投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人の往生浄土思想」(2月後期)

 親鸞聖人は、この念仏の法門をただ一心に聴聞されます。

ここにおいて、何が明らかになられたのでしょうか。

それは

『歎異抄』に

「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」

と示される

「よきひとのおほせ」

であることは言うまでもありません。

しかも、この点を親鸞聖人は、後にお手紙の中で次のように述べておられます。

 尋ね仰られ候念仏の不審の事。

念仏往生と信ずる人は辺地の往生とてきらはれ候らんこと、おほかたこころえがたく候。

そのゆへは、弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。

親鸞聖人の晩年、関東の弟子たちの間で、念仏に関して大きな問題が生じました。

念仏往生派と信心往生派との間で、往生に関して論争が起こり、信心往生派が、往生を願って一心に念仏を称えている念仏往生派の人々に、そのように

「念仏往生」

と信じている者は、辺地にしか往生しないと非難したのです。

しかもこの論争は、弟子たちの間では結論を導くことができませんでした。

なぜなら、親鸞聖人はある場合には

「ただ信心が往生の正因である」

と述べられ、またある場合には

「ただ念仏が往生の業」

だと説いておられるからです。

そこで、そのことへの疑問を京都の親鸞聖人に手紙で問われることになりました。

この弟子たちからの質問対して親鸞聖人は、両者の論争は全く無意味であり、両者とも念仏と信心の真理が根本的に分かっていないとして、弟子たちの論争そのものを厳しく否定されます。

