投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人における信の構造」8月(中期)

「南無阿弥陀仏」

が仏から衆生への呼び声であるとすれば、

「南無阿弥陀仏」

と称えている念仏者は、すでに

「念仏して救われよ」

と願われている、阿弥陀仏の大悲に摂取されている者だといわなくてはなりません。

けれども愚かなる凡夫は、救いを求めて、苦しみ、悩み、もがいているにもかかわらず、未だ阿弥陀仏のこの大悲の真理に気付くことができません。

六角堂に百日籠もられた親鸞聖人は、まさしくこのような苦悩の中にあったと考えられます。

この親鸞聖人に対して法然聖人が、阿弥陀仏の大悲の真理に気付かせて下さったのです。

 『阿弥陀仏が親鸞を摂取するために「南無阿弥陀仏」となって親鸞の心に来たっている。

釈尊がこの世に出現されたのは、この念仏の真理を私たち衆生に知らしめるためである。

だからこそ、親鸞よ、ただ念仏して弥陀に救われよ。

と、法然聖人は説法されたのであり、親鸞聖人はこの教えを聞思することによって、はじめて阿弥陀仏の本願の真実を知らしめられたのです。

この真実を信知せしめられた瞬間が、親鸞聖人における

「獲信」

の時であり、ここに

「信心」

のみによる親鸞聖人の救いが成立したのです。

 では、ここで何が明らかになったのでしょうか。

親鸞聖人の思想の特徴は、

「信を得る」

という事態において、信を得さしめる

「行」

の主体と、信を得る

「信」

の主体は同一人ではなくて、その主体が異なっているということです。

迷っている者が、未だ迷いの中にいる限り、その迷いの行をいかに積み重ねても真実の信は生まれません。

同様に、迷える信によって、真実の行が行ぜられることもありえません。

迷える主体は、いかに努力しても、その迷える行から真実の信は生みえませんし、迷える信では一片の真実の行も実践することができません。

 親鸞聖人の大行の思想は、その点を解明されたのであって、私たち衆生は釈尊の

「浄土真実の行」

によって、阿弥陀仏の

「選択本願の行」

を信知せしめられるのです。

(註)「浄土真実の行」とは、釈尊が南無阿弥陀仏を称え、その念仏の真実を、釈尊の国土の衆生に説法する行為を意味します。

「選択本願の行」

とは、阿弥陀仏が

「南無阿弥陀仏」

を十方世界に響流し、その念仏についての諸仏の説法を通して、一切の衆生を直ちに摂取する行為を意味します。

「危うい未来」(中旬) 職場でも家でも締めつけられる

次に、私は最近あまりよく思っていないことがあります。

それは、本屋では万引きは犯罪だとか、タクシーでシートベルトをつけろというように、外から締めつけられることです。

そのように、何から何まで言われてその通りにするという状態は、しまいには人から言われないと動けなくなる、つまり精神を腐らせていくんじゃないかと思えてしまうんです。

そのくらい外からの締めつけが厳しいと感じています。

 例えば、先日起きた秋葉原の事件について、私は犯人を弁護する気持ちはありませんし、被害者は本当に気の毒だと思いますが、ああいうものもやはり日本の社会の閉塞感というか、さまざまな締めつけに原因があるんじゃないでしょうか。

 今の若い人は、職場でも家に帰っても、いろいろ言われて締めつけられています。

犯罪事件の原因に直接結びつけるつもりはありませんが、そういう閉塞感というのが、ものすごく大きいのではないでしょうか。

だから若い人が自由に動き回れるような社会の方が望ましいと思います。

 日本の社会もだんだん変質してきました。

私が中学一年の頃は、ちょうど太平洋戦争の終戦の時期でした。

その私たちの学校に進駐軍が

やってきまして、進駐軍が校舎半分くらいを使っていたわけです。

夜になると他の連中と一緒に進駐軍にまとわりついて、ラッキーストライクとかキャメルという煙草をもらったり、チョコレートをもらったりしていました。

 周りは焼け野原で、社会も大変な時代でしたが、明るい青空の下を歩いている感じがしていたんです。

ところが今曇天の中で、先行きがどうにも暗い感じがしますよ。

やっぱり先行きをもっと明るくしないといけません。

それには裁判官も検事も、警察官もマスコミも、そして個人も、もっと社会をよく見て、足元をしっかり固めていかないと、時代を担う若者にバトンタッチができないでしょう。

 そのためには、やっぱり個人個人が社会福祉、社会貢献ということに目を向けていくことが必要ではないかと思っております。

私たちの場合は

『夢の向こうに』

という本を75万冊発行して、これを小学校の希望者に無料で配布しています。

この本の中には、野球選手やその他の人がどのように人生を歩んできたかということが書かれています。

 プロ野球の各糾弾でそれぞれやることについて私たちは文句を言えませんが、全体として社会貢献を球団としてやってもらうということを基本としています。

それを私どもの組織として行っていることの一つが

『夢の向こうに』

という本を出して、子どもに少しでも野球に関心を持ってもらい、あるいはフェアプレイの精神を学んでもらうということになります。

 それから、子どもたちに野球をやってもらうことを目的として、毎年12球団のジュニアトーナメントという大会を開催しています。

福岡でやったこともありますし、北の方でもやりたいということで、去年は冬の最中なのに札幌ドームで開催しました。

このように、野球を通してスポーツマンシップを学んでもらうということをします。

 それで野球で利益が上がった場合には、その利益を震災などの災害支援に提供するなど、社会貢献をしていくわけです。

「お仏壇」のお飾りは、三具足(花・香炉・ローソク)?、五具足(花2、香炉、ローソク2)?

