投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人における信の構造」6月(後期)

では、なぜ迷いのみの親鸞聖人の心に、このような阿弥陀仏を

「信じる心」

が生じたのでしょうか。

繰り返しになりますが、それは法然聖人による

「南無阿弥陀仏」

の説法によります。

ここで、親鸞聖人自身に生じた念仏と信心の関係を整理してみます。

(1)獲信する以前、親鸞聖人には阿弥陀仏を信じる心も、浄土に往生する行も存在しない。

(2)真実の信と行を求めながら、その心が親鸞聖人には成就しなかったから。

(3)親鸞聖人は往生を願われながら苦悩のどん底に陥ってしまわれるが、そこで法然聖人と出遇われる。

(4)法然聖人が親鸞聖人に、阿弥陀仏の選択本願の行、「南無阿弥陀仏」の真実を説法される。

(5)親鸞聖人は法然聖人が語られるその念仏の教えをただ一心に聴聞される。

(6)その聴聞によって、親鸞聖人は自身を救う阿弥陀仏の大悲心を獲信される。

では、この世の浄土往生の真実の行とは何でしょうか。

法然聖人と親鸞聖人の関係によれば、法然聖人の行為が親鸞聖人に往生の因を得しめていることが窺えます。

つまり、親鸞聖人には浄土への行は見当たらず、法然聖人において親鸞聖人を往生せしめる

「浄土真実の行」

が存在しているのです。

だとすれば、浄土真実の行は、獲信の念仏者のみが、よく成し得る「行」だということになります。

ただし、その「行」は、獲信者自身が浄土に往生するための行ではなく、獲信者が未信の念仏者に阿弥陀仏の本願を獲信せしめる行為だといえます。

これが「報恩行」とよばれている念仏です。

今日、一般的には「報恩の念仏」といえば、信心を喜ぶ心を意味しますが、本来

「報恩の念仏」

とは単なる喜びの心ではなく、獲信の念仏者が成すべき、極めて厳しい、この世における唯一の真実の仏道にほかなりません。

浄土真宗に、未信の衆生が一心に行ずる往生のための行が存在しないのは、未信者には真実の行が成立しないからで、それ故に仏と獲信者が

「浄土真実の行」

を実践することになるのです。

「人生の答え・本当の安心」

−医療現場の念仏者たち−(下旬) 安心の世界へ…

私の側には助かるための準備は何もいらない。

「私が救うがままに救わせてくれ」

と、阿弥陀さまの方が言っていらっしゃる。

それがお念仏するよりも先だったんだ。

このことに出遇ったとき、彼女にとって、

「人間に生まれさせて頂いて、本当によかったと思えるようになりました」

という言葉が、年賀状にほとばしり出たんじやないかと思います。

私の病院で『ようこそ』という新聞を出しております。

その新聞にトミちゃんが

「生きるということ」

という題名で手記を書いてくれました。

そこには、人間の常識を主に生きていこうとする生き方から、阿弥陀さまの常識の方へ変わっていくところがよく出ていますので、ご紹介します。

「私は病に伏す多くの人々を見て参りました。

人の歩みはみんな違うけれども、床に伏して生きようとするその姿は、人間として生きようとする姿そのものです。

あるとき、一人の重症患者さんがいました。

その顔は苦しみそのものでした。

幸枝先生が診察のとき

『阿弥陀さまがね、戸田さんを抱っこして連れていってくださるのよ。

私もあとから行きますので、お念仏しましょう』

とおっしゃいました。

私はそのとき

『先生、また始まった。

ナンマンダブツは死んだ人に言うもんだよ』

と、内心そう思いました。

先生が真剣に話されました。

戸田さんは素直に

『ナンマンダブツ。先生、有り難う』

と言われ、その顔は安堵に満ちていました。

私は自分も抱っこされていきたいような気分になり、戸田さんに

『安心できてよかったね』

と言葉をかけていました。

そのとき自分の脳裏をかすめたものは、

