投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

親鸞・去来篇1月(1)

遠くで、夜明けの鶏(とり)の声がする――

しかし、顔をあげてみると、まだ外は暗いのであった。

ジ、ジ、ジ……と燈りの蝋(ろう)涙(るい)が泣くように消えかかる。

その明滅する燈(ともし)火(び)の光が、廟(びょう)の古びた壁にゆらゆらうごいた。

「?……」

夜明けまでのもう一刻(いっとき)をと、しずかに瞑想(めいそう)していた範宴は、ふと、太子の御(み)霊廟(たまや)にちかい一方の古壁に何やら無数の蜘蛛(くも)のようにうごめいているものをみいだして眸(ひとみ)を吸いつけられていた。

燈(あか)灯(し)が消えかかるので、彼はそっと掌(て)で風をかこいながら、そこの壁ぎわまで進んで行った。

見ると、誰が書いたのか、年経た墨のあとが、壁の古びと共に、消えのこっていて、じっと、眼をこらせば、かすかにこう読まれる――

日域(にちいき)は大乗相応の地たり

あきらかに聴け

諦(あきら)かに聴け

我が教令を

汝の命根まさに十余歳なるべし

命終りて

速かに浄土に入らん

善信、善信、真の菩薩(ぼさつ)

幾たびか口のうちで範宴はくりかえして読んだ。

そして、

(誰の筆か?)と考えた。

弘法大師や、また自分のような一学僧や、そのほかにも、幾多の迷える雲水が、この廟(びょう)に参籠したにちがいない。

それらのうちの何者かが、書き残して行った字句にはちがいない。

けれど、範宴のこころに、その数行の文字は、決して偶然のものには思えなかった。

七日七夜、彼が死に身になって向っていた聖徳太子の御声(みこえ)でなくてなんであろう。

自己の必死な思念に答えてくれた霊示にちがいないと思った。

闇夜に一つの光を見たように、範宴は、文字へ眸(ひとみ)を焦(や)きつけた。

わけても、

汝の命根まさに十余歳なるべし

とは明らかに自分のことではないか。

指をくれば、かぞえ年二十一歳の自分にちょうどその辞句は当てはまる。

しかも、

命終りて――

とは何の霊示ぞ。

迷愚の十余歳は、こよいかぎり死んだ身ぞという太子のおことばか。

「――日域は大乗相応の地たり……日域は大乗相応の地たり。

ああ、この日(ひ)の本(もと)に、われを生ましめたもうという御使命の声が胸にこたえる。

そうだ……自分はゆうべ、法印へ向って、死の気もちがあることまで打ち明けた。

太子は、死せよと仰っしゃるのだ。

そして迷愚の殻(から)を脱いだ誕生(たんじょう)身(しん)に立ち回(かえ)って、わが教令を、この日の本に布(し)けよと自分へ仰っしゃるのだ」

もう、戸外(そと)には、小禽(ことり)がチチと啼(な)いていた。

紙燭のろうがとぼりきれると共に、朝は白々とあけて、御葉山(みはやま)の丘の針葉樹に、若い太陽(ひ)の光がチカチカと輝(かがや)いていた。

「お寺では、法要・仏事以外にどのようなことが出来るのですか?」

お寺へ足を運ぶ機会というと、年忌の法事やお彼岸などの各法要、あるいはお墓や納骨堂を寺院内にお持ちの方はそのお参りなど、多くの場合参拝を目当てとしてお寺に足を運ぶ方が多いのではないでしょうか。

浄土真宗における寺院とは、

「聞法の道場」

とも言われるように、仏法を聞かせていただく場であり、私たちのお聴聞する姿勢を大切にします。

また人々の信仰の空間、礼拝の場所であることは言うまでもありません。

各寺院には、仏教婦人会(仏婦)や仏教壮年会(仏壮)など、同じ浄土真宗のみ教えのもとに集う同朋(とも)として、役職や肩書きを問わず様々な立場の方が集まり、寺院の法要や行事など、それぞれにご協力、関わりをいただいていることです。

近頃は、お寺を舞台にしてジャズや吹奏楽などのコンサート、落語の寄席、その他にもフリーマーケットやワークショップ、カフェなど、今までのお寺のイメージを覆すような様々な形のイベントを開催する寺院も多くあります。

その企画や運営に携わることで少なからず仏教に出会い、今までの価値観や考え方に変化が生まれ、仏教の、浄土真宗の教えを生きる基盤として、新たな気付きをいただく方も多くいらっしゃいます。

