投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人における信の構造」8月(後期)

親鸞聖人は「信巻」の冒頭で

「無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽実に獲ること難し」

と述べておられます。

仏教では

「信」

は初入であって最も易しく

「証」

は究極であるため難の中の難だとされるのですが、親鸞聖人はこの道理を逆転させて、証果を得るのは

「易」

であるが、弥陀の本願を信じることは

「難の中の難」

だと示しておられるからです。

 浄土真宗では、なぜ仏教の常識が逆転するのでしょうか。

自らの姿を愚悪の凡夫と捉えているからで、自分自身には仏になるための行も力も功徳も存在していません。

だからこそ、阿弥陀仏は私たちを往生せしめるために、私の心に阿弥陀仏の行と信の功徳の一切を廻向されます。

したがって私を仏果に至らしめる

「はたらき」

の一切は、阿弥陀仏の本願力によるのですから、衆生にとってこれほどの易行はありえません。

ただしその一切が阿弥陀仏の本願力に依るといわれても、愚かなる凡夫は、この本願力に直接触れることはできず、ましてや見ることは不可能です。

だとすれば、

「南無阿弥陀仏」

が、阿弥陀仏の本願力の躍動の相(すがた)だと教えられても、果たしてその真理を信じることができるかが問われます。

「難信」とは、この点を指しています。

ではその「信」は、どうすれば得られるのでしょうか。

善導大師によれば、

「二つの真実をごまかさないで見つめよ」

と教えられます。

一つは自分自身の真実の姿であり、他は阿弥陀仏の本願力の真実です。

では、自分自身の真実の姿の真実とは何でしょうか。

この自分の姿を善導大師は、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなし。

と、深く信ぜよと言われるのですが、

「深く信ぜよ」

とは、この自分の姿をごまかさないで、どこまでも厳しく見つめ、その実相を知れということを意味しています。

けれども、自分自身の姿が究極的に罪悪深重の凡夫だということは、実も誰も気付くことはできません。

なぜなら、人は誰もが自分を悪人だと見るのではなく、善人だと捉えているからです。

「危うい未来」(下旬)人間関係が冷たくなった今、何を

 こういう社会貢献の基本にあるのは、やっぱり宗教ですね。

仏教といわず、キリスト教といわず、イスラム教といわず、多くの宗教には共通のこととして、自分のことだけでなく他人のことも思いはかっていくという考え方が基本にあります。

これからは、そういう基本的なことを社会が中心になってやっていくことが、危うい未来を助ける最後の手段になるのではないかと思います。

空は暗く、雨が降りそうな今の時代ですけれど、それを打ち破るには、やはり他人を思いやるって、自分の足元を固めていくことで犯罪も減らしていくということしかありません。

 最近は殺人事件、特に家庭内の事件が多いようですが、そういう事件を起こす人は一度知覧に行って見てほしいですね。

特攻隊の人たちは、みんな自分の家族を大事にしていることがわかります。

だからちょっとあそこへ行って、あの人たちの遺書にふれてみたら、相当考え方が変わるんじゃないでしょうか。

 当時の国の政策をほめはしませんが、ああいう場所で個人の考え方を頭の中で練り直していれば、身勝手な犯罪も減っていくんじゃないかと思います。

 それから、今の世の中は周りから孤立しているのが目立ちますね。

お隣さんという意識がまったくないわけですよ。

「隣の人は何する人ぞ?」

ということですね。

私の住んでいるマンションでも、隣同士の人が同じエレベーターに乗っても、あいさつをしない人がいっぱいいるのです。

 それで、私の友だちが主宰して

「みんなであいさつをしよう会」

という会を立ち上げたんです。

私もその会に誘われまして、その一員になりました。

このように、私たちの社会は地球温暖化に反比例して、だんだんと人間関係が冷たくなっているのは間違いありません。

 この冷たくなっている人間関係をどうしたらもっと明るく出来るのでしょうか。

それはやっぱり、仏教に限らず宗教に関心を持って、ひとときでもみんなが同じ気持ちを共有して宗教的な気分に浸るということ。

 そして、一人ひとりが自分のことだけでなく、他の人を助けてあげるということが、人間の社会を温かくする一番の方法なのではないかと、私は思います。

「合掌・礼拝はいつしたらいいのでしょうか?」

 浄土真宗の合掌は十二通りある合掌の形の中の一番目、堅実心合掌を用いています。

これは両手を胸の前で合わせ、両指を綺麗に揃え、胸から45度傾けた形です。

このときに背筋はきちんと伸ばし、肘を張ることなく合掌するのがポイントです。

礼拝は合掌の姿勢から上半身を45度傾け合掌した手が地面に対して平行になるようにした姿勢で一瞬保持し、もとの姿勢に戻る事を言います。

ポイントとしては頭を下げるのではなく、上半身を傾ける事、慌てずゆっくりと動作を行うことです。

また合掌礼拝時には、必ずお念珠を手にし、

「南無阿弥陀仏」

とお念仏を声に出して称えます。

合掌をするときには両手にお念珠を通し、房を下にして親指と人差し指の間で軽く押さえて保持します。

次に

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

と必ず声に出してお念仏を一呼吸と半ぐらい称え、礼拝をいたします。

また、いつ行えばとの質問ですが、いつ行ってもいいですが、本堂や仏間への入退出時、お勤めの最初と最後には必ず合掌礼拝いたしましょう。

毎日暑い日が続きますね。

毎日暑い日が続きますね。

3月生まれの私ですが、夏が大好きです。

青々とした空と真っ白な入道雲、その下で太陽の恵みを一身に浴びながら咲いている向日葵(ひまわり)。

夏の景色は私に元気をくれます。

そして、何よりもせせらぎをBGMに木漏れ日の中で行う川遊びの気持ちのいいこと!

