投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

今年の夏はオリンピックで盛り上がり、いろんな意味であつ〜い夏でした。

今年の夏はオリンピックで盛り上がり、いろんな意味であつ〜い夏でした。

名場面やそれまでのドラマに感動し、“バシッ”っときた人も多いのでは・・・?(笑)

 ところで、忘れられないこと、言葉ってありませんか。

もう何年も前のドラマで、香取慎吾君や石田壱成さん出演の

『聖者の行進』

でこんなセリフがありました。

「強くなることはないです。

弱い自分に苦しむことが大事なことなんです。

人間はもともと弱い生きものなんです。

それなのに、心の苦しみから逃れようとして強くなろうとするんです。

強くなるということは、鈍くなるということなんです。

痛みに鈍感になるということなんです。

自分の痛みに鈍感になると、人の痛みにも鈍感になる…。

自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃する…。

痛みに鈍感になり、優しさを失う…。

いいんですよ、弱いまんまで…。

自分の弱さと向き合える、それを大事になさい…。

人間は弱いまんまでいいんですよ。

いつまでも、弱いものが手を取り合える…、

生きていく社会こそが素晴らしい…。」

…どうでしょう。“自分の弱さと向き合う”…。

もう何年も考えていますが、なかなか難しいです。

でも、難しいけれども、本当に大切なことなんじゃないのかなぁ〜って思います。

だからこそ“手を取り合い、支え合う”。

そこには今まで気づかなかった新しい世界がひらけてくるような…、そんな気がします。

今、「思い出ノート」を読み返しています。

さて、今年のオリンピックの感動をどんな風に書こうかな…。

『お浄土 すべてのいのちが輝く世界』

 経典の中に「耳目開明」「心得開明」という言葉で出てきます。

これは、お浄土を表す言葉だといわれています。

耳が開くということは、言葉が通じるということ、また言葉が通じるということは、心が通い合うということです。

そして、目が開くということは、事実のありまのままが見えるということです。

これらのことから窺い知られるのは、お浄土とは周囲の人びとと心が通い合い、ありのままが見えてくる世界だということです。

 振り返ってみますと、私たちは日々の生活において、出会う人をなかなか一人の人間として見ようとすることは少ないものです。

具体的には、私の思いに先立ってその人のことを肩書で見たり、あるいは経済力とか社会的地位などで見てしまいがちです。

あるいは、自分の好みでその人のことを一面的に評価してしまったりすることさえあります。

このように、すべてを自分だけの一方的な見方でとらえ、自分の思いにとじこもる在り方を仏教では「執着」といいます。

 また、経典には「心塞意閉」という言葉が出てきます。

「心をふさいで、思いをとじる」

ということですが、考えてみますと、人間はどのような苦しみに出会っても、そこに語り合える友だちがいるあいだは、絶望することはありません。

どんなに苦しい問題に直面していても、それを共に語り合う友を持ち、信じられる世界を持っている人は、決して絶望することなどありません。

 けれども

「誰に言ってもどうにもならない」

という、自分だけの思いに閉じこもったときに、人は絶望をするのです。

まさに、心を塞ぎ、思いを閉じた時に、人は救いのない、抜け場のない、言いようのない孤独な在り方の中に落ち込んでいくのです。

 ところで、考えてみますと、世の中に「苦しい世界」がある訳ではありません。

事実は、一つの世界を私は苦しいものとして生きているということがあるだけです。

したがって、同じような状態を、他の人は生きがいのある世界として生きているということもあります。

また、私自身にあっても、今まで苦しみしか感じなかったその世界が、楽しいと感じられるようになることもあります。

 同じような環境にあっても、そこに大きな問題を荷なって生き甲斐をもって生きている人もあれば、逆にただ愚痴(ぐち)ばかりを言って、世の中を呪っている人もあります。

つまり、与えられている状況を、自分自身で苦しいもの、または楽しいものとして受けとり、それぞれに生きている事実があるだけなのです。

 このような意味で、私たちが生活の中に浄土を見出し、常に浄土を心のよりどころとして生きて行くということは、苦しみにおいて常に自らの事実を明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人と共に出会っていける生き方が私の上に開かれてくるということです。