そもそも寺院のあり方とは、風景や伝統建築物としてそこにあるのではなく、人々の生活に密着し、人が行き来し、心の依りどころ、地域の中心として多くのことを発信してこそ身近であり、またそうあるべきであると考えます。

もちろん信仰の場所であり、そのねらいを外してはなりませんが、従来の伝統や固定観念ばかりに固執していては、やはりお寺は今のまま敷居が高く、世間の意識とかけ離れた中で寺院も僧侶も孤立し、今以上にお寺離れが進行していくのは明らかなような気もします。

仏事、法要以外にも、あ、お寺でもこんなことができるんだというところを私たちお寺をお預かりする僧侶こそ工夫を凝らし、ご門徒の皆さまの思いや声をその輪の中で共に聞き、考え、一緒に取り組んでいく姿勢を大切にしなければと改めて思うことです。

「かごしまの『世間遺産』はおもしろい」(上旬)「記憶」は地域の大事な宝物

ご講師:東川隆太郎さん(NPO法人まちづくり地域フォーラムかごしま探検の会代表理事)

鹿児島といえば、温泉があり、火山があり、観光地もたくさんあって、食べ物も安くて美味しい、とてもよい所です。

でも、それだけでない世界が広がっているように私には思えます。

今日ご紹介する『世間遺産』は、みなさんの生活空間とか、お住まいになっている地域なんかの身近なものが含まれています。

「あれならおいもしっちょっど(あれなら、私も知っていますよ)」

というのも出てくるかもしれません。

でも、そこに意味や価値があると思うんですね。

新しい鹿児島の遊び方の選択肢。

鹿児島にはまだまだこんなにも魅力が、見どころがたくさんあるんですよ。

みなさんの地域には、こんなにも宝物があるんですよ。

そんなお話をさせて頂きたいと思います。

私は

「かごしま探検の会」

というNPO法人の代表をさせて頂いております。

12年前、私は

「鹿児島丸ごと博物館」

というのを作りたいと思っていました。

それは、新しい建物を造るということではなく、見立てなんですよ。

自分たちの地域、自分たちの校区、自分たちの町内会、自分たちのシマ、それを1つの博物館に見立てましょう。

屋根のない博物館。

こういう状況を造って、遊びの場、学びの場を広げていこうといういうのが、かごしま探検の会を立ち上げたときに考えていたことなんですね。

従来の博物館の場合、まず建物があります。

その建物の中には昔の人が使っていた道具だとか、古文書、そういう収集品が並んでいます。

そしてもう1つ、それらを管理する学芸員や専門家がいます。

ところが、地域丸ごと博物館には建物はありません。

その役割を果たすのは町内会や校区といった

「領域」

になります。

その場合、領域は関わる人によって大きくもなり、小さくもなり、自由自在なんですよ。

そして、収集品と同じ役割をするのが、その領域の中に点在する遺産ということになる訳です。

例えば、神社やお寺といった、いろんな

「文化財」がありますね。

そして、川・山・湖などのきれいな

「風景」も含まれます。

さらには「記憶」です。

それぞれの地域には、長年その地に住まわれ、昔のことをよく知っておられる高齢の方がたくさんいらっしゃいます。

そういう方々が覚えておられるる知恵や知識、または昔の民謡、言葉、言い伝えなど、それらの記憶はまさに宝物なんです。

記憶や歌というのは目に見える物ではありません。

でも、これを拾い集めて記憶したり、あるいは話にすることによって伝わるんですよね。

それも、私は地域の大事な宝物だと思っています。

特に、この「記憶」はたくさんあります。

この活動を始めたとき、それぞれの地域のみなさんは

「うちの地域には何もなかよ、隣の地域に行きやんせ(私の地域には何もありませんよ、隣の地域に行ってください)」

と言われました。

でも、どこの地域にもいろんな歴史があります。

例えば、田んぼがあり、川があります。

川には名前がついていますよね。

なんでその名前になったのかという由来こそがまさに、宝物なんですよ。

田んぼにしても、今までその田んぼをずっと作ってこられた先祖の方がいらっしゃいます。

それらを作られた先人の方、そういう話も実は大事だったりするんですね。

そういう遺産記憶をたくさん見つけてくる。

それがまさに

「世間遺産」と呼んでいるものの1つなんですね。

親鸞・去来篇 12月(10)

