投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

往相回向の信と獲信(1月中期)

親鸞聖人は、手紙の中で

「念仏往生の願は如来の往相廻向の正業・正因なりとみえてさふらふ」

と語っておられます。

念仏往生の願とは第十八願であり、この願文で

「正業・正因」

を示す言葉と言えば、至心・信楽・欲生の三心と十念を指すことは明らかです。

そして、この三心と十念の語について、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で次のように解釈しておられます。

至心信楽といふは、至心は真実とまふすなり、真実とまふすは如来の御ちかひの真実なるを至心とまふすなり。

煩悩具足の衆生はもとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆへなり。

信楽といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば信楽とまふすなり。

この至心信楽はすなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり。

凡夫自力のこころにはあらず。

欲生我国といふは、他力の至心信楽をもて安楽浄土にむまれむとおもへとなり。

乃至十念とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふに、偏数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。

「至心」というのは真実の心のことです。

煩悩具足の凡夫は、濁悪邪見なのですから、本来的に真実の心も清浄の心も存在していません。

そこで阿弥陀仏は、その凡夫を救うために、真実心である至心の成就を本願に誓われます。

では、この誓願には何が願われているのでしょうか。

衆生を浄土に往生せしめるための

「わが真実なる誓願を信楽すべし」

というのがその願いです。

そこで、この本願の真実を疑いなく一心に信じることを、また

「信楽」といいます。

ただしここで誤ってはならないのは、この信楽は

「ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば」

と、一見阿弥陀仏を一心に信じている衆生の心のように表現されているのですが、それは決して凡夫自力の心を意味しているのではないということです。

「信楽すべし」という阿弥陀仏の誓願をふたごころなく信じているが故に、この心もまた信楽と呼ばれているに過ぎないのであって、誓願の信楽こそ衆生を摂取される如来の真実心だと見なければなりません。

