投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人における信の構造」10月(後期)

 親鸞聖人は『涅槃経』によって、人間として最も大切な心を

「慚愧(ざんぎ)」

だと捉えておられます。

「慚」も「愧」も共に「恥じる」という心ですが、では仏教的に

「恥じる」

とはどのような心なのでしょうか。

「慚」とは、自分は絶対に「悪」をしない心であり、

「愧」とは、他人に「悪」をなさしめない心であるといわれます。

そして、慚愧の心のあるものが人なのであり、慚愧の心の無いものは人とは呼び得ないとされます。

ところで、この行為を自ら一心に実践するとき、人は初めてそれを完全に成し得ない自分に気付きます。

そうすると、ここでさらに自分を深く恥じらうことになります。

その心が「慚」です。

ところが、私たちはそのような

「恥じらい」

を持った人に出会うと、そのあまりの人徳の深さに打たれて、自分自身の姿の愚かさを恥じらうことになります。

これが「愧」です。

けれども、もし人間として、このような心が求められますと、人は誰もが

「自分こそ人として恥ずべき者だ」

と、自らを恥じらわずにはおれなくなります。

それが「慚」です。

このようにして、人は初めて、真実、無限に大いなるもの、(仏や神や天)に自分の愚かさを恥じらうのです。

この心が「愧」です。

今ここで、三種の「慚愧」が説明されていますが、この三種は漸次、慚愧の心をより深めています。

だとすれば、人としての第一歩は、自分は悪をしない、他人に悪をさせない、という人倫の道を歩むことであり、この真剣な実践によってのみ、人は真に無限に大いなる世界に出遇うことになるのだといわなくてはなりません。

先の

「二種深信」

は、まさにこのような慚愧の心から生まれるのであり、この

「二種深信」

によって、念仏者は真実、大行(弥陀廻向の大信心・南無阿弥陀仏)を獲信することが出来るのです。

では、信心を得た念仏者は、どのような日常生活を送るのでしょうか。

親鸞浄土教は「悪人」の往生を説かれますので、時にその思想は

「倫理性に欠ける」

という批判がなされることがありますが、決してそのように非倫理的な教えではありません。

むしろそれは逆であって、生活の中で厳しく倫理性が問われているからこそ、このように深い

「悪」

の自覚が生まれるのだといえます。

ただし、その悪の自覚が、そのまま仏の大悲に生かされている喜びと重なっているところに大きな特色があります。

慚慙する心が、自分自身を卑下させたり、惨めな思いに貶めたりするのではなく、深く慚慙しつつ、しかも念仏を喜ぶ力強い人生が、そこに導かれているのです。

このような人生こそ、念仏の教えによって開かれた生き方なのですから、獲信者の仏道はただ一つ、その念仏の喜びを他に伝えていくこと、念仏の喜びの場を広げていくことだと言えます。