「はての……普請の経堂の中でする声らしい。……ちょっと見てきましょう」

法印は、外へ出て、経堂のほうへ出て行ったが、やがて、しばらくすると戻ってきて、

「世間には、悪い奴が絶えぬ」

と義憤の眼を燃やしながら、範宴へいうのであった。

「若い女でも誘拐(かどわ)かしてきたのですか」

「そうです。――行ってみると、野武士ていの男が、経堂の柱に、ひとりの女を縛り付け。凄(すご)文句(もんく)をならべていましたが、どうしても、女が素直な返辞をしないために、腕ずくで従わせようとしているのでした」

「この附近にも、野盗が横行するとみえますな」

「いや、どこか、他国の者らしいのです。私が、声をかけると、賊は、よほど大胆なやつとみえて、驚きもせず、おれは天城四郎という大盗だとみずから名乗りました」

「えっ、天城四郎ですって?」

「ごぞんじですか」

「聞いて居ます。どこの街道へもあらわれる男で、うわべは柔和にみえますが、おそろしい兇暴な人間です」

「――と思って、私も、怪我をしてはつまらないと思い、わざとていねいに、ここは清浄な仏地であるから、ここで悪業することだけはやめてくれと頼みますと、天城四郎はせせら笑って、さほどにいうならば、まず第一に、醜汚(しゅうお)な坊主どもから先に追い退けなければ、仏地を真の清浄界とはいわれまい。坊主が、偽面をかぶって醜汚な行いをつつんでいるのと、俺たちが素面のままでやりたいと思うことをやるのと、どっちが、人間として正直か――などと理窟をならべるのです。これには、私もちと返答にこまりました」

「そして……どうしました」

「理窟はいうものの、やはり、賊にも本心には怯むものがあるとみえ、それを捨て科白(ぜりふ)に、ふたたび、女を引っ張って、どこへともなく立ち去りました」

「では、その女というのは、十九か、二十歳ほどの、京都ふうの愛くるしい娘ではありませんでしたか」

「よく見えませんでしたが、天城四郎は、梢、梢と呼んでいたようです」

「あっ、それでは、やはり……」

範宴は、弟の愛人が、まだ弟に思慕をもちつつ、賊の四郎に反抗し、彼の強迫と闘っている悲惨なすがたを胸にえがいて、たえられない不愍(ふびん)さを感じた。

「どの方角へ行きましたか」

彼は、そういって、立ちかけたが、衰えている肉体は、朽ち木のようにすぐ膝を折ってよろめいてしまうのであった。

法印は、抱きささえて、

「賊を追ってゆくおつもりですか。およしなさい、一人の女を救うために、貴重な体で追いかけても、風のような賊の足に追いつくものではありません」

「ああ……」

涙こそ流さないが、範宴は全身の悲しみを投げだして、氷のような大床(おおゆか)へうつ伏してしまった。

自分の無力が自分を責めるのであった。

弟はあれで救われたといえようか。

弟の女は、どうなってゆくのだろうか。

裁く力のない者に裁かれた者の不幸さが思いやられる。

「――もうやがて夜が明けましょう。範宴どの、またあすの朝お目にかかります」

燈りだけをそこにおいて、聖覚法印は、木履(ぽくり)の音をさせて、ことことと立ち去った。

親鸞・去来篇 12月(9)

「迷える者と、迷える者とが、ここで、ゆくりなくお目にかかるというのも、太子のおひきあわせというものでしょう」

聖覚法印は、語りやまないで、語りゆくほど、ことばに熱をおびてきた。

「いったい、今の叡山の人々が、何を信念に安住していられるのか、私にはふしぎでならない。――僧正の位階とか、金襴(きんらん)のほこりとかなら、むしろ、もっと赤裸な俗人になって、金でも、栄誉でも、気がねなく争ったがよいし、学問を競うなら、学者で立つがよいし、職業としてなら、他人に、五戒だの精進堅固などを強いるにも及ぶまい、また、強いる権能もないわけではありませんか」

範宴は、黙然とうなずいた。

「あなたは、どう思う。おもてには、静浄を装って、救世(ぐせ)を口にしながら、山を下りれば、俗人以上に、酒色をぬすみ、事があれば、太刀薙刀をふるって、暴力で仏法の権威を認めさせようとする。

――平安期のころ、仏徒の腐敗をなげいて、伝教大師が、叡山をひらき、あまねく日本の仏界を照らした光は、もう油がきれてしまったのでしょう、現状の叡山は、もはや、真摯な者にとっては、立命の地でもなし、安住の域でもありません。

……で、私は、迷って出たのです。

しかし実社会に接して、なまなましい現世の人たちの苦悩を見、逸楽を見、流々転相(るるてんそう)のあわただしさをあまりに見てしまうと、私のような智の浅いものには、魚に河が見えないように、よけいに昏迷してしまうばかりで、ほとんど、何ひとつ、把握することができないのであります」