「欲生」もまた、阿弥陀仏自身が衆生に

「如来の至心信楽を獲得して、わが安楽浄土に生まれよ」

と一心に願われている心だとされます。

では、その阿弥陀仏の願いは、どのようにして衆生の心に来たるのでしょうか。

ここで、親鸞聖人は

「乃至十念」の誓いにその動態を見られます。

乃至十念について、

「如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふ」

と解されているのがそれで、衆生が称える

「南無阿弥陀仏」

の称名念仏こそ、阿弥陀仏が衆生に対して

「称名せよ」

と勧められる阿弥陀仏の言葉だと解されます。

では「乃至」は何を意味するのでしょうか。

阿弥陀仏は私たちに対して、称名について

「偏数のさだまりなきほどをあらはし、時節のさだめざること」

を衆生に知らしめようと願われています。

それが「乃至」の誓いだとすれば、私たちの称名念仏には、称え方が一切求められていないことになります。

具体的には、称える数も場所も時間も、声の大小さえ何ら問題にはされていません。

まさに、私の口より出でている南無阿弥陀仏こそ、如来より来たる音声にほかならないのです。

こうして

「乃至十念」の南無阿弥陀仏が、如来が衆生を浄土に往生せしめる

「往相廻向の正業」となり、

「至心信楽欲生」の三心がまさしく衆生往生の

「往相廻向の正因」となるのです。

この点が、『教行信証』「信巻」の本願の三心の解釈においてより詳細に論理的に解明されます。

阿弥陀仏は、なぜ愚悪の衆生を救うために本願に三心を誓われたのでしょうか。

その仏意は測りがたいのですが、ひそかに仏の心を推し量ってみますと、衆生の側には往生の正因となるべき真実の至心信楽欲生が全く存在していないことが知られます。

そこで親鸞聖人は、この阿弥陀仏の救いの構造を名号と三心の関係の中で

「至心は則ち是れ至徳の尊号をその体とせるなり」

「則ち利他回向の至心を以て、信楽の体とするなり」

「則ち真実の信楽を以て、欲生の体とするなり」

と捉え、阿弥陀仏は名号を通して、疑蓋雑わることなき真実の至心信楽欲生の三心を衆生に廻施されたとみられたのです。

迷える衆生の一切は、無始以来、今日今時に至るまで、穢悪汚染のみで清浄の心がなく、虚仮諂偽で真実の心はありません。

だからこそ、法蔵菩薩はその一切の衆生を悲憫し摂取するために

「至心」の誓願を建てられ、不可思議兆載永劫において清浄真心なる菩薩の行を行じ、ついに如来の円融至徳の名号を成就されたのです。

衆生の称名は、この阿弥陀仏より廻施された名号を称えているのであり、それ故に念仏する衆生は、無条件で阿弥陀仏の真実心に摂取されていることになるのです。

『無量寿いのちには限りない願いがある』(中期)

「無量寿」

という言葉は、文字の上から窺うと

「寿命が限りなく続いていく」

という意味に理解することができます。

そうしますと、私たちは自分の人生が八十年とか、あるいは百年というような限られたものではなく、いつまでもいのちが限りなく続いていくことを思い浮かべます。

それを別の言葉で言い表すと、いわゆる

「不老長寿」

といったような受け止め方になるのではないでしょうか。

実際、現代の科学技術の力をもってすれば、肉体的な長生不死は理論的には既に実現可能なのだそうです。

具体的には、赤ちゃんときの細胞が一番増殖力が活発であることから、用いるのは生まれてすぐに亡くなった赤ちゃんの細胞ということになるのでしょうが、老化した細胞と赤ちゃんの細胞を次第に取り替えていけば、いつまでも若々しさを保つことができるようなのです。

けれども、はたして不老長寿とか長生不死とか、そういう意味での死なないということが、果たして人間として生きているということになるのかどうか、やはりこれは大きな問題だと思います。

「寿命」の「寿」という字には、「ことぶき」つまり「よろこぶ」という意味があります。

それは、「生きている」というときには、その「生きていること」に喜びが伴わなければ、生きていることにはならないということを物語っています。

私たちは、生きていることが苦しくて辛いと、

「死んでしまいたい」

と思ったりすることがありますが、それではたとえ息をしていても、本当に生きているとは言い難いのです。

仏教では、私たちの欲望をいろいろと説き明かしていますが、その一つに

「三愛」

ということがあります。

三愛の中の第一は「欲愛」です。

これは、いろいろなものや事柄に対する愛着です。

物質だけでなく、地位とか名誉とかにも対して持つ欲、これらをすべて

「欲愛」

という言葉で言い表します。

したがって、これは言い換えると

「所有欲」

だと言えます。

つまり、自分のものとして所有したい、自分のものにしたいという欲です。

この愛欲のもとには、自分が存在していることに対する欲、つまり、自分がいつまでも生き続けられるようにという欲があります。

これが、第二の「有愛」です。

これは、生存への欲、生存への愛着心です。

それと同時に、人間には第三に「非有愛」ということがあります。

「非有愛」というのは少し理解し辛いのですが、自分が存在しなくなることへの愛着で、自分がこの世に生き続けることを拒否したい欲です。

仏教では自殺ということを、この「非有愛」という言葉で押さえます。

自殺は、自己放棄ではないのです。

もし、自分を放棄したのであれば、死ぬ必要もありません。

ただ成り行きにまかせ、環境に流されて生きていけばよいのです。

けれども、自殺するということは、逆の自己主張です。

好ましくない今の状態に自分を追いこんでいるものや、そういう社会に対する抗議・怒りといったような、この世に対する否定の感情が、自分がこのままの境遇や状態で生き続けていくことを拒否するのです。

そのような意味で、自殺も自己愛なのです。

それは、人間には

「死ぬ」

という形で生きるということがあるということです。

虚しさとか苦しさのあまり、そのような自らの人生そのものを否定する。

そういう形で、自分を確保したいという心を持っているのが人間であり、それを仏教では

「非有愛」

と押さえているのです。

ですから、長生不死がそのまま人間としての喜びになるかというと、そうはなりません。

しかも、生きていることに喜びが伴わなければ、むしろ長生不死は苦痛になってしまいます。

まさに、死ねないということは苦痛なのです。

なぜなら、長生不死ということは終りがないということだからです。

私たちは、どんな苦しみにも終りがあるということで安堵する面がありますが、もしこの苦しみに終りがなくなれば、それはとても耐えられたものではありません。

実は、地獄こそが長生不死の世界なのです。

地獄は、限りなく苦痛を受け続ける世界としと説かれています。

ですから、長生不死とか不老長寿ということが、そのままただちに人間としての満足を生み出すのかというと、そこに生きていることの喜びを伴わなければ、けっして喜ばしいものとはならないのです。