『先生、ナンマンダブツって理屈じゃないんだよね』。

数日後、戸田さんは安心の世界に旅立ちました。

看護士として多くの死を見てきましたが、初めて安心して死んでいくということを見せて頂きました。

それによって、生きることの意味に気付かされました。

『阿弥陀さまが抱っこしてくださっている』、

この言葉が私の心から離れず、いつしか人間に生まれてよかったと思えるようになりました。

すると不思議なことに、人間に生まれてきたんだから、ああしてみようか、こうしてみようかと、今までとは違った自分がそこにあることに気がつきました」

というようなことを書いてくれました。

人間に生まれさせていただいて、仏法を聴聞し、そしてご縁に出遇う。

これが最高の生き方で、そこからが本当の人間として生きることなんだと思います。

誰もが無条件で平等に救われていく、それを喜んで生きていくことが

「人間に生まれて本当によかった」

ということだと思う訳です。

「お経とは何ですか?」

お経とは、お釈迦さまが亡くなられた後、その「み教えが散逸しないように」と、お弟子の方々がお釈迦さまの説かれたお言葉を書き留めたられたものです。

キリスト教には『聖書』、イスラム教には『コーラン』があるように、仏教は「仏教経典」があり、一般にはこれを略してお経と読んでいます。

ときに、よく「正信偈」をお経と思っておられる方がいらっしゃいますが、「正信偈」は親鸞聖人が書き著されたものです。

したがって、仏教においてはお釈迦さまが直接説かれたものをお経とみなしていますので、浄土真宗の門信徒にとって「正信偈」は大切な聖典ではありますが、厳密にいうとお経ではありません。

浄土真宗におけるお経とは

「仏説無量寿経」

「仏説観無量寿経」

「仏説阿弥陀経」

のいわゆる「浄土三部経」になります。

私たちがお経を唱えるのは、仏さまのお徳を讃え、そのご恩に感謝するためです。

したがって、

ご法事でお経を読むのは、その功徳を亡くなった方のために振り向けること(追善回向)が目的ではなく、今は既に仏さまに成られた方々の仏徳をほめたたえるためです。

『MOTTAINAI』(もったいない)

『MOTTAINAI』(もったいない)

この言葉。。。

アフリカ ケニアのワンガリ・マータイさんが世界中に広めようって活動しているらしぃ。。。

日本では最近あまり聞かれなくなってきたなぁ(>_<) どうしてかな?? ものが豊って言うか・・・あふれるほどあるから??? この前親戚の子どもと話をしていた時のこと。 ○ 私「おもちゃが壊れたのなら修理して使ったら」 ○ 子ども「また買えばいいよ♪」 ・ ・・・・(^^;)・・・(>_<)・・・(T_T)・・・・ 私の小さい頃は、壊れてもそのまま遊び続けていたのになぁ・・・ 真っ黒く汚れてきても、逆に 「このぬいぐるみじゃなきゃ、イヤだッッッ!!!」 ってなるくらい愛着がわいてきてたのになぁ・・・(^_^;)懐かしい。。。 「もったいない」って、あったかい言葉だなぁってわたしは感じています。 そのものを大切にするだけじゃなくて、そのものにたいして、尊敬や愛を向ける言葉なんじゃないかな☆☆☆☆☆ この「もったいない」は、日本人が昔から大事にしてきた言葉のように思うけど。。。 実はもともと仏教の言葉といわれています。 それを今、外国の人がその精神に感動して、広めようとしてくれている。。。 わたしたちも今一度、この『MOTTAINAI』の言葉をとおしながら、いろんなものへの 感謝★愛★尊敬★etc… 再認識できたらな〜。 ・・ たった一言がもの凄く深い意味合いをもっているんだな、と今さらながら気づかされた 今日この頃。。。 『MOTTAINAI』ホントにいい言葉だな〜(*^_^*)♪ ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