法印の声は、切実であった。

若い範宴は、感激のあまり、思わず彼の手をにぎって、

「聖覚どの。あなたがいわるることは、いちいち私のいおうとするところと同じです。二人は、ほとんど同じ苦悶をもって同じ迷路へさまよってきたのでした」

「七日七夜の参籠で、範宴どのは、何を得られたか」

「何も得ません。飢えと寒気だけでした。――ただ、あなたという同じ悩みをもつ人を見出して、こういう苦悶は自分のみではないということを知りました」

「私はそれが唯一のみやげです。あしたは叡福寺を立とうと思うが、もう叡山には帰らないつもりです」

「して、これから、どこへさして行かれるか」

「あいはない……」

聖覚はうつ向いて、さびしげに、

「ただ、まことの師をたずねて、まことの道を探して歩く。――それが生涯果てのない道であっても……」

二人の若い弥陀の弟子たちは、じっと、そばにある紙燭の消えかかる灯を見つめていた。

すると、更けた夜気を裂いて、どこかで、かなしげな女のさけび声がながれ、やがて、嗚咽(おえつ)するような声にかわって、しゅくしゅくと、いつまでも、泣きつづけている――

「はて、怪しい声がする」

範宴が、面をあげると、聖覚法印も立ちあがって、

「どこでしょう、この霊地に、女の泣き声などするはずがないが……」

と、縁へ顔を出して、白い冬の夜を見まわした。

親鸞・去来篇 12月(8)

「……お気がつかれたか」

と、その人はいう。

範宴は、自分の凍えている体を、温い両手で抱いてくれている人を、誰であろうかと、半ば、あやしみながら瞳をあげて見た。

「お……」

彼は、びっくりして叫んだ。

「あなたは、叡山の竹林房静厳の御弟子、安居院(あごい)の法印聖覚どのではありませんか」

「そうです」

法印は微笑して、

「去年(こぞ)の秋ごろから、私も、すこし現状の仏法に、疑問をもちだして、ただ一人で、叡山を下りこの磯長の叡福寺に、ずっと逗留していたのです。……でもあなたの、剛気には驚きました。こんな、無理な修行をしては、体をこわしてしまいますぞ」

「ありがとう存じます……。じゃ私は、気を失っていたものとみえます」

「よそながら、私が注意しいていたからよいが、さもなくて、夜明けまで、こうしていたら、おそらく、凍死してしまったでしょう」

「いっそ死んだほうが、よかったかも知れません」

「なにをいうのです。人一倍、剛気なあなたが、自殺をのぞんでいるのですか、そんな意志のよわいお方とは思わなかった」

「つい、本音を吐いて恥しく思います。しかし、いくら思念しても苦行しても、蒙(もう)のひらき得ない凡質が、生なか大智をもとめてのたうちまわっているのは、自分でもたまらない苦悶ですし、世間にも、無用の人間です。そういう意味で、死んでも、生きていても、同じだと思うのです」

範宴の痛切なことばが切れると、聖覚法印は、うしろへ持ってきている食器を彼のまえに並べて、

「あたたかいうちに、粥でも一口おあがりなさい。それから話しましょう」

「七日のおちかを立てて、参籠したのですから、ご好意は謝しますが、粥は頂戴いたしません」

「今夜で、その満七日ではありませんか。――もう夜半(よなか)をすぎていますから、八日の暁(あさ)です。冷めないうちに、召しあがってください、そして、力をつけてから、あなたの必死なお気もちをうかがい、私も、話したいと思いますから……」

そういわれて、範宴は、初めて、椀を押しいただいた。

うすい温(ぬる)湯(ゆ)のような粥であったが、食物が胃へながれこむと、全身はにわかに、火のようなほてりを覚えてきた。

叡山の静厳には、範宴も師事したことがあるので、その高足(こうそく)の聖覚法印とは、常に見知っていたし、また、山の大講堂などで智弁をふるう法印の才には、ひそかに、敬慕をもっていた。

この人ならばと、範宴は、ぞんぶんに、自分のなやみも打ち明ける気になれた。

聖覚もやはり彼に似た懐疑者のひとりであって、どうしても、叡山の現状には、安心と決定(けつじょう)ができないために、一時は、ちかごろ支那から帰朝した栄西禅師のところへ走ったが、そこでも、求道の光がつかめないので、あなたこなた、漂泊(ひょうはく)したあげくに、去年の秋から、磯長(しなが)に来て無為の日を送っているのであると話した。