見出すことが出来るのです。

『「動」人を育てる』(中旬)親、先生が“教えるべきこと”は「しつけ」

私の教え子には、サッカーの日本代表選手が3人おります。

大久保嘉人、徳永悠平、平山相太です。

その前は、三浦淳宏とかおります。

もし、私がいちいち口出しをして、私のやり方を教え込むだけだったら、彼らはみんなワンパターンな選手になっていたでしょう。

でも、彼らは一人ひとり全部違います。

大久保嘉人は好き勝手動きますし、平山相太は高さを生かしたプレーをします。

他にも、横浜FCにいる三浦淳宏はフリーキックが天下一品ですね。

それも、毎日の練習の中で自分で遊びながら生み出していったんですよ。

私は三浦淳宏に、フリーキックは毎日10本の練習をするように言っていました。

毎日100本も蹴っていたら、それでケガをしてしまいますからね。

1日10本蹴れば、1年間で3650本蹴ることになります。

その積み重ねが上達につながる訳です。

それで彼は、1日1日蹴り方を変えながら、毎日練習しました。

そんな中で、自分にマッチした蹴り方を見つけて、そのやり方で日本一になったんです。

このように、いい選手の個性というのは、自由な発想から生まれるんですよ。

個性はその人の持ち味です。

三浦淳宏のフリーキック。

平山相太の柔らかいヘディングといった、彼らの個性、得意武器は周りから指示されたものにしたがっていただけでは出来ません。

では、教育で私たちが子どもに

「教えるべきこと」

は何かというと、それは私たちが社会生活をしていく上で、最低限必要なこと。

要するに

「しつけ」

ですね。

時間に遅れないこと。

物を出したら後片付けをすること。

みんなと一緒の時は協力すること。

会社の上司や学校の先生、先輩に挨拶をすること。

社会では、当然のことです。

しかし、最近ではそれが出来ない若者がいるという話を聞きます。

会社で部長と課長がいても知らん顔。

声をかけても反応しない。

それが一流大学を出た新入社員の様子だそうですよ。

これはみなさん、家庭ですよ。

幼いころに、そういうことをきちっと家族が教えていたら、ピシッと育っていたんです。

以前、保護観察官を務めていた人に話を聞いたことがあります。

その人が言うには、保護観察を受ける人には共通点があって、

「あー」

とか

「うー」

とか、まともに挨拶と返事が出来ないそうです。

裏を返せば、それがごく自然に出来ない人は、非行に走る確率が高いといいますね。

だから、我々の社会生活においては、学校の指導者が、そして家庭がこれを教えないといけないんですよ。

近所の人に会ったら、ちゃんと挨拶、そうしたら気持ちがいいでしょう。

そう教えるんです。

そりゃあ、最初は強制かもしれません。

でも、私が国見高校で教師をした時、ある校長さんが、挨拶をさせるよう指導しようと言ったんですね。

この国見高校は、私が行く前は、生徒の煙草で校舎が火事になったこともあるような悪い学校でしたが、こいつは何とかしなくちゃいかんという先生方のピシッとした指導があって、お蔭さまで今のように良くなったんです。

そういうことを家庭でしつけられていた子ども達は、ごく自然に挨拶が出来るそうですね。

だから、5歳までに家庭で教えておくんですよ。

まず家庭で、母親なり家族がちゃんとしつけて、それで学校でも先生がそういうことを教える。

そうすれば、ごく自然に出来るんです。