 本堂の内陣やご家庭のお仏壇にお飾りをすることを荘厳(しょうごん)と言います。

お仏壇にも輪灯や金灯籠など、いろいろな荘厳が施されていますが、常に私たちがお荘厳をするところに上卓(うわじょく)と前卓(まえじょく)があります。

上卓とはご本尊の前にある卓で四具足の荘厳を致します。

四具足とは華瓶(けびょう)一対と火舎(かしゃ)燭台(しょくだい)です。

前卓とは上卓の下の方にあるすこし大きい卓になります。

前卓には平常時は三具足のお荘厳を致します。

三具足とは花瓶(かひん)香炉(金香炉と土香炉)燭台です。

また、花瓶と燭台をそれぞれ一対にした形を五具足と言います。

五具足のお荘厳は、年忌法要や報恩講などの特別な時に用いますが、五具足にするときには、上卓には打敷(うちしき)を前卓には水引(みずひき)と打敷(うちしき)をかけるのがよいでしょう。

「愛嬌」

 一般に

「男は度胸、女は愛嬌(あいきょう)」

など、愛嬌といえば、にこやかで可愛らしいことや愛想のよいことを意味する言葉として知られています。

この

「愛嬌(あいきょう)」

は本来仏教語であった

「愛敬(あいぎょう)」

が転訛(てんか)したものです。

 「愛敬」とは

「いつくしみ敬う」

ことを意味する言葉で、仏や菩薩の表情を指し、柔和で慈悲深く、誰もが敬愛をせざるを得ない相を愛敬相といいます。

この愛想も、もともとは

「愛相」

「愛敬相」

から出た言葉です。

人の気をひこうとしてむやみに愛想をよくすることとは根本的に違います。

孔子の

「巧言令色、すくなし仁(うわぺを飾りたてることにのみ苦心して、内面の徳を充実させることに努力の足りない者は、ダメな人間だ)」

という言葉が思い起こされます。

今年九州南部は平年より一週間早く、去年より12日も早く梅雨明けしたそうです。

今年九州南部は平年より一週間早く、去年より12日も早く梅雨明けしたそうです。

そのことも影響したのでしょうか。

私の地域では昨年よりも雨量が極端に少なかったように感じます。

去年、大雨で私の家のすぐ近くの川が氾濫し、近所の多くの方々が床上・床下浸水の被害を受けました。

そういうこともあり雨量には特に気を付けていましたが、大雨にはならず近所の方々もひとまずホッとされていることと思われます。

 今年の夏は、特に「暑い」と感じます。

そう感じるのは私だけでしょうか。

これまではそこまで暑いと感じる日はあまりなかったのですが、今年の暑さはこれまでとは違うように感じています。

最近、テレビのニュースで

「地球温暖化」

の問題が多く取り上げられています。

世界各地で異常気象が数多く報告されていることも気になるところです。

7月に開催された洞爺湖サミットでは、地球温暖化対策のことも話し合われたようです。

全国の警察官の方々が北海道そして東京へも派遣され、九州各県からも多くの方々が出向されたようです。

余談ですが、私の知り合いの警察官は

「福岡からもたくさん派遣されて手薄になったので、今度は鹿児島から福岡に応援にいかなければならない」

と話をしていました。

地球温暖化のことを考え、自分で出来ることから始めようということで、できるだけクーラーをつけないで生活をしようと普段からこころがけています。

先日もクーラーをかけずになんとか扇風機と窓から入ってくる風で我慢していました。

ふと

「今、気温は何度だろうか」

と室内の温度計を見ると33度。

それまでなんとか我慢できていましたが、その温度を見た途端、どーっと疲れが出てきて、ついつい冷房のスイッチに手が伸びたことでした。

よくよく考えてみますと、冷房もなければ、冷蔵庫もなかった時には、当時の人々はあるがままを受け止め、暑い時は打ち水をしたり、いろんな知恵をしぼりながらその時その時を楽しみながら生きてきたことでしょう。

冷房機器という存在が当たり前になった今、生活レベルを落とすことはなかなかできることではありません。

しかしながら、そのなかでも子や孫の未来のためにも自分には何ができるのか、しっかりと考えていかなければなければならないと強く思うことです。

『後世を知らざるを愚者とす』

 この言葉、本願寺8代目の門主であります、蓮如上人の御文章(ごぶんしょう)に出てくる一節です。

前後を入れると

「それ、八万の宝蔵を知るといふとも、後世をしらざるを愚者とす。

たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを知者とすといへり。」

と述べておられます。

 今の言葉に意訳すると、

「たとえ、お釈迦様が説かれたあらゆる教えを知っていたとしても、後生の一大事(私のいのちの問題の解決)に無関心な人を、愚者(おろかもの)というべきであります。

また、文字も知らないような人であっても、いのちの問題の解決に心をかけているような人は智者と

いうべきであります。」

となります。

 そして、その後には、

「一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。」(意訳)

「(阿弥陀如来様の)信心の理由やその訳をしらなければ、(たとえ教えやありとあらゆる事を知っていたとしても)その人の人生において、その知識は何の役にも立たないことだと知らなくてはなりません。」

と続きます。

 蓮如上人は、智者と愚者の境界線は、”わたしの”いのちの問題に心をかけているか否かである。

そして、いのちの行き先をたずねようともしない人は、阿弥陀如来の信心に出会うこともなく、何のために生まれ何の為に生きているのか知らずに人生を終えていくような、空虚な人生を送るのだと仰っているのです。

 お釈迦様は、

「老・病・死」

という逃れられないいのちの姿を縁とされ、道を求めて出家し修行の旅に出られました。

遡ること2500年ほど前のことですが、人は今も変わらず、生・老・病・死の中を迷い生きています。

今を生きる私がどのようないのちを、どこに向かって生きていくのか、その方向、ベクトルを仏法に求め、阿弥陀如来の信心にたずねてまいりましょう。