「陶房雑話」(下旬) ローカルとローテク、これが私の21世紀のキーワード

 それで、私は韓国では一番下の身分とされていたキムチの甕(かめ)を作る工場へ飛び込みました。

そのときの言葉がまたすごい。

「韓国人が一週間持たない工場で日本人が三日持つものか」

と言われたんです。

私はここで逃げたら、一億二千万の日本人の顔に泥を塗ることになると思いました。

そこでは、午前二時から午後六時まで、住み込みで一年間頑張りました。

きつい仕事でしたが、韓国社会というものを上からではなく、底辺から見ることが出来たいい経験でした。

 そんな中、韓国で仕事をしながら思っていたのは、自分の故郷って本当にここなのだろうか、ということでした。

「十年経てば、山河も変わる」

と言いますが、やはり自分の故郷というのは、自分の家族なのではないかと、そう思ったのです。

 私は幼い頃から、父に

「人間には二つの生き方がある。

喉が渇いて水を探しに行く動物的生き方があれば、雨が降るまでずっと待ち続ける植物的生き方もある。

君は桜島の松のように、植物のように生きなさい。」

と言われて育ちました。

 つまり、鹿児島で根をはり、鹿児島で自らのベストを尽くし、ここで絶えるということです。

そして、そんな私に求められていることはなんだろうと考えたとき、やはり鹿児島というローカルであるということだと感じています。

 私は仕事の中で、もっと薩摩焼きの神髄を、そして鹿児島的なものを貪欲に追求していかなければならないと思っています。

京都や有田や備前の中途半端なまねをするのではなく、徹頭徹尾、薩摩であることが求められているのです。

 そして今、もう一つ求められていることは、このハイテクな時代の中で、ローテクであるということです。

ローテクというのは、人間の手仕事で物を作るということです。

 バーチャルという実態のない存在がたくさん生まれてきているインターネット大隆盛の中で、人間が手で物を作るんです。

それも五年や十年じゃない、長い年月訓練していかないとこういう仕事は出来ませんよ、という意味での質量感のある仕事をしなければなりません。

 ローカルとローテク、これが私の21世紀のキーワードになっています。

「お香は臭いので、焚きたくないのですが?」

 仏様にお供えするもの、例えば、ロウソクの明かりやお花などには、それぞれ一つひとつにお供えをすることの意味合いがきちんとあります。

その一つである「お香」にも、実は阿弥陀さまのお心を味わう大切な意味合いがあるのです。

 お香のいのちは、漂う香りです。

目には見えなくても、あるいは耳には聞こえなくても、お香の香りはそこに居合わせた人を誰かれと差別することなく、全ての人に等しくゆきわたります。

このことから、お香は阿弥陀さまの生きとし生けるものをわけへだてなくお救いくださる、広大なお慈悲の心になぞらえられています。

 確かに、体質的にお香の香りになじめないとか、もうもうと焚かれた時の煙が苦手という方が中にはいらっしゃるかもしれません。

特に安価なお香の場合は、清らかな香りよりも白煙だけが目立つこともあったりします。

そのため近頃は、お香を焚くと煙や匂いがこもるという理由からお焼香の変わりにお花を一輪お供えする「献華」という形式も見られるようになってきました。

 しかしながら、本来

「灯明」「お花」「お香」

が全てきちんと揃ってこそ、阿弥陀さまへのお供えと言えるのであり、またそれが正しいお仏壇のお荘厳、お飾りです。

お香をお供えするというそのことの意味をしっかりと受け止め、また深く味わっていただきたいものです。

 なお、ご家庭ではお線香を焚かれるのが一般的ですが、ご購入の際には少し高価でも香りの良いものをお選び下さい。

少量(一本、あるいは半分)でも、良い香りが漂うと煩悩にまみれた心が洗われて、清らかになるような気持ちになれるものです。

高校を卒業する時、

高校を卒業する時、

「将来はお年寄りと接する仕事がしたいんだ〜」

と言う友達の言葉に

「え〜、私は無理だなぁ。

知らないお年寄りと話をするのは苦手だし〜」

と言っていた私が、

今では老人ホームの事務員という立場でお年寄りの方と接する仕事に携わるようになって一年半程経ち、今ではすっかり、鹿児島弁を交えて楽しく会話している毎日です!