弟子たちの質問に対して親鸞聖人は、まず阿弥陀仏が本願に何を誓われているかを明らかにされます。

阿弥陀仏は、本願に

「名号を称えるものを極楽に往生せしめる」

と誓われます。

願意が

「称名するものを救う」

のですから、親鸞聖人は弟子たちに

「ただ念仏が往生の業」

だと説かれたのです。

したがって、この場合の

「念仏」

は、一切の衆生を救うための、阿弥陀仏のはたらきそのものであり、同時にその名号が大行であることを説示しておられます。

これは、釈尊の大悲の行を意味しておられるのです。

私たちはいったい、どのような行によって往生するのでしょうか。

それはまさしく、釈尊によって明らかにされた、この念仏の大行によって往生するのです。

そこで、往生の因について親鸞聖人は

「ただ信心を要とする」

と述べられます。

これが、信心がまさしく往生の因であるとされる

「信心往生」

の義です。

「いのちのバトンタッチ」〜映画『おくりびと』によせて(下旬)交通事故の場合でも微笑んでいるように見える

それからは、納棺の際も顔ばかり気にするようになりました。

そうして見てみると、亡くなってすぐの顔というのは、どんな死に方でも、みんな清らかないい顔をしています。

特に子どもさんは、交通事故の場合でも微笑んでいるように見えます。

「死」

の概念を持つのは人間だけです。

それにいろんな間違った思想がこびりついて、生前から死の恐怖を抱いてしまうんです。

子どもは動物と同じで、頭に死の概念がなく、死ぬ瞬間まで死に対する恐れを持たない。

大自然の摂理に従って死を受容しているんです。

平成9年に起きた神戸の連続児童殺傷事件。

そのときの犯人、A少年に対する取り調べで、

「なぜ人を殺そうと思ったのか」

という質問に対して、A少年は、

「自分の大切な祖母を奪った死を理解するには、人間を殺してみなければならないと思った」

というように供述しております。

これに対して、A少年と同じく、祖父の死に遇った同年代のお孫さんのI少年は、

「おじいちゃんは、ぼくに本当の人のいのちの尊さを教えて下さったように思います。

それに最後にどうしても忘れられないことがあります。

それはおじいちゃんの顔です。

それはおじいちゃんの遺体の笑顔です。

とてもおおらかな笑顔でした。

いつまでも僕を見守って下さることを約束しておられるような笑顔でした。

おじいちゃんありがとうございました」

と作文に書いています。

この2人の違いは簡単です。

A少年は大好きだった祖母が亡くなるとき、留守番をしていて死の現場にいませんでした。

そして死を頭で考え、理解しようとしました。

これに対し、I少年は臨終の現場にいました。

そして五感で、身体全体で死を認識したんです。

2日ほど経って葬儀会館に行って、お棺のふたを開けて見ても、それは単なるデスマスク、物体ですよ。

笑顔という文章は絶対出てきません。

死の現場に行ったかどうか。

2人の違いはその差なんです。

私の場合もおじの臨終の場に行かなかったら、今でもおじを憎んでいたでしょう。

しかし、あのとき、おじが

「ありがとう」

と言い涙を流した。

それを見て、私の中に慚愧の回心がありました。

そこから生まれた詩が

『いのちのバトンタッチ』

です。

「人は必ず死ぬんですから

 いのちのバトンタッチがあるんです

 先に逝く人がありがとうと言えば

 残る人がありがとうと答える

 バトンタッチがあるんです

 死から目をそむけている人は

 見そこなうかもしれませんが

 目と目でかわす

 一瞬のバトンタッチがあるんです」

「前に生れんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪へ」

という親鸞聖人のお言葉があります。

あらゆるものが輝いて見える世界へ先に往かれた方々が、残った人を導いている。

だから、そこをお尋ねしなさいという内容だと思います。

満州で死んだ私の妹や分家のおじも先に往かれた方々です。

その方々に導かれて、私は今日ここにあると信じて疑わないわけであります。

2回目の…

2回目の…

10月初旬から、再び宮城県でボランティア活動をさせていただきました。

前回(7月)は被災地での活動は全く初めての体験で、するべき活動をただ黙々と行うだけだったので、今回は、

「これだけは!!」

という思いを抱き、活動をしました。

それは【声かけ】です。

単純なことなのかもしれませんが、このことで、色々な嬉しい出会いがありました。

石巻市にある本願寺派のお寺(称法寺)の墓地で流入物の撤去をしている時、一人のおばあさんが、私が活動をしているそばにあるお墓の前に立っておられました。

そこで

「おばあちゃんちのお墓ですか?」

と声をかけたことがきっかけで、住んでいた家が流され今は高台に住んでいるということ。

お墓は去年、建て替えたということ…など、いろいろなお話をしてくださいました。

私が鹿児島から来たということを知ると、

「鹿児島に行ってみたいね〜^^」

と、しばし会話をした後、その方は帰って行かれました。

それからしばらく活動をしていると、先程のおばあさんがダンボール箱を抱えている姿を見かけたので

「おばあちゃ〜ん!」

と近づいて行くと、

「これ、みんなで食べて^^」と。

ダンボール箱にはいっぱいのお菓子やジュースが!!

「こんなふうに、一生懸命にしてくれているのが嬉しい。」

と満面の笑みを浮かべていらっしゃいました。

数日して、また称法寺での活動に参加したところ、再びそのおばあさんにお会いしました。

嬉しくて

「おばあちゃ〜ん!!」

と声をかけると、

「あぁ!! あんた、今日はいたねぇ!!」

と、覚えていてくださり、とても嬉しかったです^^ 

同日、称法寺での活動を終え、現在は石巻市唯一の仮設風呂である『千人風呂』を、その日一緒に活動をしていたメンバーで見に行くことにしました。

称法寺からは、10分ほどだったと思います。

時間帯で男女に別れており、午後3時からの女性タイム前に行けば、中が見られるということで慌てて行ったのですが、残念ながら時間を過ぎており、既に数人が入っておられました。

側に待合テントがあり、そこに90歳と言う2人のおばあさんがおられたので、

「こんにちは^^」

と声をかけたところ、その方々も笑顔で話してくださいました。

しかし!! 今回のおばあさん2人は、方言がきつくて!?なかなか会話が聞き取れない!!

私がキョトンとしていたんでしょうね。

お二人から

「意味、わかる?」

と聞かれたことでした。

そんな風に会話をしていたところ、称法寺で一緒に活動した私も含めた女性3名に、千人風呂のスタッフの方から

「お二人は高齢だし、一緒に入ってもらえない?」

という言葉が!!

汗をかいている上に粉塵まみれだった私たちには、本当に有り難い一言でした。

前に入っておられた方々が上がられてから、おばあさん2人と一緒に私たちも一緒に入浴させていただきました。

シャンプーある!! リンスある!! ボディーソープにメイク落としまで!!

その日、一緒に活動していた男性陣には

「サクッと入ってきます」

と言った割には、随分ゆっくり入らせていただきました^^; 

お風呂に浸かっている時も、お2人に

「力仕事をしてきたんだから ちゃんと手足を揉んでおきなさいね」

などと、優しい言葉をかけていただきました。

さすがにゆっくりし過ぎたかなと思い、先に上がろうとすると、笑顔で手を振りながら

「若い子たちと一緒に入れて良かった〜! またね!」

と。

こちらも思わず笑顔で、手を振り返してしました。

ボランティアから帰ってきた後に参加した、ボランティア活動に関する研修会で、ご講師が

「与えるより、与えられる方が多い」

と話されていましたが、10月に行った時は特にそう感じました。

被災された多くの方が未だ癒えない傷を抱いているはずなのに、ただ一言、こちらから声をかけただけで、最後には私の方が元気や笑顔をもらっていました。

称法寺で出会ったおばあさん。

千人風呂で出会った2人のおばあさん。

他にも色んな方との出会いがありました。

「その方々とまた出会えるか」

と言われると、それは誰にもわかりません。

でも多くの方々との嬉しい出会いがあったからこそ、

「また行こう!」

と思えました。

…次は2月下旬から。

寒い時期、住職には特に負担をかけるとわかっていながら…行って参ります(>_<)

