投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『無量寿いのちには限りない願いがある』(前期)

昨年12月の中旬頃、初参式に赤ちゃん・ご両親・祖母の4人でお参り下さいました。

赤ちゃんの笑顔を見ていると、こちらも自然と笑顔になって心が和みます。

また、ご両親・祖母が赤ちゃんを見ている時のお顔を拝見すると本当に嬉しそうでその場の雰囲気が穏やかにながれていきます。

お勤めの後、話を伺うと、その赤ちゃんは生後3週間で気管支炎になり、一週間程、入院をしていたようです。

お医者さんからごくまれに重症化するということを聞いていたようで、入院中は大変心配したことをご両親が話して下さいました。

そういった出来事があった後の初参式でありましたので、無事元気にお参りできたことを尚更喜ばれたことと思います。

初参式とは仏前において新しい生命の誕生を喜ばせていただき、生かされて生きる縁(えにし)を聞(き)法(ぼう)する人生最初の大切な儀式であります。

人生の節目ふしめにおいてお寺にお参りいただきますが、その最初が初参式なのです。

お参りする時期は特に定まってはおりませんが、目安として生後百ヶ日から一歳になる頃までに所属の寺院にお参りのご相談をしていただければと思います。

以前、隣寺のご門徒さんがお孫さんの

「初参式」

のお供えものを買うためにお菓子屋さんに行って、

「しょさんしき」

のお供えを買いにきました。

と伝えるとその店員さんはのし紙に

「初産式」

と書いたそうです。

正式には

「初参式」

と書きますが、この言葉が一般的にまだまだ浸透していない現状を知らされたことでもあります。

親は、様々な願いを込めてこどもの名前をつけます。

「自分のことだけ考えるのでなく、他人のことも思いやれる人間になってほしい。」

「何事も一生懸命に頑張れる人間になってほしい」

等々様々な願い・おもいをもって名前をつけるのです。

皆様のお名前にはどのような願いが込められているのでしょう。

今、私の口から流れ出て下さっている南無阿弥陀仏の六字の名前(名号)には、阿弥陀如来さまの願いがこめられています。

それはこの私に気づいてくれよという願いであり、私たちにお念仏申させたいというお心なのです。

そして生きとし生きる全てのいのちを漏らすことなく救いたいという願いなのです。

その願いが私たち一人ひとりにかけられていることを改めて有り難くいただくことです。

阿弥陀如来さまの願いをしっかりと頂き、お念仏申しながら、我が身の有り様をふりかえる日暮しを送らせていただくことです。

真宗講座 親鸞聖人に見る「往相と還相」(1月前期)

では、獲信した者の証果はどうなるのでしょうか。

この証果の問題では、まず往相の証果に関しては『証巻』冒頭の文、

「然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。

正定聚ら住するが故に、必ず滅度に至る」

「現生に正定聚のくらゐに住して、かならず真実報土にいたる。

これは阿弥陀如来の往相廻向の真因なるがゆへに無上涅槃のさとりをひらく」

この点を示し、還相の証果に関しては、

「大涅槃を証することは、願力の回向に籍りてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり」

と述べられます。

ここで

「証果」

の問題に関して、ある一点に特に注意する必要があります。

それは、阿弥陀仏の二種の廻向としての往相と還相と、その二種の廻向を獲得した衆生の往相と還相についてです。

阿弥陀仏の二種の廻向は、阿弥陀仏自身が往相し還相するのではなく、衆生を浄土に往生せしめると共に浄土から還相せしめるための二種の廻向です。

そうであるからこそ、その二種の廻向を獲得した衆生が往相し還相するのです。

これは極めて当然のことであって、ことさら取り上げるほどのことではないと思われます。

ところが、不思議なことに、今日まで二種の廻向を獲得した衆生の往相と還相がほとんど問題にされてはきませんでした。

いったいこの現実の世における、正定聚の機の往相の仏道とは何であり、また還相の菩薩に見る行道とは何なのでしょうか。

ここで

「信巻」

における欲生釈の『浄土論註』の引文に着目してみます。

この文は

「浄土論に曰く。云何が廻向したまへる」

という言葉では始まります。

この文は、この引文の先に引用されている本願成就の文に続いているので、この

「廻向したまへる」

は本願成就文の

「至心廻向したまへり」

を承け、この廻向は

「阿弥陀仏の廻向」

を指していることは明らかです。

したがって次の

「一切苦悩の衆生を捨てずして」から

「一つには往相二つには還相なり」

までの文意は当然、阿弥陀仏の廻向の内実を示していると解されます。

では、この文に続く次の言葉、

往相とは、己が功徳をもって一切衆生に廻施したまひて、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり。