考えてみますと、生きていることの喜びは、一人、つまり孤独では出てきません。

生きていることの喜びには、必ずそこに

「共に喜ぶ」

ということがあるはずです。

源信僧都は地獄について

「われいま帰るところなし。孤独にして無同伴なり」

と述べておられますが、これが苦悩のいちばん深い姿です。

そうすると、生きていることの喜びは、けっして孤独というところにはないということになります。

孤独を破って信じられる人間関係、あるいは社会との関係が開かれなければ、私のいのちがどれだけ長く続いたとしても、それは

「無量寿」

にはならないのです。

自分の周りの人が信じられ、そして心から語り合える人がいるとき、人はどんな悲しみにも耐えられますし、心から喜ぶことができるのだと思います。

また、どれほど嬉しいことがあったとしても、その喜びを共にしてくれる人がいなければ、むなしいだけです。

したがって、どれほど多の人びとからうらやましがられるようなことが起こったとしても、その喜びを一緒に、まるで自分のことのように喜んでくれる人がいなければ、寂しい思いをしたり、孤独であることを強く感じたりすることさえあります。

このような意味で、

「寿命」とは

「関わりとしてある」

ということなのです。

したがって、仏の寿命が無量だということは、その仏の上において言うのではなく、その仏によって生み出され人びとの上で仏のいのちは無量だということを意味しているのです。

つまり仏のいのちが無量だということは、仏のいのちが限りなく働いていくということにほかなりません。

本当に人間としてそのいのちを生きた人のいのちというものは、周りの人びとに時代を超え、地域や国境を超えて限りなく感動を与え、多くの人びとに生きる勇気を与えます。

そして、それによってその人の徳が受け継がれていくことになります。

ですから、仏の寿命が無量だということは、そのような限りなく人を生み出し、その生み出す働きに限りがないということなのです。

そして、おおくの人びとに生きる勇気を与え、生きる喜びを与え続けて、その働きの波及していくことに限りがないということです。

ですから

「無量寿仏」

という仏は、どこかにそのような仏がおられ、その仏がいつまでも生きておられるということを物語っているのではありません。

もしそれだけのことなら、私にとっては無関係です。

「無量寿」は慈悲を意味する言葉でもありまずか、仏がいつまでも生きておられるということから慈悲という意味を見出せません。

「無量寿」が慈悲だということの意味は、無量寿とは願の限りなさであり、その願とはこの私のために仏が起こされた願いであり、この私のために、私がその願いに目覚めるまで働きをやめることができない、そういう働きを感じたときに無量寿が慈悲として感じられるのです。

