投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人における信の構造」10月(前期)

阿弥陀仏の救いを信じるために、善導大師は

「二種の真実を見つめよ」

と教えられました。

一は自分自身の姿であり、他は阿弥陀仏の本願力です。

一については、既に述べました。

では、二の本願力を善導大師はどのように捉えられたのでしょうか。

かの阿弥陀仏の四十八願は、どこまでも深く信ぜよ、衆生を摂取して、疑いなく慮りなく、かの願力に乗じて、定めて往生を得。

この決定している真理を、どこまでも深く信ぜよと述べられるのですが、では阿弥陀仏が衆生をすでに摂取している真理とは何でしょうか。

善導大師は、四十八願の一つ一つの願はすべて

「念仏往生」

を誓っていると見ておられます(「玄義文」)。

したがって、この四十八願とは、第十八願の意であることはいうまでもありません。

そして、その第十八願には

「至心信楽欲生」と「乃至十念」

が誓われています。

これを善導大師はなぜ

「念仏往生」

の本願と見られたのでしょうか。

誓願とは、阿弥陀仏の誓いですから、願心は阿弥陀仏の心だと見なければなりません。

その願心が「至心・信楽・欲生」です。

ではなぜ阿弥陀仏は本願に

「至心信楽欲生」

の三心を成就されたのでしょうか。

迷える衆生を摂取するためには、どうしてもこの三心を必要とされたからです。

衆生の迷いの原因は何でしょうか。

衆生の側に真実を見る目がないということで、何が真であり、何が偽であるかを、迷える衆生は判断することが出来ません。

その不実の衆生を救うためには、その不実の心を真実に転ぜしめるべき真実心が、如来の側で成就されていなければなりません。

阿弥陀仏がまず

「至心」

という真実心を成就されたのはそのためです。

真実心のない衆生は、当然のことながら、仏陀の心、悟りの喜びは知り得ません。

そうだとすれば、悟りの喜びそのものもまた、如来の側で成就されなければなりません。

「信楽」とは、阿弥陀仏の覚りの喜び「歓喜賀慶」の心ですが、この心こそ、衆生を往生せしめる、信心となるべき心なのです。

迷える衆生は、真実を知らず、仏の心を知り得ません。

故に、仏に成ろうとする心は存在しません。

だからこそ、阿弥陀仏は衆生が仏に成りたいと願う心までも成就するのです。

「欲生」とは衆生に対して、浄土への往生を願わしめる弥陀の大悲心であり、

「念仏して救われよ」

と願う招喚の声なのです。

「陶房雑話」(上旬) 窯から出てきた焼き物は子どもと同じ

======ご講師紹介======

十五代沈壽官さん(沈壽官窯主宰)

☆演題 「陶房雑話」

ご講師は、薩摩焼の伝統を四百年に渡って受け継がれる、沈壽官窯主宰の十五代 沈壽官(ちんじゅかん)さんです。

昭和34年生まれ。

昭和58年に早稲田大学を卒業後、京都府立陶工高等専門技術学校などで陶工の技を修行。

イタリアや韓国でも陶芸の修行を積まれ、平成11年1月15日に十五代沈壽官を襲名。

沈壽官窯主宰として窯を守り、全国で「沈壽官展」を開催。

昨年10月には、福岡の博多大丸で「薩摩焼十五代沈壽官展」を開かれました。

【薩摩焼】

「白もん」と呼ばれる豪華けんらんな色絵錦手の磁器と、「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分かれます。

薩摩藩第十七代藩主とされる島津義弘の保護の下に発展しました。

平成14年1月に国の伝統的工芸品に指定されました。

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 焼き物が出来上がるまでには、窯詰めに3日、窯焚きに3日、冷やすのに3日かかります。