言い換えると、自分の事実をどこまでも引き受けていける、そういう場所をもつということ。

同時に、すべての人びとと喜びをともに分かち合っていける心が開かれてくることによって、私たちは自らのいのちを輝かせながら、この生涯を十分に生ききることが出来るのだと言えます。

「殺生」

 一般に「殺生」とは、むごいこと、残酷なこと、またそのさまを言います。

 「殺生」の原義は、仏教語で生き物を殺すことです。

仏教では、殺生は十悪の一つで、出家者はもちろん、在家の信者たちが日常的な習慣として身につけるべき五戒(不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒)の筆頭にもあげられています。

 経典には

「生きとし生けるものは、すべて自らのいのちを愛して生きている」

と述べられていますが、人間だけが

「殺す」

ということを知っており、しかも自覚的に殺しています。

「罪悪深重」

私はこんにちまで 

海の 大地の 

無数の生きものを食べてきた 

私の罪の深さは

底しれず

という詩がありますが、「殺」を生きることが私の現実であることの自覚に立って、そのことをいかなる意味においても正当化することなく、私のために捧げられたいのちを無駄にしない生き方を求めることが大切なのではないでしょうか。

「親鸞聖人における信の構造」9月(中期)

ここでは、誰にでも分かる悪事は、しばらく除外することにします。

いわゆる殺害、盗み、邪淫等の類です。

それは、 人間社会には倫理の目が存在していますから、このような悪は人間の知恵で制御することが可能です。

したがって、たとえどんなに悪事がはびこる社会であっても、その社会においては悪人よりも善人の数の方がはるかに多いといえます。

それ故に、人間社会では「善」の力の方が、「悪」の力に勝っているのです。

したがって今ここでは、人間の悪事を問題にするのではなくて、「善意」の矛盾性を問題にしたいと思います。

そこで、家庭について考えてみます。

端的には夫婦と親子の関係ですが、この絆は愛であり、彼らは最も強い善意で結ばれています。

ところがこの家庭に、時として悲惨な事件が起こります。

それも他のために一心に尽くしているはずであるにもかかわらず、悲劇が起きることがあるということです。

それは、なぜでしょうか。

ここで他のために尽くす時、何が必要かを見つめてみます。

それは、相手が本当に何を願っているのか、その心を知ることだといえます。

では人は、その他人の心の内実を知ることができるでしょうか。

いうまでもなく、それは不可能です。

だとすれば、自分が相手に尽くすためには、自分が一心に相手の心を推し量り、おそらくこれが相手にとって最善だと思われることをなすしか方法はありません。

ところが、それはまさに自分にとっての善ではあっても、決して相手にとって完全なる善ではないということに注意しなければならないのです。

私たちは、相手のために尽くすという心をもっています。

その尽くした行為が、もし相手に通じて喜ばれたならば、それは自分にとっても大きな喜びとなります。

けれども、もし逆に尽くした行為が拒絶されて、悪意でもって受け取られたとしたらどうでしょうか。

それが一心に尽くした行為であればあるほど腹立たしく、怒りの心が自然に生じます。

「お寺巡りとオイルマン人生」(中旬)新しい油田が見つかったようなものだ

次は、私どもの喜入基地についてです。

日本で石油を絶やすわけにはいきませんから、喜入基地が一番に考えていることは安定操業、安全操業ということになります。

そうして、安全に運転し、地域の方々に安心していただくということで、安定、安心、安全をキーワードにやっているということです。

 実は今、喜入基地は世界の産油国から注目を集めています。

そのポイントは二つです。

一つは、先ほど申し上げた安全であるということです。

創業してかれこれ40年、累計で入ってきた船の数は今年の秋で2万隻に達します。

その間事故を起こしたことはありません。

しかも昼夜で作業をしていますが、施設を止めたことも一度もありません。

それが外国の人々にとってはある意味奇跡的に思えるらしいんですね。

そのやり方を知りたいということで、それを聞きに来るんです。

 それからもう一つがガスの解除装置です。