つまり、私の上に働いているものを感じなくては無量寿ではないのです。

そして少なくとも、いのちとは願いだということです。

まだ死なずにいるということと、生きているということの決定的な違いは、願いがあるかどうかということです。

一般に、何か願いを持って生きているときには、たとえ病床に臥していても、そのいのちは生き生きと働いているのです。

反対に、たとえ元気であっても、いのちをかけて願うべきものが全く見出せずにいるときは、そのいのちは本当に生きているとは言い難いのです。

ですから、そのいのちの内容は願いなのです。

そして、その願いが限りないということが、無量寿という言葉で讃えられている意味なのです。

このような意味で、いのちには限りない願いがあるのです。

「かごしまの『世間遺産』はおもしろい」(中旬)自分たちの地域には、こんなにもいいものがある

その「地域まるこど博物館」を作るのには、重要なことがいくつかあります。

まず、自分たちの地域に良いものがたくさんあると気付くことが大事です。

今や形骸化しつつあるいろんな方言や言い伝え、郷土料理などがそうです。

そして、気付くだけでなく、それらを守り、地域の中に残していくために子や孫といった次世代に受け継いでいかなければなりません。

そして、自分の地域にあるものの魅力に気付かせる魅せ方も必要です。

それから伝える人、話し手がそれぞれの地域にいてくれたら嬉しいですね。

私もいろんな地域に行かせていただいておりますが、その地域に伝わるいろんな話を伝えてくださる観光ガイドの方を育成するというのが私の仕事の1つになっています。

自分たちの地域にはもっともっと、こんなにもいいものがあるんだという気付きの場を広げて、そしてみなさんに気付いていただく。

その手法として、私はこの

「世間遺産」を提唱し、いろんな人たちの目に触れるよう南日本新聞で連載させていただいたんです。

これが「世間遺産」の大きな始まりでした。

では「世間遺産」とは何でしょうか。

広く認知されているものに世界遺産がありますが、それと同じように、

「世間遺産」にもいろんな価値基準を設けています。

ある意味、その基準のどれか1つでも満たせば、それで

「世間遺産」に認定していいと思います。

まず1つめはやはり

「希少価値」です。

次に

「体系的な価値」というのがあります。

例えば、ある

「世間遺産」を認定したとき、同類の物に注目が集まったとします。

これは、普段なら全く注目が集まらないものが、他の価値あるものとの関連性から、その面白さに気付くことができたという価値のことです。

それから

「時代的な価値」です。

昭和60年代、昭和30年代、そして明治・大正、それぞれの時代を象徴するような建物や、それを伝えるものがあると思います。

それぞれの時代を背景にしたような遺産というものにも注目しています。

それから

「貢献的な価値」。

これはどういうことかといいますと、私が認定することによって、地域の人たちに

「うちの地域にもそんなものがあったんだ」

と気付いていただき、それが地域の活力になるということです。

そういう貢献度が高そうなものも

「世間遺産」として認定しています。

それから

「美的な価値」も外せません。

さらに

「心象的な価値」ですね。

地域の人たちの思い入れがものすごくこもっている。

これを認定することによって、地域の人たちが、その思いを振り返る場を作る。

その心象的な価値というものも私は大事にしています。

「グチコレクション」

「グチコレクション」

略して

「グチコレ」

というそうです。

京都にある西本願寺系の龍谷大学大学院実践真宗学研究科の学生さんたちが、平成24年の11月からJR京都駅前と京都市内の施設や飲食店などで週1回のペースで行なっている、市民から愚痴(グチ)を聞く活動です。

メンバーは、龍谷大学の学生さんを中心に18人で、そのうちの16人が浄土真宗の本願寺派、高田派、東本願寺派の真宗僧侶だそうです。

ここで聞くのは

「グチコレ」の名の通り、「悩み」ではなく「グチ」です。

どちらも同じようなものでは…という気もしますが、一般に

「悩み」

を持ちかける人はその問題の

「解決」を求めます。

それに対して

「グチ」

を言う人は

「ただ聞いてほしい」

「頷いてほしい」

と思っています。

問題の解決よりも、

「誰かに自分の思いを聞いてもらいたい」

という人が世の中にはいることを裏付ける活動だと言えます。

ところで、今はネット社会とも言えますから、SNSを利用してその思い(グチ)を投稿すれば、より多くの人に伝わるのでは…という気もしますが、ネット大手のサイバーエージェントが昨春発表した

「SNSのグチ」

に関する意識調査によれば、64%の人が

「SNSにグチを投稿したくても出来ないことが多い」、さらに15%近くの人が

「グチを投稿したことでトラブルになった」

と答えています。

SNSは何でも投稿できる場のように思われているのですが、実はグチの投稿が不特定多数の人に拡散することで

「炎上」

につながる可能性もあり、そのため意外にもグチはネットで言えないようです。

そこで、この

「グチコレ」

の活動に携わる人たちは、

「気軽にグチを言える場を創出する一つの需要があるのではないか」

とみているのだそうです。

「グチコレ」を利用する人の中には、数秒で終わる人もいれば、世間話も交えて1?2時間話し込んだりする人もいますが、笑顔で帰っていく人が多く、トラブルになったこともないそうです。