約10日間の作業ですが、3カ月分の仕事がそこに入っていると言われ、窯焚きを3回失敗すると家がつぶれるとも言われます。

 また窯というものは、毎回違います。

組むのが違う、天候も違う、季節によっても違う、焚く人間のコンディションも違う、つまり毎回全部違うんです。

同じ窯は二度とありませんから、すべてが最初、いつも手さぐりです。

前回がこのやり方でうまく行ったからといって、同じやり方は通用しません。

 そんな中、10日目に期待しながら窯を開けるわけですが、やはり半分は恐怖です。

窯は大きいので、すべてを均一にはできません、出てくるのは、いい物ばかりではないです。

 テレビで「水戸黄門」を見ていますと、そこに出てくる焼き物屋というのは、失敗した物をかたっぱしから割るわけです。

そういうイメージをみなさんも持っておられるのではないでしょうか。

私の友達にも、うまく出来なかった物に対して

「どうせ捨てるんだろう。だったら俺にくれよ。」

と言ってきた人がいました。

でも、そんな友達ならいりません。

 なぜなら、考えてみて下さい。

窯から出てきた焼き物というのは、私にとっては子どもと同じです。

窯はお母さんそのものです。

焼き上がった物の出来が悪いからといって、その場でパンと割るわけにはいきません。

 みなさんは、台所でお茶碗が割れたとき、パリンという音を聞いて良い気持ちがするでしょうか。

しませんよね。

私たちにとっては、もっと嫌な音に感じるものです。

ですから、みなさんの前で、公開処刑をするようなことは出来ないんです。

 もしそういうことをしている焼き物屋からいたら、その人はあまりいい人じゃないと思います。

自分たちがいかに商品を厳しく選択しているかを見せたいのでしょうけど、それにしても、やはりやり方としては間違っているのではないでしょうか。

 さて、窯を焚いているときは、いつも

「もういいかな、あとちょっとかな」

と迷います。

窯には、ちょうどいいときがあって、足りないと生焼け、過ぎると焼きすぎです。

どちらも売り物になりません。

 焼き加減は、実はちっと危ないところに入り込んだとろこがいいんです。

果物の熟れ加減でも

「ちょっと危ないかな」

というくらいが美味しい場合がありますよね。

ですが、窯の中は1300度を超えていますし、中は真っ白で何も見えません。

本当に判断がつかないです。

そうなると、結局は祈るしかなくなります。

そこで誰に祈るかといいますと、面白いもので死んだじいさんたちに祈るんです。

そして

「じいちゃん、もういいかな」

と聞きます。

すると、じいさんが出てきて

「うん、もうよかが」

と必ず言います。

それはきっと、私の心の声なんでしょうけどね。

そのとき、いつも思うんです。

「あぁ、これは自分の仕事なんだけど、自分の仕事じゃない。

多分、自分たちの仕事だ」と。

 「自分たち」

というのは、もちろん 一緒に仕事をしている工場のみんなという意味もありますが、それだけではありません。

私だけじゃなくて、私の親父、じいさん、曾じいさん、あるいは日本に来る前の人たち、全部含めてです。

 とにかく、私につながって来たいろんな人たちが、木偶(でく)のような私を動かしているんだと思います。

そういった意味で、みんなの仕事だとつくづく思うんです。

「後生」

「後生」とは、後世・末世ともいい、前生・今生と対応して死後の生をいいます。

また、極楽浄土に生まれ変わり、安楽を得ることも後生といいます。

蓮如上人の白骨のご文章に

「たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて」

とあるのがそれです。

また

「後生の一大事」

といえば、極楽浄土への往生を願い、生前一心に念仏につとめることを指しますが、本来の意味とは異なり日常語としては

「どうでもよいものを後生大事に抱え込む」

とか

「後生ですから、赦してください」

と身をひくくして頼みこむときにも使われたりしています。

極楽浄土に生まれるため、この世で徳行を積むこと、功徳としての慈悲深い行いという意味もあるそうですから、

「後生だから」

「お慈悲と思って」

との意味になるのでしょうか。

「親鸞聖人における信の構造」9月(後期)

ところで、相手のために尽くす行為は、果たして本当に相手のためになっているのでしょうか。

相手の心を知り得ない以上、相手のために尽くした行為が、あるいは相手を傷つけていることがあるかもしれないのです。

ところが、一心に善意でなした行為が、実は相手にとって「悪」であったとは、その善意が強ければ強いほどなかなか気づき得ません。

そして相手もまた私に対して、同じような善意がなされていたとすればどうでしょうか。

ここでは、善意と善意がぶつかって、悲しく醜い対立を生むことになるのだと思われます。

最も愛し合っている者が集まっている家庭において、あるいは仲間の中で、このような悲劇が起こるとすれば、利害関係が対立するような場においては、当然、激しい争いが生まれることはいうまでもありません。