『心は行いによって 初めて見える』

 『蓮如上人御一代記聞書』

という、本願寺第八世・蓮如上人(1415-1499)のお言葉を記した書物の中に、次のようなことが記されています。

 『“念声是一”という言葉がありますが、もともと念は心に思うことであり、声は口に称えることですから、これが同じであるというのは、いったいどのような意味なのかわかりません」

という質問があったとき、蓮如上人は

「心の中の思いは、おのずと表にあらわれると世間でも言われている。

信心は南無阿弥陀仏が心に届いたすがたであるので、口に称えるのも南無阿弥陀仏、心の中も南無阿弥陀仏、口も心もただ一つである」

と仰せになりました。』

 また、親鸞聖人(1173-1263)は

『本願を信じ念仏を申さば仏になる』

と、仰っておられます。

「本願」

とは

「念仏せよ、救う」

という阿弥陀仏の喚び声ですから、それを聞いて信じた者は、必然的に

「南無阿弥陀仏」

を心に信じ、口に

「南無阿弥陀仏」

を称えることになります。

蓮如上人のお言葉は、この親鸞聖人のお言葉を踏まえてのものと思われます。

ちなみに、蓮如上人が生きられたのは室町時代、今から六百年ほど前ですが、この

「聞書」

の記述により、既にその頃から

「心の中の思いは、おのずと表にあらわれる」

と言われていたことが窺い知られます。

「有言実行」

「無言実行」

という言葉があります。

前者は

「自分で言ったことは必ず実行する」

後者は

「あれこれ説明することなく、自分が正しいと思うことを直ちに実行する」

ということです。

以前は、言葉にしなくても黙って自分の成すべきことをきちんとやり遂げるというあり方が文化として定着していたこともあり、前者が高く評価されていたのですが、現代社会においては、周りと約束した後に実行できてこそ、ビジネスや私生活において他人から信頼を勝ち取ることができるということから、どちらかと言えば後者が評価されているように窺われます。

ところで

「有言実行」

という言葉は

「無言実行」

に対するものとして、後から造られたということをご存知でしょうか。

一度宣言(有言)をしたのにそれを実行しないと

「有言不実行」

ということになります。

社会生活を営む上で、このように不誠実な態度は周囲に迷惑をかけ、当然のことながら人々の顰蹙(ひんしゅく)をかいます。

その一方、

「無言実行」

を試みて達成できなくても誰からも非難を受けることはありません。

「無言不実行」

の場合、黙っていたのですから、誰も達成できなかったことを知り得ないからです。

そうすると

「有言実行」

は、一度口にした以上実行しなければ非難を受けるのですから、もしかすると

「無言実行」

よりも達成率は高くなるかもしれません。

そのような経緯から、

「有言実行」

という言葉は造られたのではないかと思われます。

そのため、つい

「有言実行」

よりも

「無言実行」

の方が、楽に思える時があります。

けれども、心は誰にも見えませんが、その人の心遣いは、行いや言葉によって見えます。

また、あたたかい心も、やさしい思いも行いによって初めて見ることが出来ます。

その反対に、冷たい心や、思いやりのなさも、行いによって見えてしまいます。

時として私たちは、心の中は他人からは見えないのだから、何を思ってもかまわないと考えしまいがちです。

しかし

「表面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われること」を

「偽善」

と言います。

したがって、心は行いによって見えるのですから、行為さえ取り繕えば良いという訳にはいきません。

良い心も、悪い心も、

「行い」

によって表れることを忘れずに生きたいものです。

「親鸞聖人の往生浄土思想」(2月中期)