また、何も言わずに差し入れを置いて行かれる人もあるそうです。

仏教では、

「愚痴(グチ)」は

「三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の煩悩」

の一つで

「理非の分からないこと」ですが、本来は

「人間の心性の愚かさ」を意味する言葉です。

「グチコレ」にグチをこぼしに来る人は、それを聞いてくれる人、共有してくれる相手がいることで

「辛いのは自分だけではないんだ」

といった孤独感の解消を求めているのかもしれません。

最近、この取り組みが自死対策の関係者からも注目されているそうです。

それは、自死の要因の一つに当事者の孤独感が指摘されているため、抱えている悩みや本音を打ち明けられる場をいかに設けていくかが、自死対策の課題になっているからです。

自死に至る要因を未然に断つ意味で、気軽に本音を語り合える場として

「グチコレ」が注目されているのも頷けます。

私たちは、どんなに嬉しいことがあっても、それを語れる人がいなければつまらないものです。

だから、他の人にしてみたら取るに足らないささやかなことであっても、語れる人がたくさんいれば幸せな気分に浸れます。

また、どんなに辛くても、人は決してその事実だけではつぶれないものです。

何も言わなくても、ただ黙って自分の話に耳を傾け頷いてくれる人がいるだけで、再び立ち上がろうとする勇気がわいてくるものです。

そのような意味で、この

「グチコレ」

の活動は、とても大切なことであるように思われます。

親鸞・去来篇1月(4)

小侍が走ってきて、

「あっ、青蓮院様でいらっしゃいますか」

と平伏した。

慈円は、もう橋廊下の半ばをこえながら、

「お客人(まろうど)ではあるまいな」

「はい、お内方(うちかた)ばかりでございます」

答えつつ、小侍は、腰を屈めながら慈円の前を、つつと抜けて、

「青蓮院様がお越し遊ばしました」

渡(わた)殿(どの)の奥へこう告げると、舞曲の楽が急にやんで、それから、華やかな女たちの笑い声だの、衣(きぬ)ずれの音などが、楚々(そそ)とみだれて、

「おう、青蓮院どのか」

月輪兼(かね)実(ざね)がもうそこに立っている。

兼(かね)実(ざね)は、手に横笛を持っていた。

それをながめて慈円が、

「おあそびか、いつも、賑(にぎ)わしいことのう」

と、微笑しながら、兼実や、侍たちに、伴(ともな)われてゆく。

漆(うるし)と、箔(はく)と、砂子(すなご)と、うんげん(、、、、)縁(べり)の畳と、すべてが、庶民階級の家には見馴れないものばかりで、焚(た)きにおう名木(めいぼく)のかおりが、豪奢(ごうしゃ)に鼻をむせさせてくるし、飼い鶯(うぐいす)の啼くねがどこかでしきりとする。

しかし、その十畳ほどなうんげん(、、、、)縁(べり)のたたみの間(ま)には、今はいって来た客と主(あるじ)のほか一人の人かげも見えないのである。

ただ、扇だの、鼓(つづみ)だの、絃(げん)だの、胡弓だの、また笙(しょう)のそばに濃(こ)むらさきの頭巾(ずきん)布(ぎ)れだの、仮面(めん)だのが、秩序なく取り落してあって、それらの在りどころに坐っていた人々は、風で持ってゆかれてしまったように消えうせていた。

「――なんじゃ、誰も見えんではないか」

慈円がいぶかると、兼実は、

「はははは――。お身が参られたので、恥かしがって、みんなかくれたのじゃ」

「なにも、かくれいでもよいに」

「きょうは、姫の誕生日とあって、何がなして遊ぼうぞと、舎人(とねり)の女房たちをかたろうて、管弦のまねごとしたり、猿楽などを道化(どうけ)ていたので、むずかしい僧門のお客と聞いて、あわてて皆失(う)せたらしい」