還相とは、彼の土に生じ已はりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に廻入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かへしめたまふなり。

は、どのように理解すべきでしょうか。

ここで、往相・還相のいずれにも、

「共に」

という語句が見られることに注意したいと思います。

往相とは自分と共にその衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめることであり、還相とは浄土に生まれた教化地の菩薩が再びこの穢土に還来し、衆生を教化して共に仏道に向かわしめることです。

そうすると、この行為者は阿弥陀仏ではなくなります。

ここにみる廻向の行は、阿弥陀仏が衆生を往相・還相せしめるはたらきではなく、その

「二種の廻向」

を獲得した行者の往相・還相の廻向でなければならないのです。

この「信巻」引文の『浄土論註』の文は、往相の部分が

「行巻」に、還相の部分が

「証巻」に引用されることになります。

「信巻」で往相と還相が同時に引用されるのは、獲信の衆生には、如来二種の廻向が同時に廻施されるため、獲信者の心には往相と還相が常に同時に重なっていなければならないのです。

それに対して、

「行巻」は衆生の往相の行が問題なのであり、

「証巻」は還相者の行が問題になります。

そこで、以下各巻に示される二種廻向と衆生の関係を問題にします。

親鸞・去来篇1月(1)

遠くで、夜明けの鶏(とり)の声がする――

しかし、顔をあげてみると、まだ外は暗いのであった。

ジ、ジ、ジ……と燈りの蝋(ろう)涙(るい)が泣くように消えかかる。

その明滅する燈(ともし)火(び)の光が、廟(びょう)の古びた壁にゆらゆらうごいた。

「?……」

夜明けまでのもう一刻(いっとき)をと、しずかに瞑想(めいそう)していた範宴は、ふと、太子の御(み)霊廟(たまや)にちかい一方の古壁に何やら無数の蜘蛛(くも)のようにうごめいているものをみいだして眸(ひとみ)を吸いつけられていた。

燈(あか)灯(し)が消えかかるので、彼はそっと掌(て)で風をかこいながら、そこの壁ぎわまで進んで行った。

見ると、誰が書いたのか、年経た墨のあとが、壁の古びと共に、消えのこっていて、じっと、眼をこらせば、かすかにこう読まれる――

日域(にちいき)は大乗相応の地たり

あきらかに聴け

諦(あきら)かに聴け

我が教令を

汝の命根まさに十余歳なるべし

命終りて

速かに浄土に入らん

善信、善信、真の菩薩(ぼさつ)

幾たびか口のうちで範宴はくりかえして読んだ。

そして、

(誰の筆か?)と考えた。

弘法大師や、また自分のような一学僧や、そのほかにも、幾多の迷える雲水が、この廟(びょう)に参籠したにちがいない。

それらのうちの何者かが、書き残して行った字句にはちがいない。

けれど、範宴のこころに、その数行の文字は、決して偶然のものには思えなかった。

七日七夜、彼が死に身になって向っていた聖徳太子の御声(みこえ)でなくてなんであろう。

自己の必死な思念に答えてくれた霊示にちがいないと思った。

闇夜に一つの光を見たように、範宴は、文字へ眸(ひとみ)を焦(や)きつけた。

わけても、

汝の命根まさに十余歳なるべし

とは明らかに自分のことではないか。

指をくれば、かぞえ年二十一歳の自分にちょうどその辞句は当てはまる。

しかも、

命終りて――

とは何の霊示ぞ。

迷愚の十余歳は、こよいかぎり死んだ身ぞという太子のおことばか。

「――日域は大乗相応の地たり……日域は大乗相応の地たり。

ああ、この日(ひ)の本(もと)に、われを生ましめたもうという御使命の声が胸にこたえる。

そうだ……自分はゆうべ、法印へ向って、死の気もちがあることまで打ち明けた。

太子は、死せよと仰っしゃるのだ。

そして迷愚の殻(から)を脱いだ誕生(たんじょう)身(しん)に立ち回(かえ)って、わが教令を、この日の本に布(し)けよと自分へ仰っしゃるのだ」

もう、戸外(そと)には、小禽(ことり)がチチと啼(な)いていた。

紙燭のろうがとぼりきれると共に、朝は白々とあけて、御葉山(みはやま)の丘の針葉樹に、若い太陽(ひ)の光がチカチカと輝(かがや)いていた。

「お寺では、法要・仏事以外にどのようなことが出来るのですか?」

お寺へ足を運ぶ機会というと、年忌の法事やお彼岸などの各法要、あるいはお墓や納骨堂を寺院内にお持ちの方はそのお参りなど、多くの場合参拝を目当てとしてお寺に足を運ぶ方が多いのではないでしょうか。

