投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

こどもを寝かせるとき、余裕があれば

こどもを寝かせるとき、余裕があれば

「読み聞かせ」

をしています。

15分程度かな。

ジャンルは何でも。

絵本が中心です。

最近は、世界の偉人たちの伝記をいただいたので、少しずつ読み進めています。

1冊1冊が結構詳しく書いてあり、毎日15分読んでも、1冊読み終わるのに2週間くらいかかります。

これまでに読んだ伝記は9冊。

マザーテレサ、ライト兄弟、ベートーベン、宮沢賢治、ファーブル、エジソン、ナイチンゲール、一休、キリスト。

ライト兄弟が苦難の末、飛行に成功したときには親子で拍手喝采しました。

ベートーベンが孤独のなかで美しい音楽を生みだしたときは、即日ネットで曲を探し、聴きほれました。

宮澤賢治が結核に冒されながらも、農民のために尽くしたことを知り、次の日、ささやかながら親子で庭いじりをしました。

10月21日エジソンの日を、カレンダーに書きこんだりもました。

親子で感動を共有できるのも、伝記を読む楽しみとなっています。

それにしても、偉人たちの生き方には本当に感動させられます。

さすが“偉人”と言われる人たちです。

ほんとぉーーーにスゴイ!!!

これら伝記を読むと、その都度

「この人みたいに生きたい…」

と、ことごとく影響されています。

さて、ここ数日、うちの子がファーブル昆虫記(伝記じゃないですが…)をまるまる一冊書写することに取り組み始めました。

本の中身を、ただひたすらノートに書写するという遊び。

楽しいのかなぁ?と思うけど、ま、虫が好きだから気に入ったのでしょう。

好きにさせときます。

『南無阿弥陀仏 私の口から如来の願いがこぼれる』

私たちは、自分が掛けている願いについては、しつこいくらいとてもよく知っているものですが、その一方自分に掛けられている願いについては、なかなか自ら気付くということは難しいようです。

例えば、私たちはそれぞれに名前を持っていますが、その私の名前とは単に他の人と区別するための記号の役割だけではなく、私に対する親の願いが込められたものです。

ところが、日頃そのことに深く頷いているかというと、殆どの場合誰かに呼ばれたら返事をするだけのことで、その願いについては特に気にもとめていないというのが正直なところです。

さて、親鸞聖人が

「真実の教」

と示される

「仏説無量寿経」

によれば、南無阿弥陀仏という仏さまは、菩薩であられた時の名を法蔵といい、世自在王仏のもとで修行をなさった時に四十八の願いを立てられ、その全てを成就されて仏に成られたと説かれています。

その中の第十八番目に誓われた願いが特に重要で、そこでは

「わたしが仏になったとき、あらゆる人々がまことの心で信じ喜び、わたしの国に生まれると思って、たとえば十声念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。

ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」

と誓われています。

このことを親鸞聖人は、いま私が称えている

「南無阿弥陀仏」

という念仏の声は、私が自らの力によって称えているのではなく、実は阿弥陀如来がこの私の上にはたらいて

「念仏せよ、救う!」

と、私をよんで下さるよび声なのであると教えておられます。

ところが、私たちは子どもの頃から教育によって科学的なものの見方をすることを刷り込まれていますので、私の口から出ている念仏の声が、阿弥陀仏そのものであると理解することは到底出来ません。

ましてや、南無阿弥陀仏が

「念仏せよ、救う!」

という阿弥陀如来の願いのはたらきそのものであると理解することはきわめて困難だと思われます。

けれども、阿弥陀如来は、私たちが理解してもしなくても、見捨てることなく常に照らし続け、迷いのいのちを生きる私たちを仏に成らしめることを願い、この私の念仏の声にまでなって、

「念仏せよ、救う!」

と、よび続けていて下さいます。

『頓着』

「頓着(とんじゃく)」

の語意は、

「こころにかけること」

「気にすること」

です。

また、普段に頓着という言葉を使うときは

「あの人は何事にも無頓着で…」

と、物事を深く気にかけない野放図さやルーズなことを形容します。

また、舞台裏では暗に人を非難したり、なじったりするのに使われたりします。

もとは貪著、貪着であったのが、次第に転義して頓着の字があてられるようになりました。

この意味は、悩みや迷いのもとになる五欲をむさぼることです。

五つの欲とは、

眼・耳・鼻・舌・身

の五官の感覚的欲望、あるいは

財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲

の五つをいいます。

含意するところは、五欲をむさぼり続ければ自縛し、迷いから抜け出せなくなるという戒めです。

「親鸞聖人の他力思想」11月(中期)

そこで、ここではとりあえず本願寺の考えを抜きにして、オリンパス光学工業は、いったいどのような意図で

「他力本願から抜け出そう」

という広告を出したのかということについて考えてみることにします。

実は、この会社の言い分では、何も本願寺教団及び他力本願の教えそのものを批判したのではなく、この広告を通して

「現在の若者たちが陥っている問題点についての指摘をした」

のだそうです。

では、どのような点を問題視したのかというと、現代の若者を特徴付ける事柄として

「三無主義」

ということがいわれているのだそうです。

これは、自分達の仕事に対して

「無関心」

「無感動」

「無気力」

であるという意味なのだそうです。

したがって、そのような若者にわが社に来てもらっては困るということで、新聞の

「他力本願から抜け出そう」

という広告を出したと説明されるのです。

そうしますと、自分の会社に採用すべき若者に

「無関心・無感動・無気力な者はいらない」

ということを言うに際して、なぜ

「他力本願から抜け出そう」

という表現を用いたのかということが、ここでは問題になります。

では、この広告を出そうとする時、その会社の人々がイメージとして浮かべたもの、それがまさに本願寺教団の信者の方々の姿であったとしたらどうでしょうか。

私たちは、いま本願寺教団の中で、親鸞聖人のお育てを通して、阿弥陀仏信仰の導きを得ているのですが、その本願寺教団の人々が阿弥陀仏信仰に対して、どのように関わっているかということがここで大きな問題になります。