この場合、対立するものの互いの主張は、必ず自らの善であって、正義と正義が争い起こして、他を傷つけてしまいます。

一つの社会に起こっている樣々な悪、殺人や盗みや邪淫、このような行為をいかに無くするかが、人間倫理の問題ですが、これらの行為が社会や国家を破滅にまで追いやることはほとんどありません。

これらの悪に対しては、人間の理性は打つ勝つことが出来るからです。

ところが、正義と正義の争においては、いとも簡単に一つの社会が、あるいは国家が破滅に追いやられてしまうのです。

このように、自己を中心としてなされる善は、それほどの恐さを持っています。

善導大師が、自らの姿を

「罪悪生死の凡夫」

といわれたのは、人は日常生活の中で、樣々な倫理的な悪を犯していますが、加えて「善」もまた、自己中心的な他を傷つけるような善しかなしえないと教えておられるのです。

この善導大師の教えを受けて、親鸞聖人は人間の行為の一切を

「雑毒の善・虚仮の行(毒を雑ぜた善・偽りの行)」

と捉えられて、この故に人は仏果に至るような真実清浄の善は何ひとつなしえず、永遠に迷い続けます。

この自分の姿の真実を厳しく見つめよと教えられたのです。

「お寺巡りとオイルマン人生」(下旬)宗教は下手をすれば国辱になってしまう

 他にも、イランの方が来られたことがあります。

敬虔なムスリム、イスラム教を信ずる方々はアルコールを絶対に口にしませんし、豚肉も食べません。

さらに、日本でいうところの「お祓い」をした肉でないと、豚以外の肉も食べられないそうです。

ですから、そういう配慮をした食材や、礼拝のための部屋、じゅうたんの提供という準備をした上でのもてなしをします。

 なじみのホテルはそのあたりをよく分かっていまして、完璧に対応してくれます。

ただ、特別に気をつけなくてはならないことが二つあります。

一つは、調味料です。

以前あったことですが、調味料の中に豚肉のエキスが使われていたことがありました。

もう一つは、日本料理にはお酒を使うものがあることです。

こういうことにも注意しながら作ってもらったりしています。

 宗教というのは、下手をすると国辱になってしまいます。

ですから、私たちも、例えばメッカの方角はどちらだとか、そういうことに非常に神経を使いながら応対しています。

 最後に、鹿児島のために何か役に立つことはないかということで行っている活動があります。

私の場合は、学校に行って、社会での経験を話す講演活動です。

それで学校で話したことへの感想文を頂くのですが、私はそれを人数分すべて頂くようにしています。

こういうのはえてして出来の良いのを10枚くらいしか送ってこないものですが、それでは全然面白くありません。

 つまらないという意見も見たい訳です。

例えば

「キャリア教育講演会を終えての感想は、まあいろいろ聞いていてすごいこともあったし、自分も学ぶことがいろいろあった。

この先、あの人にも頑張ってほしいです」

この「あの人」というは。

私のことを言ってるんです。

それから漫画を描いて

「めげちゃダメ」

と書いてあるものもあります。

 そういうネガティプな意見をもらいますと。

いろんなことが見えてきて楽しいですね。

私まで元気になります。

ですから、これはずっと続けていきたいですね。

いずれにしても、グループとして私たちは総力を挙げて地域との共生ということのために、ポランティア活動その他ですね、お役に立ちたいと思っています。

「ろうそくは、口で吹き消したらダメ?」

お仏壇のお墓のロウソクを口で吹き消すことは、良し悪し以前の作法の問題になります。

 茶道や華道などにも作法があるように、仏道にも作法があります。

例えば、お焼香の仕方をはじめとして、お念珠の持ち方、聖典の扱い方など、それぞれに決まりが有ります。

 浄土真宗の作法は、戒律といった厳しいものではありませんが、やはり

「たしなみ」

として知っておいていただけたらと思います。

 ロウソクの火は、線香の火をつけるためものではなく、阿弥陀如来さまの智慧を象徴的に表したものです。

したがって、それを私たちが息を吹きかけ消すということは、やはりいかがなものかと思われます。

 したがって、芯をつまんで消すか、あるいは手で仰いだり、市販されているロウソク消しを用いるようにして下さい。