少し前のことですが…

ある利用者の方に、思いもかけないひとことを言われたことがありました。

「○○さん(私の名前)、最近はなんか腹を立てているような顔つきをしているね。」と。

それを聞いて、私はドキッとしました。

確かにその頃は、自分の中でいろいろな思いを抱え込み、仕事もうまくはかどらない時期でした。

それでも、利用者の方に対しては、普通に接しているつもりでいました。

「え〜、そんな事ないですよ」

と、その時は笑って言い逃れましたが、その後の私は利用者の方にそんなふうに思わせてしまった自分に腹がたち、泣きたい気持ちで一杯になりました。

その日は、家に帰ってからも思い悩み、その結果

「あの方だって、あんなことを言いたくなかったはずだ。

それを言わせてしまったのは私だ。

これじゃいけない。

気付かせてくださった事に感謝しよう。

そして職場では笑っていよう!」

と、気持ちを切り替えました。

その何日後か…。

いつものように利用者の方と

「おはようございます」

と挨拶を交わしていると、ある利用者の方から

「いつも元気だね〜。○○さんの笑顔を見ると元気が出るよ」

と言われました。

その瞬間、心がパァーっと明るくなりました。

そして思いました。

「これでいいんだ」と。

「私が笑顔で接すれば、利用者の方も自然と笑顔を返してくれる。

利用者の方も笑顔になる

ことで元気になる」

それって、

「とてもステキな事だ!」

と思いました。

私は、すぐに注意してくださった利用者の方の所に行って

「この前は、嫌な思いをさせてごめんなさい。

でも、気付かせてくださって、ありがとうございました。」

とお礼を言いました。

すると

「○○さんが笑っていないから、心配したんだよ。

○○さんは笑顔が一番似合うんだからね!」

と、笑顔で応えてくださいました。

お年寄りの方々と過ごしたこの一年半。

まだまだ、勉強の毎日です。

これまで私は、いったい何人の人の笑顔に助けられたのだろう。

また、私の笑顔で何人の人を笑顔にしてあげられたのだろう…。

今はまだ、助けられた人の数の方が多いと思います。

それは、お年寄りの方だけではなく、上司や同じ職員の人たちにも同様です。

そんな人たちに、これからも

「笑顔」と「感謝」

で対応できる自分でありたいと思う今日この頃です。

『わが思いどこまでも転ぶ仏手(みて)の中』

南無阿弥陀仏という仏さまは、そのはたらきから無量光、不可思議光、尽十方無碍光など、しばしば光の仏として表現されています。

それは、仏教では智慧(ちえ)を光のはたらきを通して説き明かそうとしていることによります。

これに対する、智慧のない姿は闇ということになります。

そこで、闇は私たちの愚痴(ぐち)を物語るものとしてとらえられています。

これは改めて言うまでもないことですが、闇にたとえられるあり方は、私たちの何を指し示しているかというと、手さぐりの生活です。

光が消えて真っ暗になると、私たち人間に出来ることは手さぐりだけです。

ここでいう手さぐりの生活とは、自分の手に触れたものだけを全てとし、よりどころとする生き方のことです。

言い換えると

「わが思い」

に凝り固まった生き方ということです。

自分の体験、自分の思想、自分の考え、自分の思い、そういうものだけをたよりとして生きて行くあり方が、闇として表される

「手さぐりの生活」

といことなのです。

したがって、仏教において問題にしている

「愚痴」

という迷いのあり方とは、決して何も知らないということではありません。

決して自分の体験を離れることが出来ない、また自分の考えを離れられないあり方のことです。

つまり、自分にとって都合のよいことだけを取り入れ、不都合なことは責任転嫁していくような、自身の現実の全てを直視して認めることの出来ない弱さを言い当てたもので、それを

「愚か」

という言葉で表しているわけです。

ですから、仏教で説いている

「智慧」

とは、何でもかんでも分かるということではありません。

そのような身勝手な自分の体験を超えられるということです。

自分の体験したことだけを絶対的なものとして、自分の思いだけを唯一正しいこととして生きている、そういう私のあり方を打ち破り、事実を事実として認め、その事実にしたがって生きて行ける力を、仏教では智慧という言葉で言い表しているのです。

 けれども、私たちはやはり自分の体験というものによりかかって生きようとします。

親子の間、世代間の断絶というものも、結局は体験の断絶に基づくものです。

そして、お互い一人ひとりが手さぐりの生活である限り、一緒にいても思いはバラバラで、そこには人と人とのつながりというものはありません。

なぜなら、わが思いに固執してお互い手さぐりで生きているからです。

 私たちは、仏さまの智慧によって、私の生き方の全体が手さぐりの生活であり、私が正しいと思っていることはどこまでも私の体験に過ぎないと気付くことができるのです。

つまり、智慧によって世の中の全体を見渡せるようになり、自分の立場というものを離れて一人の人間としての姿が見えてくるのです。

 人間というものの全体が見渡せるということは、実は自分のあり方の中に、いろいろな矛盾をみるということと同じです。

手さぐりの生活というのは、自分の体験は絶対であり、自分の考えは間違いないということで割り切っていて、自分というものに矛盾を感じることがありません。

ですから、闇の中にいる方が、言い換えると自分の思いに凝り固まっている方が安心しておれるのです。

それは、問題を抱えずに生きて行けるからです。

あるいは、うまくいかない時には、他人のせいにしたり、環境を恨んだりするなど、とにかく責任を周りに押しつけて、自分というものには畏れも持たずに生きていくことができるからです。

 このように、どこまでもわが思いによって転がり続ける私たちですが、そのような私を見捨てることなく、常に照らし、喚びかけて下さる仏さまが、南無阿弥陀仏という仏さまなのです。

その仏さまの願いは、はたらきは、ひとえに仏法を聞き続けるところに明らかになります。

「平常心」

「ビョウジョウシン」とも読みます。

平常とは、日常のことです。

のどが乾けばお茶を飲み、お腹が減れば食事をしたいと思う、そういうのびやかで堂々とした自然な心のありさまを平常心といいます。

とはいえ、我欲に翻弄されている私たちの心のありさまのことではありません。

我欲の根を断ち、自己の是非善悪からも離れた崇高な覚りの心境さえ超えた、崇高でありつつ日日常的な心境を打破して、実際の人の救いの現場に出ることを示す言葉です。

 その現場を

「平常心是れ道」

といいます。

これは、八世紀の中国の禅僧馬祖道一に発する語です。