「女房たちは、どうして、僧を嫌うかのう」

「いや、僧が女房たちを、忌(い)むのでござろう。女人は禁戒のはずではないか」

「というて、同じ人ではないか」

「ははは。ただ、けむたい気がするのじゃろ」

「そうけむたがらずに、呼ばれい、呼ばれい、わしも共に笛吹こう」

慈円が、笛をふこうというと、唐織(からおり)の布(ぬの)を垂れた一方の几帳(きちょう)が揺れて、そのかげに、裳(もすそ)だけを重ね合って潜(ひそ)んでいた幾人もの女房たちが、こらえきれなくなったように、一人がくすりと洩らすと、それをはずみに、いちどに、

「ホ、ホ、ホ、ホ」

「ホホホ……」

と笑いくずれ、さらに、ききとしていちだんたかく笑った十三、四歳かと見えるひとりの姫が、几帳の横から、

「ああ、おかしや」

とお腹(なか)を抑えながら、まだ笑いやまないで姿を見せた。

つづいて、侍女(こしもと)だの、乳人(めのと)だのが、後から後からと、幾人もそこから出てきた。

親鸞・去来篇1月(3)

師にお目にかかったら――と幾つもの疑問を宿題にして範宴は胸に蓄(た)めていたが、あまりに、彼が憔悴(しょうすい)しているさまを見たせいか、慈円僧正は、彼が、なにを問うても、

「まあ、養生をせい」

というのみで、法問に対しては、答えてくれなかった。

実際、そのころの範宴は、食物すらいつも味を知らずに噛むせいか、すこしも胃に慾がなく、梅花(うめ)を見れば、ただ白いと見、小禽(ことり)の声を聴けば、ただ何か啼いていると知るだけであった。

それが、青(しょう)蓮院(れんいん)へ辿りついて、師のやさしいことばにふれ、ふと安息を感じたせいか、二年余りのつかれが一時に出てきたように、病人のように、日ごとに頬の肉がこけ、眼はくぼんで、眸(ひとみ)の光ばかりがつよくなってきた。

範宴自身が感じているより幾層倍も、慈円のほうが、案じているらしくみえた。

「どうじゃ範宴、きょうは、わしに尾(つ)いてこないか」

陽が暖かくて、梅花(うめ)の薫(かん)ばしい日であった。

庭さきでも歩(ひろ)うように、慈円はかろく彼にすすめる。

「どちらへお出ましですか」

「五条まで」

「お供いたしましょう」

何気なく、範宴は従(つ)いて行ったのである。

もとより仰山な輿(こし)など好まれる人ではなかった。

というて、あまり往来の者に顔をみられたり、礼をされるのもうるさいらしく、慈円は、白絖(しろぬめ)の法師頭巾(ずきん)をふかくかぶって、汚い木履(ぼくり)をぽくぽくと鳴らしてゆくのである。

五条とはいわれたが、何しにとは訊かなかったので、範宴は、師の君はいったいどこへゆくのかと疑っていると、やがて、五条の西(にしの)洞院(とういん)までくると、この界隈では第一の構えに見える宏壮な門のうちへ入って行った。

範宴は、はっと思った。

「ここは月(つき)輪(のわ)関白(かんぱく)どのの別荘ではないか」

と足をとめて見まわしていると、

「範宴、はようこい」

と、慈円はふり向いて、中門のまえから手招きをした。

正面の車寄(くるまよせ)には、眩(まば)ゆいような輦(くるま)が横についていた。

慈円は、そこへはかからずに中門を勝手にあけ、ひろい坪のうちをあるいて東の屋(おく)の廻廊へだまって上がってゆく。

(よろしいのでございますか)範宴は訊こうと思ったが、関白どのは、師の君の実兄である。

なんの他人行儀もいらない間がらであるし、ことには、骨肉であっても、風雅の交わりにとどめているおん仲でもあるから、いつもこうなのであろうと思って、彼もまた無言のまま上がって行った。

奥まった寝殿には、催馬楽(さいばら)の笛や笙(しょう)が遠く鳴っていた。

時折、女房たちの笑いさざめく声が、いかにも、春の日らしくのどかにもれてくる。

「きょうは、表の侍たちも見えぬの。たれぞ、出てこぬか。客人(まろうど)が見えてあるぞ」

慈円は、中庭の橋廊下へ向いながら、手をたたいた。