最高です。

小学生の頃、鹿児島市の慈眼寺公園内に流れている川でよく遊んでいました。

石を積み上げ、水の流れをせき止めたり、魚を見つけては服が濡れるのもかまわず追いかけたり…。

中でもザリガニはよくライバルでした。

見つけたときは嬉しいのですが、怖くて素手でさわることができないので、友だちや弟に捕まえてもらってばかりでした。

それから長いこと行っていませんが、

「今でもザリガニがいるのかな?」

と、ふと思うことがあります。

 環境汚染が進む中、この日本で安心して遊べる川はいくつ残されているのでしょうか。

今でもザリガニは待っていてくれるのでしょうか。

 いつか私も我が子と一緒に、澄んだきれいな水の中で、ありのままの自然を感じながら、また川で戯れたいな…、と思います。

 きれいな川を残していくためにも、まずは私にできることから始めていきたいです。

「知っている」

ことと、

「している」

ことは違うのですから。

『後世を知らざるを愚者とす』

「後世」というのは、読んで字の通り「後の世」、私がこのいのち終えた後に生まれゆく世界という意味です。

実は、この

「後世を知らざる人を愚者とす」

という言葉は対句的に述べられている文章の一節で、一方では

「後世を知る人を智者とす」

と示されています。

 つまり、自分がいのちを終えた後のことについて、知っている人は智慧のある人であり、知らない人は愚かな人だと言われている訳です。

このような意味で「後世」とは、私たちが人間として生きていく上で、まさに

「知るべきこと」

であり、したがってこのこと一つがはっきりすれば、人間として、いつ、どういう時にでも生きていけるのだと思われます。

けれども、もしこのことを知らなければ、長年学問を積み重ねて、どれほどの知識を身につけていたとしても、それは人間として生きている智慧を持っているとは言い難いと言われるのです。

 ところで、私たちは常に生の側から死を見ていますので、いつも死は霧の中にあるかのように、曖昧でぼんやりとしたものとしてしかとらえることができません。

また、自分の死後のことを考えても、あまり楽しくはありませんので、自分の死と向き合うということもほとんどありません。

 そのために、

「自分のいのちはいったい何処に向かっているのか」

といったようなことを真剣に問うということはなかなかしません。

そこで、仮に

「あなたはいつ死ぬかもしれませんよ。今のままで死ねますか」

と問われたとすると、大半の人は戸惑い、その問いの前にたたずんでしまうことになるのだと思われます。

 顧みますと、私たちはいつも生にとらわれ、死を恐れて、いろいろな不安を持ち、迷いを重ね、そのために時として迷信や俗信に惑わされて、未来に対する漠然とした焦りを抱えながら生きています。

そのような苦悩の根っこにあるものこそ、まさに生死にとらわれる心にほかなりません。

 「後世を知る」

ということは、自分のいのちを生と死の二つに見分けて、生に執着し、死を恐れる心を離れるあり方のことです。

それは、生活の中で、どれだけ行き詰まりを体験しても、そのすべてを受け止めながら生きる道を見いだしているということです。

 私たちは仏法に出遇えない限り

「後世を知る」

ということがないために、いつも生にとわれ、死をおそれながと、時には

「死に切れない」

と嘆くこともありますが、そのような人を愚者といわれるのです。

その一方、真の意味で仏法を聞くことを通して、死もまた私の身の事実として引き受け

「死に切れる」

ような今を生きる人のことを智者と語られているのだといえます。

「機嫌」

「機嫌(きげん)」をうかがう、取る、そこなうなど、日頃何気なく用いていますが、この言葉も仏教語の

「譏嫌」

に由来し、それが転訛(てんか)したものです。

「譏」はそしること、「嫌」は疑いきらうことを表します。

したがって、他人のそしり嫌うこと、世の人たちが嫌悪することを意味していました。

仏教の戒律に

「息世譏嫌戒(世の譏嫌を息むるの戒)」

という戒めがあります。

これは、行為そのものは罪悪ではありませんが、世の人たちからそしり嫌われないために制定されたものです。

この「譏嫌」が、「機嫌」と転訛して、意味・内容ともに転じた結果、不愉快なこと、時期・都合・起居・様子・安否・気分などと用いられるようになり、さらに

「機嫌が良い」

などと

「気持ちのよいこと」

の意味にまでなりました。