もし、浄土真宗の人々の信仰態度が、みんな阿弥陀仏に対して無関心・無感動・無気力であるとしますと、それは他から見れば

「本願寺教団の信者の人々は、阿弥陀仏信仰に対して無感動・無関心・無気力な人々の集まりだ」

と見られることになります。

このことを踏まえて

「他力本願から抜け出そう」

という広告が出されたのだとしますと、実はこの広告そのものが、本願寺教団に所属している私たちに対して、

「大きな警鐘を鳴らしてくれているのだ」

と受け止める必要が生じて来るように思われます。

「音楽あれこれ」(中旬)1000種類の音で演奏する工夫を

さて、外国に生活する際、必要なものは言葉です。

私は鹿児島弁なら十分できるのですが、横文字はアレルギーが出るほど苦手でしたので、留学生活の第一歩は、まずドイツ語の勉強から始まりました。

当時、旧西ドイツのバッサウの劇場で歌っておられました片野坂栄子さんを訪ねたところ、片野坂さんのご主人がとてもドイツ語に堪能な方で、教えていただくことになりました。

153もの文章を意味も分からぬまま、ただひたすら暗記。

そういう訓練を毎日、声に出して読み、書いて聞いてと繰り返し続けておりましたら、次第に話すことには抵抗がなくなってきました。

習いたて文章を街に出て繰り返し使っておりますと、親切な街の人たちは気持ちよく応じてくれました。

ウィーン大学やドイツ語学校にも通いましたが、やはりこの153の文章が、私の留学の基礎になっていると思います。

その文章は、忘れることなく今でもしっかり染みついていますから。

元気な毎日を送っておりましたら、そのうちに故郷から航空書簡が届き始めます。

両親からの文面もある訳ですが、その下の方に、母が毎回四季折々の草花を描き送ってくれました。

いわゆる絵手紙ですね。

すみれですとか、露草ですとか、今ごろだと萩とか彼岸花ですね。

蓼とか車輪梅とか、どこを歩いたんだろうかと思うくらい、画材を探して、一生懸命野山を歩いてスケッチしてくれたのでしょう。

その数500通以上。

今でも私の宝物です。

さて、ピアノの伴奏と言いますと、決まってソリストが上で

「ああ、伴奏ねえ」

と言われるのが普通でした。

しかし最近は、随分ピアノの伴奏者を大事にしようという気風があって、嬉しく思います。

大体五分五分の力を持っていないとうまくいかない、ピッチャーとキャッチャーのような関係だと思っています。

伴奏といいましても、みなさんとご一緒しましたハートフル大学の

「今月の歌」

の伴奏や、楽器の伴奏、合唱の伴奏といろいろな幅があります。

伴奏をするためには、いろいろな時代の作曲家の作品を知る必要があります。

それで、その歴史や作品の由来、背景を勉強します。

また、楽器の特性を少しでも理解するために、楽器学についても勉強します。

歌曲やオペラなどの場合は、その言葉が作り出す情景や心の動きなどをピアノで表現するために、必然的に語学も必要になります。

したがって、私の学んだウィーンの伴奏科では、

ピアノの伴奏はもちろんのことですが、通奏低音のためのチェンバロ、

初めて楽譜を見て演奏する初見、

曲を変えずに音の高さを上げたり下げたりする移調、

伴奏の練習、

伴奏学、

楽器学、

詩の解釈、

ドイツ語、

イタリア語、

フランス語と、語学の授業も必修です。

私の師であるショルム先生は、1000種類の音で演奏するようにと、常に説いておられました。

ピアノには88鍵しかないのですよ。

1000種類も弾ける訳はないですよね。

でも、どういう音で演奏したらいいかという工夫を、今でも続けております。

「頂き物は、まず仏前にお供えを」と言われるのはなぜ?

我が家では、何かものを頂くと、まずお仏壇にお供えをします。

子どもの頃、なぜ仏壇にお供えするのだろうと子どもながらに不思議に思ったことです。

例えば、何か食べ物をお供えしても、お仏壇の中におられる仏さまが食べられるわけでもないし、仏さまがお腹を空かされるわけでもないはずなのに、なぜなのだろうと思っていました。

このことについて、私は最近こう受け止めるようになりました。

それは、頂きものをまず仏前にお供えし、それを仏さまからのお下がりものとしていただくことによって、全てのものを大切な意味のあるものとして頂いていける心が育まれるのではないかということです。

振り返ってみますと、私は頂いたものだけでなく、成績表や卒業証書まで仏前にお供えしていた記憶があります。

ただし、成績表をお供えするのは、

「もっと成績が上がりますように」

とお願いしていたのではありません。

確かに、成績が悪ければやはり自分で努力をしなければなりません。

今になって思えば、成績表や卒業証書を仏壇にお供えし、それをお下がりとして頂くというのは、周りの様々な人々に支えられながら生かされてきたこと、そしてそれらのものを学校からもらえるまでに大きく成長したこと等を感謝する意味があったのではないかと思うのです。

いったんお仏壇にお供えし、それをお下がりとして頂くことによって、私はそう受け止めることが出来ようになりました。

このような意味で、頂きものはまず仏前にお供えし、それを仏さまからのお下がりとして頂くところに大切な意味があるように思われます。