『苦しく悲しくつらい時は 育てられている時』

人は誰でも幸福を願い、不幸からは逃れたいと思っています。

ですから

「自分は常に幸福でありたい。

そしても、不幸にはなりませんように…」

これが偽らざる私たちの願いだといえます。

けれども、現実はなかなかその願い通りにはいきません。

心から幸福を求めているのに、それが手に出来ないばかりか、反対に、しかも突然、不幸が降りかかって来ることがあります。

では、私たちの人生において、幸福や喜びに満ちた人生を得ようと努力することは無駄なことなのでしょうか。

決してそのようなことはありません。

私が人として生きる限り、当然、人間としての喜びに満たされることは、何よりも大切なことだといえます。

それは、ただ一度限りの人生において、もし幸福を得ることが出来なければ、なぜ自分がこの世に生まれてきたのか、その意義が見失われてしまうからです。

このような意味で、一人ひとりが自分自身の理想の人生を描いて、明るく喜びに満ちた人生を歩むことが求められているといえます。

ところで、よく結婚披露宴の祝辞の中で

「長い人生は決して平坦なものではなく、山があり川がある。

喜びもあれば悲しみもある。

それを二人の愛の力で乗り越えていくように」

といった内容の助言が語られることがあります。

少し考えれば、これは誰にでも明らかなことなのですが、それがこのような場面でしばしば語られるのはなぜなのでしょうか。

それは、幸福の絶頂ともいえる新たな人生の門出において、二人が描いている未来においては

「この絶頂の喜びは、いつまでも続くものではない」

ということを教えようとしているのだといえます。

そうしますと、私たちにとって意義ある人生とは、自分の人生だけが幸福に包まれる、喜びのみに満たされることではなくて、不幸の原因である、悲しみや苦しみ、悩みや失敗を含みながら、この今を懸命に生きることにあると言えます。

人生は、悲しみだけでも、喜びだけでもなくて、必ず

「悲しみがあれば、喜びがある」

ものだからです。

けれども、実際的には、幸福に恵まれ、喜び多い人生を送っている人は少なく、むしろ悲しみの中に人生を終えている人の方がはるかに多いと言えます。

そこで、一般には

「人生には喜びもあれば悲しみもある。

したがって、悲しみの中でいたずらに悲嘆にくれるのではなく、

必ず喜びの人生がやって来ることを信じて、希望を持って生きなさい」

と教えられます。

しかしながら、私たちが生きていると実感できるのは常にこの「今」だけです。

つまり、今を生きるしか道はないのです。

もちろん、未来に希望を持つことを全面的に否定するつもりはありませんが、何よりも大切なことは、

「今を懸命に生きること」

だと言えます。

たとえ、苦しくても、悲しくても、つらくても、その時々を懸命に生きることは、その人の人生において充実した時を過ごしている時だと言えるからです。

「威儀」

 風紀の乱れか世の中が変化したせいか、今はあまり聞かなくなりましたが「威儀を正す」という言葉があります。

なり、かたちをととのえ、作法にかなった立ち居振る舞いをすることをいいます。

この「威儀」という言葉は、『詩経』に基づく言葉で、礼式にかなった態度のことですが、仏教、特に曹洞宗の禅で大切にされてきたもので、「いいぎ」と読み、規律にかなった正しい立ち居ふるまいをいいます。

 行(行くこと)・住(とどまること)・座(座すこと)・臥(ふせること)を「四威儀」といい、

それぞれに守るべき戒律が定められています。

したがって、「威儀」は日常生活での一切の行動をすべて含んでいます。

また、その一々が僧として正しく仏の法にかなっており、それを見て人が崇敬の念を起こさずにいられない態度のことを威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)といいます。

もちろんこれは僧に限ったことではなく、今日の私たちが人として生きる上で、最も顧みるべきことかと思われます。