実はしばらく前では、私どもの会社は船から出るガスの匂いで近隣を悩ませておりました。

そこである装置を作って、抜本的に解消したのです。

それは去年の夏から動いていますが、有り難いことにそれ以降の苦情は一つもございません。

やっとのことで、近隣の方々にご迷惑をかけることがなくなったということなんです。

 実はこれ、匂いがなくなったこともさることながら、ガスそのものはエネルギーですから、それを原油に取り込むことで、年間5〜6億円の収入になるんです。

新日本石油株式会社の社長が

「新しい油田が見つかったようなものだ」

と言っていましたが、まさにそういうことなんです。

これも注目を集めています。

産油国の方でも、匂いや省エネで悩んでいるみたいですから、先々売れるんじゃないかと思っています。

 あと、官庁や企業の人もよく来られます。

こういう方々は、民間企業で画期的な装置を作ったことを評価してくれますね。

たいていそういうのは国のプロジェクトで進めるものですから、それを私たちが実現したということで、新日本石油グループの底力というのを感じてくれたみたいです。

 外国からもいろいろ来られます。

例えば中国から来られたある人の話をしますが、その方は去年、中国の温家宝首相が来日した際に同行していた方で、中国共産党の幹部であり、中国の大きな石油会社の総裁という方でした。

中国の方をお招きした時に一番考えたのは、どうやれば相手が一番喜ぶかということです。

そこで気がついたのは国旗でした。

中国の人はものすごく喜びます。

 城山観光ホテルでも、私たちの喜入基地でも、滞在中はずっと中国の国旗を飾らせてもらったんですが、その時の挨拶で

「昨日まで私は温家宝のおともで東京にいた。

そのときにもたくさんの中国の国旗を見た。

でもあれは温家宝のための旗だった。

この鹿児島でも2カ所のホテルと喜入基地で中国の国旗があった。

これは私のためのものだった。

非常にうれしい」

と言っていましたね。

やったと思いました。

それ以来、新日本石油とはとても上手く行っているということでした。

残念ながら、日本は国旗にあまり親しみを持っていないみたいです。

よその国に行くと、びっくりするくらい国旗にこだわります。

その点に関しては、日本はちょっと情けないと思いますね。

「お仏壇にお水やお茶を供えてはいけないのですか?」

お仏壇にお供えするものとしては、お仏飯の他に、お菓子・果物・お餅などがありますが、いずれも自分が頂くよりも先に、「まず阿弥陀さまにお供えして、その後のお下がりを頂く」というのが、私たち浄土真宗門徒のたしなみです。

先ずお水ですが、確かにお仏壇にお供えはするのですが、それは亡くなった方や仏さまの「飲み水」としてではなく、「香水」としてです。

また、お供えする際には、コップやお茶碗によってではなく、専用の仏器を用います。

「華瓶」と書いて「けびょう」と読みますが、これに水を入れて仏飯器の隣に二つお供えします。

最近、ご家庭のお仏壇で「華瓶」を見かけた時には「毎朝これに水を入れて…」お願いしていますが、華瓶のないご家庭では「あえてコップやお茶碗を用いて水をお供えなさらなくてもけっこうです」とお話しています。

ただし「華瓶」のないご家庭では、毎朝、花立ての水を替えて下さい。

それで、お水をお供えしたものとみなしているからです。

次に、お茶ですが、お仏壇のお供えの中には入っていません。

したがって、原則的にはお供えなさる必要はありません。

一般に、朝のお参りの際にお供えして、それを翌日の朝に捨てて、また新しいお茶をお供えなさる方が多いようですが、それでは時間を少し繰り上げると「毎朝お茶を捨てている」ということになりはしないでしょうか。

始めから「捨てる」と分かっているものをお供えするのは「もったいない」ことをしていると言わざるを得ません。

もし「毎朝お茶を頂くので、その前に阿弥陀さまにお供えしたい」と思われるのであれば、お仏飯と一緒にお供えをして、朝のお参りがすまれたら、お仏飯と一緒に下げて飲まれたら良いと思います。

けれども、お供えしたままにして、翌朝捨てられるのであれば、本来お茶はお供えの作法に入ってはいませんので、あえてお供えなさる必要はないのではないでしょうか。

なお、お茶をお供えされる場合、お供えの場所はお仏壇の中央ではなく、下段に置くようにして下されば良いと思います。