では、このお二人に、どのような念仏道が成り立っているのでしょうか。

いま、法然聖人と親鸞聖人は、互いにただ念仏を称えておられます。

その

「南無阿弥陀仏」

について、法然聖人が親鸞聖人に、その念仏の法門を淡々と語っておられるのであり、親鸞聖人は法然聖人から、その念仏の真理をただ一心に聞いておられます。

念仏の大行について、一方が説法し、他方が聴聞しています。

このような念仏の行道が、このお二人の間には成り立っているといえます。

法然聖人は、次のように説法をなさいます。

『「南無阿弥陀仏」、

往生の業はこの念仏ただ一つである。

今は末法であって、どのような行も行じ得ない。

それゆえに、もし速やかに生死を超えようと思うのであれば、まさに聖道門ではなくて浄土門に依らなければならない。

そしてもし、浄土の門に入るのであれば、ただ南無阿弥陀仏を称えればよい。

この称名こそ、浄土に往生するための正定の業だからである。

それはなぜか。

阿弥陀仏は第十八願に、一切の衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめるために、すべての行業の中から、ただ一つ念仏を選択され、念仏する衆生を必ず摂取すると誓われているからである。

では、なぜ弥陀は本願に、ただ念仏をもって往生の業とされたのであろうか。

念仏とその他の行を比較すると、

「勝劣」と

「難易」

という二義が見られるからである。

最初の勝劣とは、念仏が勝であり、余行は劣である。

なぜなら、阿弥陀仏の名号には、弥陀の有する功徳の一切が摂在しているからで、称名行にはその万徳が有せられているから勝、他の余行は、一行が一つの功徳しか得られないから劣である。

次の難易とは、称名は修し易く、諸行は修し難い。

それゆえに称名念仏は、一切の衆生に行ぜられるべき行であるが、諸行はそうではない。

だからこそ、阿弥陀仏は本願に、一切の衆生を往生せしめるための行として、難を捨て易を取って、往生の業として称名念仏を誓われたのである。

この点を善導大師は

『観経疏』

「散善義」

上品上生の深心釈の文で、

一心に專ら弥陀の名号を念じて、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを正定の業と名づく。

かの仏願に順ずるが故に。

と教えられるのであるが、いつでもどこでも、どのような心の状態であっても、それは問題ではない。

ただひたすら称名念仏する。

そこに往生浄土の道が開かれている。

称名こそ、阿弥陀仏が本願に誓われた往生の業だからである。

そこで、この第十八願に誓われている念仏を、選択本願念仏というのである。

「いのちのバトンタッチ」〜映画『おくりびと』によせて(中旬)あらゆるものが輝いて見える世界

そんなことがあってから、それまで汚い格好で嫌々やっていた納棺の仕事に対する気持ちも変わりました。

納棺する前には、医者のように白い服に着替えて、丁寧な言葉遣いを心掛けました。

同じ納棺という行為でも、汚い服で嫌々やるのと、きちっとやるのとでは、社会的評価が全く違います。

仕事をする以上は、例えアルバイトでも、安易な気持ちでやっちゃいけない。

目の前の仕事を精一杯やるべきだということを学びました。

しかし、相変わらず納棺は誰もが避ける仕事でした。

私の仕事量はどんどん増えて、夜の11時までかかる日が毎日続きました。

そんな状態は疲れます。

親せきとも友達とも会わず、作家になる夢も消えました。

それで娘が小学校に入るくらいになってきたころ、やっぱり辞めようと思うようになっていました。

そんなある日、お袋から電話が来ました。

「親族の恥だ」

と言った分家のおじが末期がんで入院したと言うのです。

私は

「ざまあみろ」

と憎しみを持って、見舞いには行きませんでした。

その後、おじが意識不明になったと聞いて、それならと思い、行くことにしました。

病室に入ったとき、おじの意識が戻りました。

ベッドの近くのイスに座ると、おじが震える手を伸ばしてきて、その手を握ったとき、おじは目から大粒の涙をこぼし、

「ありがとう」

と言ったんです。

その瞬間、私はイスから転げ落ちるように土下座して、おじの手を握り

「おじさんすいません。

許して下さい、僕が悪かった」

という気持ちで泣きました。

そして家に帰った翌朝、おじの死を聞かされました。

おじの葬式の後、1つの本に出会いました。

32歳でがんで亡くなった井村というお医者さんの日記をまとめた本です。

井村先生は、がんの転移が認められたとき、日記に

「雑草が、小石までもが光って輝いて見えるのです。

部屋へ戻って見た妻もまた、手を合わせたくなるほど、尊く輝いて見えました」

と書かれていました。

恐らく先生が見た、ありのままの光景だったはずです。

普段の我々では、ダイヤモンドならばともかく、砂利や小石は光って見えません。

なのに、井村先生は小石までもが光って見えると書かれている。

私はハッとしました。

100%死を受け入れたそのとき、私のおじも井村先生と同じように、あらゆるものが輝いて見える世界に接していたのではないでしょうか。

病院の窓も、看護師も、納棺師になった私をも、差別なく、尊く輝いて見えていたのではないかと思ったのです。