浄土真宗における寺院とは、

「聞法の道場」

とも言われるように、仏法を聞かせていただく場であり、私たちのお聴聞する姿勢を大切にします。

また人々の信仰の空間、礼拝の場所であることは言うまでもありません。

各寺院には、仏教婦人会(仏婦)や仏教壮年会(仏壮)など、同じ浄土真宗のみ教えのもとに集う同朋(とも)として、役職や肩書きを問わず様々な立場の方が集まり、寺院の法要や行事など、それぞれにご協力、関わりをいただいていることです。

近頃は、お寺を舞台にしてジャズや吹奏楽などのコンサート、落語の寄席、その他にもフリーマーケットやワークショップ、カフェなど、今までのお寺のイメージを覆すような様々な形のイベントを開催する寺院も多くあります。

その企画や運営に携わることで少なからず仏教に出会い、今までの価値観や考え方に変化が生まれ、仏教の、浄土真宗の教えを生きる基盤として、新たな気付きをいただく方も多くいらっしゃいます。

そもそも寺院のあり方とは、風景や伝統建築物としてそこにあるのではなく、人々の生活に密着し、人が行き来し、心の依りどころ、地域の中心として多くのことを発信してこそ身近であり、またそうあるべきであると考えます。

もちろん信仰の場所であり、そのねらいを外してはなりませんが、従来の伝統や固定観念ばかりに固執していては、やはりお寺は今のまま敷居が高く、世間の意識とかけ離れた中で寺院も僧侶も孤立し、今以上にお寺離れが進行していくのは明らかなような気もします。

仏事、法要以外にも、あ、お寺でもこんなことができるんだというところを私たちお寺をお預かりする僧侶こそ工夫を凝らし、ご門徒の皆さまの思いや声をその輪の中で共に聞き、考え、一緒に取り組んでいく姿勢を大切にしなければと改めて思うことです。

「かごしまの『世間遺産』はおもしろい」(上旬)「記憶」は地域の大事な宝物

ご講師:東川隆太郎さん(NPO法人まちづくり地域フォーラムかごしま探検の会代表理事)

鹿児島といえば、温泉があり、火山があり、観光地もたくさんあって、食べ物も安くて美味しい、とてもよい所です。

でも、それだけでない世界が広がっているように私には思えます。

今日ご紹介する『世間遺産』は、みなさんの生活空間とか、お住まいになっている地域なんかの身近なものが含まれています。

「あれならおいもしっちょっど(あれなら、私も知っていますよ)」

というのも出てくるかもしれません。

でも、そこに意味や価値があると思うんですね。

新しい鹿児島の遊び方の選択肢。

鹿児島にはまだまだこんなにも魅力が、見どころがたくさんあるんですよ。

みなさんの地域には、こんなにも宝物があるんですよ。

そんなお話をさせて頂きたいと思います。

私は

「かごしま探検の会」

というNPO法人の代表をさせて頂いております。

12年前、私は

「鹿児島丸ごと博物館」

というのを作りたいと思っていました。

それは、新しい建物を造るということではなく、見立てなんですよ。

自分たちの地域、自分たちの校区、自分たちの町内会、自分たちのシマ、それを1つの博物館に見立てましょう。

屋根のない博物館。

こういう状況を造って、遊びの場、学びの場を広げていこうといういうのが、かごしま探検の会を立ち上げたときに考えていたことなんですね。

従来の博物館の場合、まず建物があります。

その建物の中には昔の人が使っていた道具だとか、古文書、そういう収集品が並んでいます。

そしてもう1つ、それらを管理する学芸員や専門家がいます。

ところが、地域丸ごと博物館には建物はありません。

その役割を果たすのは町内会や校区といった

「領域」

になります。

その場合、領域は関わる人によって大きくもなり、小さくもなり、自由自在なんですよ。

そして、収集品と同じ役割をするのが、その領域の中に点在する遺産ということになる訳です。

例えば、神社やお寺といった、いろんな

「文化財」がありますね。

そして、川・山・湖などのきれいな

「風景」も含まれます。

さらには「記憶」です。

それぞれの地域には、長年その地に住まわれ、昔のことをよく知っておられる高齢の方がたくさんいらっしゃいます。

そういう方々が覚えておられるる知恵や知識、または昔の民謡、言葉、言い伝えなど、それらの記憶はまさに宝物なんです。

記憶や歌というのは目に見える物ではありません。

でも、これを拾い集めて記憶したり、あるいは話にすることによって伝わるんですよね。

それも、私は地域の大事な宝物だと思っています。

特に、この「記憶」はたくさんあります。

この活動を始めたとき、それぞれの地域のみなさんは

「うちの地域には何もなかよ、隣の地域に行きやんせ(私の地域には何もありませんよ、隣の地域に行ってください)」

と言われました。

でも、どこの地域にもいろんな歴史があります。

例えば、田んぼがあり、川があります。

川には名前がついていますよね。

なんでその名前になったのかという由来こそがまさに、宝物なんですよ。

田んぼにしても、今までその田んぼをずっと作ってこられた先祖の方がいらっしゃいます。

それらを作られた先人の方、そういう話も実は大事だったりするんですね。

そういう遺産記憶をたくさん見つけてくる。

それがまさに

「世間遺産」と呼んでいるものの1つなんですね。

親鸞・去来篇 12月(10)

「はての……普請の経堂の中でする声らしい。……ちょっと見てきましょう」

法印は、外へ出て、経堂のほうへ出て行ったが、やがて、しばらくすると戻ってきて、

「世間には、悪い奴が絶えぬ」

と義憤の眼を燃やしながら、範宴へいうのであった。

「若い女でも誘拐(かどわ)かしてきたのですか」

「そうです。――行ってみると、野武士ていの男が、経堂の柱に、ひとりの女を縛り付け。凄(すご)文句(もんく)をならべていましたが、どうしても、女が素直な返辞をしないために、腕ずくで従わせようとしているのでした」

「この附近にも、野盗が横行するとみえますな」

「いや、どこか、他国の者らしいのです。私が、声をかけると、賊は、よほど大胆なやつとみえて、驚きもせず、おれは天城四郎という大盗だとみずから名乗りました」

「えっ、天城四郎ですって?」

「ごぞんじですか」

「聞いて居ます。どこの街道へもあらわれる男で、うわべは柔和にみえますが、おそろしい兇暴な人間です」

「――と思って、私も、怪我をしてはつまらないと思い、わざとていねいに、ここは清浄な仏地であるから、ここで悪業することだけはやめてくれと頼みますと、天城四郎はせせら笑って、さほどにいうならば、まず第一に、醜汚(しゅうお)な坊主どもから先に追い退けなければ、仏地を真の清浄界とはいわれまい。坊主が、偽面をかぶって醜汚な行いをつつんでいるのと、俺たちが素面のままでやりたいと思うことをやるのと、どっちが、人間として正直か――などと理窟をならべるのです。これには、私もちと返答にこまりました」

「そして……どうしました」

「理窟はいうものの、やはり、賊にも本心には怯むものがあるとみえ、それを捨て科白(ぜりふ)に、ふたたび、女を引っ張って、どこへともなく立ち去りました」

「では、その女というのは、十九か、二十歳ほどの、京都ふうの愛くるしい娘ではありませんでしたか」

「よく見えませんでしたが、天城四郎は、梢、梢と呼んでいたようです」

「あっ、それでは、やはり……」

範宴は、弟の愛人が、まだ弟に思慕をもちつつ、賊の四郎に反抗し、彼の強迫と闘っている悲惨なすがたを胸にえがいて、たえられない不愍(ふびん)さを感じた。

「どの方角へ行きましたか」

彼は、そういって、立ちかけたが、衰えている肉体は、朽ち木のようにすぐ膝を折ってよろめいてしまうのであった。

法印は、抱きささえて、

「賊を追ってゆくおつもりですか。およしなさい、一人の女を救うために、貴重な体で追いかけても、風のような賊の足に追いつくものではありません」

「ああ……」

涙こそ流さないが、範宴は全身の悲しみを投げだして、氷のような大床(おおゆか)へうつ伏してしまった。

自分の無力が自分を責めるのであった。

弟はあれで救われたといえようか。

弟の女は、どうなってゆくのだろうか。

裁く力のない者に裁かれた者の不幸さが思いやられる。

「――もうやがて夜が明けましょう。範宴どの、またあすの朝お目にかかります」

燈りだけをそこにおいて、聖覚法印は、木履(ぽくり)の音をさせて、ことことと立ち去った。